第十五章 再会
前に訪れた墓の裏手からは細長い歩道が延びていて、何度か左右に曲がりくねりながら小高い丘の上へと繋がっている。最上部には赤土が敷かれた上にベンチと落下除けの低い柵が備え付けられていて、下方に広がる墓地の全体が見渡せるようになっていた。
まっすぐ立った時計とそこから伸びる長い影が十七時を周囲に知らせている。その寡黙な知らせを背にした後姿がベンチに腰かけていて、柵の向こうに見える墓地と街並みをながめながら、傾きかけた夕日に照らされて橙色に染まった輪郭をこちらへと向けていた。
風が吹き向けた。初めて人間界に降りた日と比べると随分冷たくなっていて、そう遠くないうちに秋――命の衣替えの季節――の終わりが訪れることを告げている。
ベンチの下に積もっていた枯れ葉が、かさかさと音を立てながら土の上を滑った。その内の何枚かが私の足元によって行く手を遮られた気配を感じたらしい。座っていた人影が私に話しかけた。
「あと三十分くらいか」
「うん。合ってる」
「よかった。次からは残りの秒数じゃあなく、日時で教えてくれ」
計算が苦手なんだと、自嘲混じりの笑いを見せながらヒカルが私に顔を向けた。
いつもの顔に、いつものコートを着た、いつもの口調だった。
ただ、常日頃から長過ぎると思っていた前髪は両目に被らない程度には短くなっていて、それに合わせたのか無精ひげも綺麗に剃られていた。散髪にでも行ったのかと思ったが、剃刀にやられたらしい一筋の細い切り傷の跡が頬からあご先へと走っている様子から、どうやら両方とも自分で手入れしたようだ。
食材を切る鮮やかな手腕で、自分の顔も切ってしまうとは……
そんなくだらないことが頭の中を通り抜けてどうでもよいことリストの末尾を更新した。
「話したいことがあって、降りてきたの」
「話したいこと……か」
「ずっと言おうとしてて、でも忘れてたことを思い出したんだ」
「あぁ、そうか」
「うん。あのね、その、実は私はね……」
「笑子だろ」
どのように伝えれば信じてもらえるのかさんざん心の中で予行練習した成果が発揮される前に、ヒカルは私が話そうとした内容の先に立っていた。彼はいつの間にかベンチから立ち上がって、伸びをしながら私の方を向いている。
「……いつから気付いてたの」
「裏路地で声をかけられて振り向いたときからかな」
「最初から、なんだ」
「お前の笑顔を見間違えるほど半端な気持ちで好きになってない」
そう言うとヒカルはふらっと適当なところに視線を逸らした。
恥ずかしいならもっと違うセリフを考えておけばいいのに……
そう心中で呟いた私の視線も、ヒカルの足元を向いて上にあげられなかった。
カラスが五回か六回ほど鳴く間、互いに照れてしまって何も言えない時間が続いた。
「なぁ、俺はなんて呼んだらいいんだ? エミエルか、笑子か、それとも笑美か」
伏せていた私の頭の天辺にそんな質問が届いた。
エミエルは、マザーがつけてくれた天使の名前だ。
笑子は、両親がつけてくれた人間の名前だ。
笑美は、ヒカルがつけてくれた天使と人間を繋ぐ名前だ。
どれかを選ぶとどれかを捨てるような気がして、私も迷った。
だけど、そのままだと結局どれも宙に浮いてしまう気がして、笑美を選んだ。
「言ってくれればよかったのに」
「覚えてないみたいだったからさ。それなのに『よぉ、久しぶり』……なんて言っても変な奴に思われるだけだからな」
「たしかに、そうかもしれないね」
「全部思い出したのか」
「ううん。最後に病室で話していた時のことだけ」
「そうか。9月23日だよ」
変な感じだがそれが私の命日らしい。
「一か月ずらして、私のお墓参りに来てたんだね」
「俺に気を遣って二人きりにしたから笑美の最期を見られなかったんだ。墓参りの場だろうとだろうとなんだろうと……お前の両親は、俺とは顔を合わせたくないだろうよ」
「それは直接聞いてみるまでわかんないよ」
「そんな勇気を出せるほどできた人間ならよかったんだけどな」
「そっか」
「まぁ、でも本気で驚いたよ。あれだけ熱烈に就職希望してたってのに、まさか第一希望じゃあなくて死神に採用されたのかと思ってさ」
「言い間違えただけだよ」
「だよな。それがわかって満足して、決めたんだ」
「私がやりたいって言ってたことを、やってたんだね」
今までの思い出がノートのページと病室の記憶に混ざって照会されて、納得の二文字で作られた印章が次々と押されていく。
初日の飲み会も、二日目の買い物も、三日目の遊園地も……
全部、私のことを考えて誘ってくれたのだと。
「笑美がやりたいって言ってたことを片っ端から思い出してやったんだよ。そうして笑っていられる内に寿命が尽きるんだったらそれで構わないって、そう思ってた」
「だけど、全部やってもまだ寿命は残ってた」
「あんなに楽しい時間を過ごした後に残りを有意義に使える気がしなかったんだよ。それで……追い返した」
「それも、私を想ってのことだったんだよね」
「まぁ、な」
「本当に、やりたいことはなくなったの」
「正直に言っていいのか」
「いいよ」
「天使サマに話を聞いてもらえる日がくるなんてな」
「いいから」
「……もっと一緒にいたくなったんだよ。笑美の天使としての仕事を邪魔するワケにはいかないと、わかってはいたんだけどな」
一緒にいたいとヒカルが言ってくれれば、私は再開のための手続きをすぐにできた。
一緒にいたいと私がもっと早く認めていれば、ヒカルに辛い思いはさせずに済んだ。
私とヒカルはそっくりだった。
至る考えも、不器用なところも、全てが。
「あの日からずっと言おうとしていたこと、今、言うね」
「あぁ。聞くよ」
「私も、ヒカルと一緒にいたい」
「……そうか」
「……返事が遅くなっちゃって、ごめんね」
「いいんだ。言ってくれて、嬉し、」
ヒカルが頭を押さえて下を向いた。
駆け寄ってその背中をさすると、時計の針が視界の隅に割り込んで見えた。
十七時二十二分。
いかなる状況下であろうと、寿命が尽きた瞬間に人間は死ぬ。
事故死であれば、数時間前に頭に落石がぶつかるか、数秒前に電車にはねられるか。
病死であれば、数か月前から兆候が出てベッドの上で寿命が尽きるか、数日前に大動脈解離が起きるか、数分前に心臓麻痺が起きるか。
このひらけた場所で事故に巻き込まれるということはないだろう。しかし、病気にしても大抵は時間がかかり、事前に入院しているか、不調で動けないような場合がほとんどだ。
だから、このように外出していて、それでいて平気で話すことができている以上、おそらくヒカルは何かしらの突発的な病気で「ほぼ」即死する。心筋梗塞か、あるいはクモ膜下出血か……だが、いずれにしても文字通りの即死ということはない。心臓が詰まっても、脳が破れても、人間が死に至るまでには早くても数分はかかる。
だから、残された時間は八分ではない。
もう、時間がない。
「天界に戻ってる間に寿命供給ラインを開いたよ。だけど、寿命が届くまでには四時間はかかるって」
「そんなことをしてたのか。俺のために」
「うん。でも、そのバルブを開いたのは、十五時二十七分」
「プラス四時間か……十七時半には、ほんのちょっと、間に合いそうにないかな」
「もっと早く、気付けばよかった」
「いいんだ。気にしなくて」
ヒカルが地面に座り込んだ。赤土がコートの裾に擦れて汚したが気にかけなかった。
かたん、と時計の針が一歩前に進む音が聞こえた。
十七時二十三分。
「なぁ。ひとつ、頼みがあるんだ」
「言って」
「手を……握っててくれないか。笑美が嫌じゃなければ」
「もちろん握ってる。これが本当の、天使の仕事だよ」
「ありがとう」
体育座りの膝の上で垂れたヒカルの右手の甲を左手で覆う。手が小刻みに震えていて、私の親指を握りこんだ指がちょっとずつゆるむのと、ぐっと握りしめるのを繰り返した。
わかってる。最期まで握っているつもりだ。
「……私は複合天使なの。笑子の寿命を核にして生まれ変わったんだよ」
「複合、天使……?」
「私は手術開始から一時間後に寿命が尽きるはずだった。だけど、マザーはそうなると家族や医者に禍根を残すと思って、手術の一時間前に私から寿命を取り出したの」
「複合天使とか、核とか、マザーとか……わかるように説明してくれ」
「時間がないの聞いて。私の中には『行き場を失った寿命』がある。私が本来生きるはずだった時間との差だよ。計算が苦手でも、わかるでしょ」
手術が始まって一時間後に寿命が尽きるはずだった。
手術が始まる一時間前に私の寿命は取り出された。
1+1は。
簡単な計算だ。
かたん、と針が一歩進んだ。
十七時二十四分。
「……2だ」
「その二時間を、あげるね」
口づけした。
握っていない方の手を首にまわして、ぎゅっと距離を詰める。
これ以上近付けないというところからもう一歩近付くと、まるで二人とも全く同じところに立って重なり合っているかのような、そんな不思議な感覚がした。ずっと前に、天界で寝ぼけた天使の一人にはずみでキスされたことはあったが、それとは全然違うものに思えた。
握った手からも、まわした手からも、重ねた唇からも体温が伝わってきて、そうして全身が高揚した。一緒に空を飛んだあの日の胸の奥よりも、禁忌を破ったときの背中よりも、もっと身体を揺さぶり温める何かが心の奥に芽生えた。
きっとこれが、恋心なんだろう。
天使にはないものだといつかの講義で聞いたことがある。
だけど、今の私の中には、たしかにそれを感じる。
人間が半分混ざった私の特権だ。
唇を離した。
どれくらい経ったのだろう。
一分か、十分か、一時間か。
だけど、時計の針は一歩たりとも動いていなかった。
代わりに、閉じていたヒカルの目は最初に会った時よりももっと大きく見開かれて、私の目を捉えてまばたきひとつしなかった。
「うっかりリクエストしそびれてたんだ。ドラマみたいなキスがしてみたい!……って」
「どうして……また……」
「また泣いてるの? 本当に泣き虫なんだからなぁ」
ヒカルの頬を伝う涙を拭うために地面に両ひざをつくと、ゆで卵の殻をぶつけたときのようにその部分にヒビが入った。入り込んだヒビはつつっと広がって、脛を経由して足先まで届き、指の先から順に蝋細工のように砕けて、剥がれて、白く輝く小さな破片になった。その破片がふわりと舞って、口に含めた綿菓子のように、宙に溶けて消える。
無に還ったんだ。
寄り集まる核がなくなって、私を作っていた無が、無に還るんだ。
「成功したんだよきっと。『行き場を失った寿命』が居るべき場所を見つけたんだよ」
「笑美……俺は……!」
人間の散髪のように、切り離された先から身体の一部ではなくなっていく。
自分が軽くなっていくのがわかる。
動かせる部分も、感じる部分も減っていくのがわかる。
だけど、痛みも恐怖もなかった。
「私がしたいことは全部ヒカルに叶えてもらったよ! 遊園地で遊ぶのも、動物園をまわるのも、お酒を飲むのも、カフェでのんびりするのも、美味しいご飯を食べるのも、全部全部ぜんぶ!!」
膝から先がなくなって、ヒビ割れが太ももの方へと走りだす。
姿勢を保てなくなってぐらりと身体が傾くと同時に、肩甲骨から翼が飛び出して私が倒れこむのを防いだ。
この二枚も私の最期に付き合ってくれるらしい。
いつも勝手だったが、なんだ、主人思いなところもあるじゃないか。
「だから、今度はヒカルがやりたいことをする番だよ! 誰かのためじゃあなくて、自分のためにやりたいことをする番だよ!!」
「俺は、笑美と一緒に――……!」
一気に身体が砕け始める。
下半身がなくなって、上半身の右半分も消えた。
そのうち顔の半分もなくなって片目だけの視界になった。
ヒカルが何かを言っているようだが、この距離なのに遠くて聞こえない。
右の翼の重さも、左の翼の存在も、もう感じない。
何も見えなくなった。
聞こえないし、喋ることもできない。
つないだ左手から伝わる体温だけが白の世界に残っている。
その体温も、カップにいれたコーヒーのように次第に薄れて。
私は、
消えた




