第十三章 想出
1
二日が経った。日の差さない時間帯を二度過ごしたのだから、おそらく合っている。
具体的に何時かはわからない。ここには影しか差さないのだから。
人間界でものぞけば時刻を示すものが目に留まるかもしれないが、今は足元を掘れない。
もっとも、仮にそうできたとして、そんな気には到底なれないけれども。
延々の大地がほぐれる方向へと力の伝わる場所が噴煙の丘なら、その逆……結びつく方向へと力の加わる場所が釣鐘の洞窟だ。
人間界から伝わる振動で延々の大地が圧縮され続け、金属のように高密度で堅牢になった場所のことを指す。色も変化している。人間界の大気に浮遊する粉塵や埃が混ざりこみ、練られ、彩度を極端に落とした灰色に一帯が染まっている。真逆の性質ではあるものの、噴煙の丘同様、手作業では到達しえない状態へと追いやられた釣鐘の洞窟は、日光は通さず、周囲の延々の大地の熱をすぐに逃がして冷たくなる、そういう特質を有している。
人間界でいうところのかまくらのような三角錐状をした釣鐘の洞窟は、天界の所々でその存在を確認することができる。
その中の工場に最も近いひとつで、私は二日前から座り込んで謹慎処分を受けていた。ワンピース越しとはいえお尻が冷たいので、髪の先端をその下に敷いている。この時ばかりは腰まで伸びた生来の銀髪に感謝した。
この無機質な場所は天界における監獄のような役割を与えられている。もっとも、人間界のそれと比べれば随分と緩い。扉も格子もなければ、それに合わせた鍵なんてものもない。看守役もいない。時々中をのぞき込んでくる天使はいるが、それはあまりに暇だから個人的に足を運んできただけで、面倒を起こした天使を見張るためだとかいう崇高な目的を持っているわけではない。動物園をのぞくようなものだ。
……動物園か、一度ヒカルとも遊びに行ったな。
何日か前の光景が頭をよぎった。
猫はいなかったけど、それに似たライオンという動物はいた。ベージュを濃くしたような色の毛並みと、それより更にもう一段階濃いたてがみをマフラーのように首元に巻いている見た目が印象的だった。立派な容姿に反してずっと水飲み場のそばでくたっと横になっていて、時々思い出したかのように寝返りを打っては背中と腹を交互に柵の向こうから客席へと見せていた。
触れるのかなとヒカルに聞いたら、噛むからやばいぞと言っていた。ただの大きな猫に見えたけど、存外危険な生き物らしい。
まさか、自分が同じような境遇になるとは思ってもいなかった。
抱え込んだ膝に額を付けて目を閉じた。
入り口付近にしか日が当たらないこともあり、私の眼前は深い黒に染まる。
なんてことをしたんだろう。
禁忌を破ったこともそうだが、二十日と一週間前のことが何度もよぎって頭の中を散らかしてまわる。稟議書を提出したあの日のことだ。
私は、ヒカルに、生きていてほしかった。
その気持ちに、二日前にようやく気付いて認めることになった。
ヒカルがあんなにも精力的で、活発で、明るい人間だったなんて、考えもしなかった。
天界から毎日せいぜい数時間のぞいただけで、寿命を受け取るに値しない人間だと勝手に決めつけていた。将来への明かりも、未来への希望も、何ひとつ持とうとしないような人間だと、私は勝手に愛想を尽かせていた。
ヒカルも完璧じゃない。誰かを大切に慕うあまり、その想いに捕らわれることがある。一人で抱え込んで、もっと良い選択を探そうとしないところがある。だけど、人間なんだから長所と短所の両方があって当然だ。
私は程度のことを考えず、短所がひとつでもあればそれを過大に取り上げて、良好な部分には目を伏せて、相手の全てを粗雑なひとまとめにして問答無用で切り捨てていた。
それがどれほどまでに無情で軽率なことなのかを、私はわかっていなかった。
ふいに、瞼の裏がもう一層暗くなった気がした。
視線を上げると、入り口には見慣れた姿が立っていた。外からの逆光で黒い輪郭と影ばかりしか見えないが、誰がそこにいるのか熟考しなければわからないないほど朦朧としているつもりはない。
いつもの澄んだ声が壁や床に小さく反響しながら耳に届いた。
「少し散歩にでも行きましょう。ずっと座っていると腰が痛くなりますよ」
腰がないからわからないですけどと、マザーがゆで卵型の身体の中ほどあたりに両腕を添えて上級天使流の冗談を付け加える。そういう気分ではなかったはずなのに、思わずふふっと笑ってしまった。
天界における謹慎というのは形式ばかりのものだ。拘束力は全くといっていいほどなく、何か粗相をしでかして釣鐘の洞窟に入ることになったとしても大抵の天使は五分もせずに外へと出る。そうして勝手な仮釈放に興じて、飽きたらふかふかな場所を探しては潜り、結局普段通りの夜を明かす。
だから、律義に謹慎を受け入れて出てこない天使を、こうして上級天使が外に連れ出すのも別段不思議なことではない。誰にでも親身に接して慈悲深いマザーのような上級天使であれば尚更のことだった。
彼女の手招きに誘われて、私は二日ぶりに釣鐘の洞窟から外に出た。
「釣鐘の洞窟は座り心地が悪かったでしょう。災難でしたね」
「いえ……私が、悪かったんです」
外に出て腰を左右に捻ると、ぱきぱきといった音が身体の内側から響いた。固い地面で同じ姿勢を続けたせいか、延々の大地は普段よりふにふにとしているような気がして歩きにくかった。おたおた足を上げては下ろす私に、マザーは歩みを合わせてゆっくりとどこかへ向かう。その背中の斜め後ろについていった。
道中では何人かの天使が人間界の観察やうたた寝に各々の暇を費やしていた。マザーはすれ違うその誰もに声をかけては近況を尋ねて、別れ際には彼女たちの頭を撫でた。
マザーの活躍は天界中に知られている。全盛期には665人もの人間を一度に担当してその最期を見守ったという話や、その成果がカミサマに認められたことで上級天使の素質を持たずに生まれた身ながらも普通の天使から昇格したという話など、全て挙げれば日が暮れてしまう。
今日は良いことがあったと言わんばかりの笑みで彼女たちが満足気に身を委ねるのも理解できた。私も撫でられるのが好きだからよくわかる。
「どうして人間に寿命を教えるのが禁じられているのか、わかりました」
歩き方の勘を取り戻してしばらくしてから、マザーにそう話しかけた。
「この出張で学んだことですか」
「はい。私なりの考えですけども」
「ぜひ聞かせてください」
それは、迫りくる死の恐怖を無用に与えないようにするためだ。
寿命の供給を停止したと伝えても、そもそも本来の寿命がどれだけか知りようのない人間の立場になって考えれば、極端にいえば何も教えていないことと同義だ。それを思えば、寿命供給ラインの停止をただ告げにきた天使を無気力に追い払う人間の一般的な態度にも合点がいく。
だけど、あとこれだけで死ぬと言われたらどうだろうか。
生きる気力を見出せないような人間なのだから、無気力に追い払うところまではおそらく同じだろう。その後もしばらくはきっと変わらない。だけど、死が指折り数えられるほど近付いてきたとき、今までと全く同じ様子で一日を過ごして眠りにつくことが、果たしてできるのだろうか。
生きる気がないことと、死にたいことは同じではない。死の足音が耳元で聞こえて、その肩を叩く最後の瞬間が訪れるまで平静でいられる人間は、きっといないだろう。
だから寿命を教えてはいけないんだ。たとえそれが、残りの寿命を意識して有意義に使ってもらうためだとしても。冷たく暗い何もないところで二日座り込んだ末に出た、講義の受け売りではない、私なりの考えだった。
「死にたいと口にしていても、本気で死にたいと考える人間は稀なんだと思います。少なくとも……ヒカルはそうではありませんでしたから」
「例の飛び降り未遂の件ですね」
「ヒカルはとても勘働きが良かったので、もしかしたら……私の顔色や態度の変遷から死期を日々推測していたのかもしれません。仮の域を出ませんが……もしも本当にそうだったとして、彼の本心からではない計画に手を貸し続けていたのだとしたら……私は本当の本当に浅はかだったとしか言えません、無知という言葉では到底表せないほどに」
「ですが、あなたは己を客観的に顧みることができた。それは、かけがえのない大きな成長ですよ」
立ち止まったマザーが、そう私を褒めた。無数の細い指がふわふわと私の両頬を撫でて前髪を持ち上げる。その拍子に、マザーの後ろに大きな穴が見えた。
吹き抜けの渦だ。いつの間にかここまで戻ってきていたらしい。
「彼の様子はここからわかりますよ。のぞいてみましょうか」
「……いえ、いいです……謹慎中ですから」
「わざわざ掘ってまでというのはどうかと思いますけど、ここは最初から穴があいているので」
マザーはやっぱり人間らしい発想をする。人間らしい心持ちを重視して謹慎を受ける私に気を遣ってくれている。それを無下にしたくなくて、私は吹き抜けの渦の淵に座った。
ヒカルの担当権は、謹慎が決まった際にマザーへと委任している。彼の担当権を再び受け取ってから、人間界をのぞきこんだ。
公園の時計は十四時を指していた。薄い雲が広がる下には何度も見た景色が広がっていたが、二日しか経っていないにもかかわらずその光景にはどこか遠いような、懐かしいような雰囲気を感じた。
ヒカルは自宅にいた。家の中は随分と広くなっている。ごみはもちろん、雑貨や書籍も姿を消していて、それ以外の細々としたものはいくつかの段ボールの中に収められて居間の隅に寄せられていた。毎日のように振るっていた使いこまれたフライパンも、使い過ぎで先端の塗装が薄くなっていたターナーも、今は箱のひとつの中で身を寄せ合いながら、久しい休暇を得ている。
居間の机だけが残っているといっていいほど、室内はすっきりとしていた。その机の前に何かを手にしたヒカルが座る。
ノートだ。人間界では一般的な、罫線入りのA4の大学ノート。
机に置かれた一冊の表紙がめくられる。2018年10月6日、とページの上の日付欄に書かれている。そのページには、笑顔のヒカルと半開きの目の私が映った写真が貼られていた。ヒカルがそれを見てふっと笑って、また一枚めくる。
2018年10月7日。
一緒に遊園地に行った日だ。左のページの上段には、ソフトクリームを鼻先につけて驚いている私が貼られている。とても冷たくて甘くて、それが珍しくてじっと眺めていたらどこかを境にしていきなり溶けだした。慌てて口にした私を見てヒカルが何やら笑っていたのはそういうことか……一言くらい教えてくれたっていいのに。
右ページの上段には人波にもまれたせいで疲れてベンチに座った私がいる。二十分ほど寝ていたらしいが、その間に撮ったのだろう。雨上がりのアスファルトのような虹色を首元に巻いた鳩が私のそばに何羽も集まっていて、そのうちの一羽にいたっては膝の上で堂々と箱型になって座っている。起きた時にはいなかったのだから、その前にヒカルが解散させたのだろうか。
見開きの下の余白には「思っていたより混んでいた。次は平日がよさそうだ」と書かれている。二人とも同じことを考えていたらしい。
2018年10月8日。
この日の午前中は、商店街の端の方にあるおしゃれなカフェに入った。ここで初めてコーヒーを飲んだんだ。名前は長すぎて忘れた。工場の葉っぱみたいに苦くて、細長い袋に詰められた砂糖を三本と、指の先に乗るほど小さなカップ入りのミルクを二杯入れて、それでようやく許容範囲内の味になった。
そのカフェで買った一番小さなコーヒー豆の袋を、眉をひそめた私が正面に抱えている。こんなものを好き好んで飲むなんてどうかしているとあの時は思ったが、その後はなんやかんやでお茶を飲む夜とコーヒーを飲む夜が半々になったのだから、何が起こるかわからないものだ。
それでも、やはりコーヒーには砂糖とミルクが必須だという点に今でも変わりはない。
2018年10月9日。
一番はオムライスだけど、二番を決めるとなればこの日の昼食を選ぶだろう。
今ならわかる。あれはカルボナーラという麺料理だ。卵の黄身とチーズが溶けた濃厚な甘いソースに、胡椒とベーコンの辛みが混ざって……同じ卵を使ってもまったく別の料理ができることを知って、それを実現できるヒカルの料理の腕前にいたく感心したのもこの日が最初だった。二番目はこのカルボナーラかな。
いや、夕飯に出された鶏肉のトマト煮も美味しかったな。いやいや、一週間前に食べた白身魚のムニエルも選ばないのは惜しいし。主食ではないけれど、ゴマであえたほうれん草のおひたしも……結局、一番以外は決められそうにない。
そのカルボナーラをまだ慣れていないフォークでどうにか口に運んでいる私の写真が貼られている。
……なんだ、遺影を撮るためとか言っていたのに、私の写真ばかりじゃあないか。
ヒカルの肩越しにページがめくられるたびに、その日の思い出がぱっと開いて蘇る。
ページには写真が貼られているが、それをまじまじとながめながら思い出そうとするよりも先に、まるでついさっきの出来事かのように色付きの映像が流れた。
何もなかった日というものがなかった。
毎日何かをして、それに驚いたり、感動したり、楽しんだりしていた。
ページは一枚ずつ次へと進み、後ろには戻らない。
そして、2018年10月22日を境に、ノートは白紙の束になった。
胸ポケットに挿していたペンを手にしたヒカルが、空白のページに先端をつける。
常日頃、家族とは大層な仲ではないと言っていた。両親と、兄が一人いると聞いたが、私とマザーのように頻繁に顔を合わせるような関係ではないらしい。直接会ったところはおろか、電話や手紙のやりとりをしている様子もこの三年で見たことがない。その家族に手紙を書いていた。ろくなものを遺さなくてすまないと始まり、最後まで迷惑をかけるという内容で終わる、謝罪の連なりだった。
常日頃、友人と呼べるような相手は数人だけだと言っていた。そのうちの一人に手紙を書いていた。いきなり辞めてすまないと始まり、一度は観ることを検討した方がいいという念押しが添えられたおすすめの映画の羅列だった。もう一人へも手紙を書いていた。お前には随分と気を遣わせたという反省と、今まで本当に世話になったという旨が長々と綴られた感謝だった。
ペンはまだノートの上にあった。何かを書こうとしているようだが内容が思いつかないのかペン先は動かず、インクが少しずつ滲んでページに小さな池を作り出す。指先が震えていた。
どれだけか経って、ヒカルが裏表紙に手をかけてノートを閉じようとした。黒い池が反対のページに転写される直前、もう一度ヒカルがノートを開いてページの端に何かをさっと書き込んで、今度こそ閉じて席を立ち、家を出た。
一言だったが、内容がわかった。
もっといっしょにいたかった
そう書いていた。
考えるより早く、足元をちぎって紙状に伸ばした。こんなことは前例がないとわかっていても、そうしないという選択は私の中になかった。
片翼だけ出すのももどかしくて両方の翼を広げると、左の定位置からは羽ペンが取り出しやすいように先端を飛び出させていた。普段は身勝手ばかりのくせに、たまには気が利くところもある。
「承認をお願いします、マザー!」
「えぇ。構いませんよ」
ギデオンはいつも「工場」にいる。時間も、まだ間に合う。
書類にサインが刻まれたことを確認し、私は頭を下げてから「工場」へと駆け出した。
2
「――……却下だ」
私の手元を一瞥したギデオンの返答がそれだった。
「どうしてですか!」
「無意味だからだ」
「見たんです! ヒカルが……対象者が生きる希望を持ち直したという確証を!」
「だとしても無意味だ。再開する必要性がない」
作成した稟議書に不備はないはずだ。私の直属の上級天使であるマザーの承認もある。
唯一違うのは、寿命供給ラインの停止ではなく「再開」だという、その部分だけだ。
たしかにこんな話は今までに一度も聞いたことがない。一度閉じたはずの寿命供給ラインを再び開くことだなんて。そんなことが起きないためにも本来は長い審査を通すのだから当然なのだろうが、どうあれ実際に対象者が生への欲求を持ち直したのだから再開に対しての妥当性はあるはずだ。
しかし、その一か所の改変をギデオンは認めず、こうした押し問答が続いていた。
「せめて理由を教えてください」
「理由を教えれば静かになるのか」
「聞くまではわかりません」
「お前は一度でも儂の講義を受けたことがあるか」
「……一度、だけですけど」
上級天使に嘘は通じないので正直に答えた。この一回も数えていいのかだいぶ怪しいものではあるが。
ギデオンの講義は大樹学と呼ばれるものだった。天界の各地にそびえ立つ工場の仕組みや働きについて追究する、こう言ってはなんだがほとんどの天使にとっては興味の対象にならない、そういう内容の講義だ。
人間界の数学や物理といったものならばまだ興味を駆られる余地がある。新たな発見をもとに現状を変えてより良くできるという明確な利点があるからだ。
しかし大樹学は、既に完成されていて改良の余地がない完全無欠の存在である工場について上から下へと理解を深める、そういう内容だ。追究したところで何か変わるわけでもない単純な知的好奇心をうんうん苦しみながら満たすくらいなら、大半の天使は聞いていてもっと楽しい別の講義へ足を運ぶだろう。そして、そういった類の天使たちの例に私も外れなかった。
「たしかに一度しか受講してはいませんが、それと今回の件は関係ありません」
「儂がそんな個人的な理由で拒むわけないだろう。人間じゃあるまい」
講義に不真面目だったから断られたのかと思って食いついたがどうやら違うらしい。これこそ失言というやつだ。
「寿命供給ラインについて、お前はどういうものだと考えている」
「えっと……輸血のチューブみたいなものかなと」
「あぁ、その通りだ。夜露の大樹の根元から人間へと伸びて刺さっている管だと思えばいい。それが却下する理由だ」
今の説明でギデオンは理由について語り終えたらしいが、生憎ながらさっぱり理解できなかった。
内容が大樹学だということも一因ではあるが、とにかく色々と端折る点がギデオンの講義の難解さをより一層際立たせている。私が唯一受けたときの講義もほとんど何を言っているのかわからず、結局大半は寝て過ごすことになった。この調子だと今も彼の講義の内容は難解を極めていることだろう。
「あの、もう少し説明が欲しいんですけども……」
「その様子だと、停止を決めたら儂がさっさとバルブを閉じる理由も知らんようだな」
「……はい」
たしかに、ヒカルの寿命供給ラインの停止が可決されたと知った時には、既にギデオンの手によってバルブが閉められていた。寝ぼけた天使に適当に閉められたくないだとか、バルブが固いからギデオンのような剛腕でないと容易に開閉できないからだとか、単にそれくらいかと思っていたが、どうやら別の理由があるらしい。
「寿命は管を通して人間界の対象者まで届くのだ。バルブを閉じても管の中には閉じる直前までの寿命が溜まっている。それらが全て対象者まで届いたときに、初めて寿命の供給が断たれたと言えるのだ」
「速やかにバルブを閉じてチューブの中身が早く空になるようにしているんですか」
「そうだ。そこまで聞いてまだわからんか」
ピンとこない私にギデオンが溜息をついて答えを開示した。
「時間差だ。バルブを開放すればたしかに寿命は大樹から管へと流れだす。だがそれが管を満たして対象者に届くまでには時間がかかるのだ」
「どれだけ必要なんですか」
「大樹学の基礎の基礎だぞ、後学のためにもよく覚えておけ……四時間だ」
確認するまでもなかった。
ヒカルの寿命は今日の十七時半で尽きる。
先ほど下界をのぞき込んだ時点で十四時だったのだ。
バルブを捻ってから四時間が必要なら、今がそこから何分経過したかなど関係ない。
どう足掻いても十七時半には間に合わず、そして、究極の不可逆状態とも呼べる死体となった後の人間に寿命は定着しない。
ギデオンの言う通り、無意味だ。
まだ間に合うという希望が潰えて、期待であがっていた息が急に落ち着いた。出しっぱなしだった翼を折りたたみ、その場に座り込むと、俯いて見つめていた延々の大地の一点が急に湿気って影を落とした。
涙だ。天使から零れるなんて初めて知った。
湿気った点は二か所になり、三か所になり、いつしか面となった。
私にできることはヒカルの最期を見届けることだけだ。
最初からそれだけだったはずなのに……今はそれが……ただただ、哀しかった。
「――……少し、いいですか」
背後から澄んだ声がかけられた。振り返らなくてもわかる。マザーだ。ついてきてくれていたらしい。
「あなたに伝えておきたいことがあったので追いかけてきました」
足がないからそんなに早く走れなくってと、上級天使流の冗談も聞こえた。だけど今は笑顔を見せられなかった。
マザーは私の正面に座って、そのつややかな身体を一層強く輝かせた。反射して映り込んだ私の姿は光でかき消され、そのうち目を開いていられないほどまぶしくなった。
そうして光が落ち着いたかと思うと、マザーの身体にはここではないどこかの風景が代わりに映り込んでいた。
※
丁度、天界からのぞき込んだかのような真上からの視点で、どこかの病室が映し出されている。
りゅーちゃんがいた病室よりも広い個室で、そこにはなかった機械もいくつか設置されている。あれは心電計だ。何か異常があったらぴっぴっと音が鳴って画像が乱れる。
テレビか何かで見たことがあったのか……そういう音が鳴るものだと知っている。
病室の一辺の壁にはベットの頭側が隣接していて、病室番号と、「花園笑子」と書かれたプレートがかけられている。
どこかで見た苗字だ、たしか……
ベッドの上では真っ黒な長い髪の少女が寝転がった上体を起こして、カラフルな表紙に魅力的なうたい文句が並んだ観光雑誌を手にして、それを穴があきかねないほど見つめている。グルメスポットの特集ページにはおすすめのレストランの紹介が並んでいる。次のページは「一度は行きたい! 絶品レストラン! ~洋風編~」だ。
あの雑誌もどこかで読んだことがあったのか……次にそう書かれていると知っている。
そのベッドの横には黒髪の少年が椅子に座っていて、太ももに腕をかけた前かがみの姿勢で、少女と何やら話をしていた。
「あ~っ、これも美味しそうだなぁ~……具沢山ピラフだって」
「材料次第だな。ストックでしっかり味付けできればバターは要らないと思う」
「あっ、カレーだ! これも食べたい!」
「小麦粉と白米と根菜を別のものにすれば、なんとか」
「それはもうカレーじゃなくてスパイスの塊だよ。あとハンバーグも、パスタも……目移りしちゃうなぁ」
「術後はかなり良くなるって先生が言ってただろ。そのうち食べられるようになる」
「全快じゃないかもしれないよ」
「また作るよ。全く同じとは言わないけどさ」
「あれ作ってよ。前に持ってきてくれたやつ。すっごく、美味しかった」
「わかった。卵をまた用意しないとな。他にやりたいことはないのか」
「買い物に行きたいなぁ。それで服とか靴とか色々見て回るの」
「あぁ、楽しそうだ」
「遊園地にも行ってみたい。ジェットコースターってどんな感じなんだろ」
「俺の心臓が先に止まるかもな」
「あと、お酒も飲んでみたい!」
「それはあと五年待たなきゃどうしようもない」
「まぁ仕方ないかぁ。あっ、それとって」
「本当にこれが好きだな」
「一日一回は読んでるよ」
「いい歳して絵本だなんてな」
「いいでしょ別に……あと、天使になりたい」
「それはどこに履歴書出すつもりだ」
「わかんない。採用担当がいきなり来て連れて行ってくれるのかも」
「しかし、まぁ、天使になって何がしたいんだ」
「皆を助ける天使になりたい。それでね、生きる希望を分け隔てなく配って回るの」
「そう言うと思った」
「いいよ。馬鹿にしても」
「まさか。いつか、なれるかもな」
「だといいなぁ」
「……あと一時間か」
「そうだね……ひょっとして、泣いてるの?」
「いや、泣いてない」
「うそだぁ。目が赤いよ」
「いいや、泣いてない」
「別に隠さなくたっていいのにね」
「それじゃあ今のうちに言っておくよ……好きだ」
「うん……えっ……」
「ずっと前から、好きだった」
「……そっか、本当に……」
「あぁ。嘘じゃない……笑子?」
細く輝く指が無数に伸びて、少女からまばゆく煌めく何かを持ち上げた。
心電図から山がなくなって、鼓膜を突くような電子音が鳴っている。心電計に唇はないが、そういう音が今鳴っていることを……私は、知っている。
少年が片手でナースコールのボタンを握りしめて、もう片手で少女の手を握る。白衣を着た何人かが駆け込んできて、あっという間に喧騒が病室を埋めた。
煌めく何かが近づいて視界を白で塗り潰す。
そこで映像は終わった。
※
「――……あの子の寿命は手術を始めて一時間後に術台の上で尽きる予定でした。ですが術前に転生させて眠るように安楽死したように見せる方が、遺された者にとって禍根が少なくて済むと、そう判断したのです」
「……どうして、私を……」
「あの子の……あなたの願いがただの現実逃避からきたものなら、私も気に留めなかったでしょう。心から純粋に信じて望んでいたから、私もカミサマに許可を求めたのです」
でしたよねとマザーが晴天に声をかけると、そうだよーとどこからともなく聞こえた。
「思った通り、人間の気持ちが理解できる優しい天使が生まれてきてくれました」
「なんで、もっと……早く教えてくれなかったんですか……」
「『行き場を失くした寿命』が多いほど転生の成功率は高まります。ですが、それでもせめてあなたが彼に返事をするまで待つべきだったと……それが私の、今日まで抱えていた……後悔でした」
無段階のダイヤルを捻って照明を落とすように、マザーの身体の輝きがすぅっと落ち着いて、いつもの色合いに戻った。その身体に反射して映った私に、あの少女の姿が――病室で最期を迎えた私の姿が――重なって見えた。
眠っていた心臓が突然動き出した。
前にヒカルの家で見た映画で、動かない車から導線を引っ張り出して無理やりショートさせてエンジンをかけるシーンが浮かんだ。最近の車じゃできそうにないなとレンジが横から言っていたが、私の身体はそれよりも幾分か単純な構造らしい。
「カミサマ! 今は何時ですか!?」
青いカンバスの向こうから、82ふんけいかーと聞こえた。それを聞くと同時に、脳と脊髄と心臓が繋がって、行動力の電気回路が完成した。あとは、実行に移すだけだ。
「稟議案の可決をお願いします、ギデオン!」
「儂の説明をちゃんと聞いていたのか? 夜露の大樹に不必要な負荷はかけられん。それに、そもそも稟議案を通すには所定の手続きが必要だ」
「手続きは今すぐに全部実行できます!」
直属の上級天使の承認が入った稟議書は手元にある。
上級天使が集う会合は、今ここにいるギデオンとマザーで開くことができる。
カミサマはいつでも空の上にいる。
だから後は、工場の最高責任者であるギデオンの承認だ。
これが屁理屈そのものだということは重々承知していた。
故に、上級天使ではない私にできることは、二人に頭を下げることだけだった。
「私は賛成するけども、あなたはどうかしら」
「わからんな。これ以上加担してどうなる」
「私はもう後悔したくないから。あなたもそうでしょう」
沈黙の後、ギデオンは大きな溜息をひとつついて、私とマザーに背を向けた。
ギデオンは工場への負荷を誰よりも気にかける。生まれた人間に自動的に寿命供給ラインを刺して、亡くなった人間から自動的に引き抜く、その工場のありのままの働きを誰よりも尊重している。
稟議案を提出して寿命供給ラインを閉じたかと思えば、見当外れだったと言い出して今度は再開を求めるような天使の意見を快く思うわけがない。
……やはり、だめか。
「カミサマ。よろしいですかな」
そう思って諦めかけたところで、ギデオンがカミサマに確認を求めた。
頼み込んだ身ながら耳を疑った……まさかギデオンが承諾してくれるだなんて。
広がる蒼のどこからか、いいよーと声が響き、それを聞いて工場の幹から離れるギデオンの背中についていった。
ギデオンが工場の根の一本を掴み、その樹皮をずるりと回転させるようにめくって内部を露出させる。今まで樹皮の表面に浮かぶ各人のステータスしか見てこなかったが、根は数えることが困難なほどの寿命供給ラインが寄り集まってできていた。その集まりをディスプレイ代わりの樹皮が包んで、さながら電子機器に使われる導線の被膜のように束ねていたらしい。
寿命供給ラインはどれも鮮やかな青緑色をしていたが、その中の一本はまるで白髪か何かのような真っ白な色をしていた。ギデオンがその白い一本を太い指先でつまんで手繰っていくと、幹の内部でひしめく寿命供給ラインと同数のバルブのひとつと繋がっている。
ギデオンは間違いがないか三度確認した後、対応するバルブを掴んで開放した。白髪の根元がじわりと青緑に染められ、その境界線が徐々に延々の大地へと進んでいく。その速度は遅々としたものだったがそれでも構わない。後は私がやることだ。
ギデオンにもう一度頭を下げて、周囲を見渡す。
人間界へ降りるために地面を掘らなくてはならない。手ごろな薄い場所は……
視界の端に穴があいていた。
あれは……私が前に掘った穴だ。あの舟漕ぎ天使に任せるのには若干の不安があったが案の定的中した。やっぱり塞ぎ忘れているじゃないか。だけど今は、少しでも早く人間界へ降りたい私にとっては、むしろ好都合だった。
振り返ってマザーに抱きついた。硬めのスポンジのようなマザーの身体に腕を回して頬を押し付けると、ふわりとした温かな弾力がゆるく押し返してきて、いつまでもこうしていたい気分になった。
だけど、もう行かなくてはならない。
私には、私にしかできないことがある。
「ヒカルに返事をしてきます。マザーの後悔のためにも、私の気持ちのためにも」
「わかりました。ご多幸を。エミエル・ストロベリーフィールド」
もう一度強く抱きしめた後、マザーと別れた。
そして、すぐそばに見えた、初めの日からあけっぱなしの門へ、翼を広げるよりも先に飛び込んだ。




