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第十二章 落下

「――……そんなところにいたら、危ないよ」


 いつもの茶色のコートを着た背中に声をかけた。屋上にある後ろ姿は錆びついた粗いフェンスの向こう側に立っている。

 強めの風が吹いて枯れ葉がかさかさと音を立てて滑り、屋上とフェンスの間にできた隙間の下をくぐって六階の高さから落ちた。

 近くの木々の葉がざわめいて、その中から鳥の羽ばたきが聞こえる。他に誰もいないと思ってたけど違ったらしい。

 遠くに見える学校の時計がもうすぐ十六時を示そうかとして、校門からはランドセルを担いだ何人かがまばらに帰路へとついている。

 またひとつ、強い風が吹いた。

 正面の背中がぐっと押されて、ほんの少し前のめりになる。


「――――……っ」

 ガシャン、と大きな音が鳴ってヒカルが柵にもたれかかった。

 力の加わった部分が背の形に大きく変形し、柵と床をつなぐネジからみしりと老朽化の音がした。

「どこまで、いく気だったの」

「……わりと、本気だった」

 ヒカルが肩で息をするたびに、網目の錆がぽろぽろと削れてコートに引っかかる。できるだけ酸素を吸いこもうと大きく開く口が、横顔に浮かぶ尋常じゃない量の脂汗が、彼の決意がつい数秒前までは疑う余地なきものだったと語った。

 急いで降りてきたのは正解だった。

 確かめる術はないが、そう思いたい。

「どうして、こんなことを」

 いろいろ聞きたいことはあった。だけど、全部聞こうとすると質問が止まらなくなって、返ってくる答えの通り道を私の気持ちが先に塗りつぶして塞いでしまいそうな気がして。だから、それだけを聞いて返事を待った。

「……死に際を、見せたく、なかったんだ」

 鳥の羽ばたきがどこかへと消えた後に、そんな喘鳴混じりの理由が返ってきた。

 ヒカルの背が柵の錆を剥がしながらずるずると下がり、屋上の端にそのまま腰をつく。

「どういう意味かわかんないよ」

「……あいつの死に顔が浮かんだんだよ」

 あの墓の下に眠る人のことだろうか。

「勘違いするな、あいつは笑顔で去ったんだ。死に顔がトラウマになったんじゃない」

「それじゃあ、何がだめなの」

「ずっと一緒にいたやつが目の前で死ぬ気持ちが、わかるか」

「アカリも、ミクも、私は見てきたよ」

「そうじゃない。さっきまで笑っていた相手が、いきなりぷつっと途切れて冷たくなる様子を、肌で感じたことがあるのか」

「……ないよ」

「……そんな気持ちを、お前にさせたくない」

 それを、トラウマというんじゃないのだろうか。

 だけど、そういうものを持ったことがない私には答えようがなかったので、黙って続きを促した。

「今日が寿命じゃないってわかって……だから帰らせたんだ」

「帰、()()()……?」

「お前が天界に帰っている間に自殺すれば、前の二人と同じように空の上から俺の最期を見ることになるだろ……それなら、血の気が引くサマに触れずに済む。それに……俺を嫌っていれば……それだけ早く立ち直れるだろうしな、都合が良い」

 腰が抜けたのか、ヒカルは這うようにしてフェンスの裂け目から内側へと戻ってきた。そして、足元が盤石だと確認するや否やそのまま仰向けに転がって、激しい動悸に襲われている最中であろう胸の上に手を被せて、心臓の部分を上から強く押さえつけた。

「失敗、したけどな」

「……なに、それ」

 聞きたいことはまだ半分残っていたが、あまりに想像の斜め上の答えが返ってきて、その消化で手いっぱいになってしまった。

 生きているからこそ人間は幸福というものを感じることができる。

 だから、天使は寿命の源を生み出して人間へと供給し、幸福を得られる時間を伸ばす……たとえ、相反する絶望の呼び水に成り得るとしても。

 そのことを踏まえた上で天界から勝手な手助けをしているからこそ、天使には人間の最期を見届ける義務というものがある。

 アカリの最期を見届けてから半年は座学にしか取り組めなかった。

 ミクの最期のときも、二度目だとはいえ二か月は引きずって何もできなかった。

 ヒカルの最期の後は、どうなるのだろう。

 こんなにも誰かを強く想ったのは初めてだ。どれだけ引きずることになるのか見当もつかない。二か月か。半年か。一年か。

 それとも、今のヒカルが抱えているように、一生か。

「私が、そんなことを頼んだことがあった?」

「……なかったな」

「そばにいてほしくなかった、ってことだよね」

「……違う」

「……言ってくれなきゃ、わかんないよ」

「……」

 最期を見届けてそれを引きずる覚悟は、稟議書を提出したその時から私にはできていた。

 だけど、ヒカルは……

 最期を見守る天使が私であることを望まないのなら……

 そもそも私は初めから、人間界に降りるべきでは、なかった。


 178292秒。


「……それが残りの時間だよ」

 汗で額に張り付いた前髪の間からのぞく瞳と目が合った。

 両頬に手を当ててヒカルの体温を感じる。

 彼の目じりから走る涙の筋を親指で拭った。

 前から思ってたけど、泣き虫なんだな。

 自分のために泣いて、誰かのためにも泣く。

 雨や汗を味方にしてるつもりなんだろうけど、隠しきれていない。

 でもこれが、きっと最後だから、もう気にしなくていいよ。

 

 翼が飛び出した。

 気を抜いたからだとか、油断していたからだとか、そういうものではない。

 抗えない力で無理やり引きずりだされた。

 普段の調子とは全く異なる様相で、背後の二枚が生き物のように悶え狂う。

 同時に、今までに感じたことのない痛みが背中を爆心地にして駆け抜けた。

 りゅーちゃんの病室のときとは比較にもならない、強烈な……灼熱。

「エミエル……おい!」

「さわらないで!!!」

 ヒカルが伸ばした手を咄嗟に振り払った。風で舞い上がった枯れ葉の一枚が彼の手の代わりに翼に触れて、一瞬で炎に包まれて炭化する。深紅に赤熱した翼の付け根が、今にも皮膚を爛れさせて肩甲骨を溶かさんとする錯覚を与えた。嘔気を誘うほどの激痛に視界が歪んで元に戻らない。

 あまりの熱感に耐えられず、のたうつように一度転がると、翼の切っ先がコンクリート製の床を鉄筋ごとバターのように溶断した。

 完全に制御の利かなくなった翼が私の身体を宙に浮かせる。

 天界からの呼び出しだ。

 禁忌を犯した天使を呼びつける、最も強い力だ。

「寿命を全うして! 最期まで!!」

「どうして……俺に……」

「私はヒカルに、生きて――……!」

 強制的に身体が舞い上がり空へと吸い込まれていく。

 ヒカルが私に手を伸ばした。

 その指先に私の指先が掠めて離れた。

 蒼が迫る。


 私は、空へと落ちた。

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