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第十章 変化

 あれから十日が過ぎた。

 りゅーちゃんはヒカルの読み通り、三日目にはもう退院した。その週の金曜日には快気祝いだといってレンジも呼んで遂に四週連続となる宅飲みをした。アルコールで骨が丈夫になるだの、今度は日帰りで退院リアルタイムアタックを決めてみせるだの、振り返れば随分なバカ騒ぎだったと思う。

 そのレンジは資格試験というものにいつの間にか合格していた。家電に関する的確なアドバイスができる証明、みたいなものらしい。次はこれまた家電量販店で役立つなんとやらという資格の一級を目指すと言っていた。私は電子レンジというあだ名の由来を更新した。電化製品が大好きだから電子レンジ。今度こそ間違いない。

 ヒカルとは相変わらずの関係だ。朝起きて、ご飯を食べて、バイトの見送りをして、お風呂に入って、布団をかぶる。そういった、今までと変わらない日々だ。


 ……いや、正直に言えばちょっと変わった。


 貰うばかりだった私は与えることも意識した。

 料理を一緒に作るようになった。野菜を切ったり、材料を混ぜたり、電子レンジ――もちろん人間じゃない方の――に入れた食材の様子を見張ったり。ピーラーで人参の皮を剥いたときは千切りの山になっていたり、電子レンジでスクランブルエッグを作ったときはもこもこと色めき立つ様子に目を奪われて気付けば固焼き卵になっていたり、失敗の方が多いような気がするけれども。そうして下ごしらえに失敗した材料を生かした即興の料理がテーブルに並ぶことも何度かあったが、最近はもうちょっとましな手伝いができるようになったと、自分ではそう思っている。

 掃除もするようになった。初日の浴室の様子からすると意外だがヒカルは長風呂派らしく、はずみで綺麗にした二日目からはシャワーだけでなくちゃんと浴槽にもつかっている。私に関しても、人間界の大気には未だに粉っぽさを感じる。だから必要ないことはわかっていても、一日の終わりには全身を洗い流したかった。そういうわけでこの家での浴室の序列は台所に比肩する位置に格上げされ、台所の掃除はヒカルが、浴室の掃除は私がやるようになった。例の洗剤の刺激臭にはすっかり慣れた。というよりも、むしろ積極的に使いたくなるような……そうヒカルに話した翌日には洗剤のボトルが見当たらなくなってい

た。どこに消えてしまったのだろう。

 与えるばかりだったヒカルは貰うことも意識した。

 延々の大地を食べてみたいと言い出したときはさすがに驚いたが、天界の食べ物に興味を持つあたりは料理好きの性なんだろうと妙な納得もあった。人間に天界のものを与えてはならないという禁忌は聞いたことがなかったが、そのときはなんとなくそろりと天界の底まで飛んでいき、幾らかちぎって地上まで持ち帰った。実食したヒカルの一言は「綿菓子とトルコアイスの中間みたいだ」だった。後にその二つを食べる機会があったが、言い得て妙とはまさにこのことであった。

 ヒカルは天界の文字についても知りたがった。天使は会話でコミュニケーションをとるから、文字を使うのは稟議書を作成するときだけだ。それも書類のためにしか使わないのだから、単語だけで構成されて文法はない。だから、人間界のアルファベットの大文字に該当する二十六文字だけ覚えれば、あとはそれを使って天使と文通だってできる。私が作った対応表を持ったヒカルは、とある日のバイト中にそれを全部覚えたらしく、今では何も見ずともそれっぽい文章を天使語で書けるようになった。そうしてバイト中で顔を合わせていない間に起きたことを天使語でメモに記し、夜には練習の成果としてそれを見せて

くれた。三日前は「竜姫 自分 散髪 失敗 触角 生成」だった。ぜひとも生で見たかったところだ。


 私たちの関係はより対等になった。

 天使と人間のどっちが上だとか下だとかではなく、同じ目線で互いに触れる。

 わからないことを聞き、わかっていることを教える。そうして昨日よりも今日の方が、朝よりも夜の方が、より相手のことを知っているという繰り返しが、駆け抜けていく時間をより鮮やかでまぶしいものにした。

 同時に、時間の価値が増していく変化をひしひしと感じるようになった。

 アルバイト先にはちょくちょく足を運ぶようになった。

 ヒカルの顔を見ていられる時間を、少しでも増やしたかった。

 一日を振り返る夜の語らいは長くなった。

 時がただ過ぎ去るばかりの真夜中の割合を少しでも減らしたかった。

 一緒の布団で寝るのはあの日からの日課になった。

 ヒカルの寿命が見えないように、抱きついた腕に顔をうずめて眠った。

 残りの、時間は……


「――……留守番、頼むよ」

 平日ではあったがヒカルは出勤しなかった。そうなるよう以前からシフトを調整していたらしい。玄関から聞こえたヒカルの声に視線を向けると、彼の手には小さな水色のバケツが握られていて、その中にはタオルやスポンジが入っている。閉まりかけのドアと玄関の間から午前の麗らかな日差しが顔をのぞかせているが、その格好は散歩に行くときのものには見えなかった。

「私も行くよ」

「そんなに面白いもんじゃないと思うぞ」

「それでもいいよ。一緒に行く」

「……まぁ、いいけどさ」

 そういって、ヒカルは手にしていたドアノブをもう一度押して扉を支えた。

 何をしにいこうとしているのかは大方見当がついている。天界から見てきた三年間で三回。毎年一度、この時期になると決まって足を運んでいる「あの場所」に行くつもりだ。

 一般的な感覚なら、たしかにヒカルの言う通り面白いものではないのかもしれない。だけど、どうあれ経験はしておくべきだと思った。それに、せっかくヒカルが仕事を休むというのに、そのうちの一部がごっそりと抜けるのはこの上なくもったいなく感じたからだ。

 いそいそとサボサンダルに足先を通して一緒に家を出る。ここ数日で一番の晴天から伸びる暖かさに思わず目を細めると同時に、小さなくしゃみがひとつ出た。それを見たヒカルもまたくしゃみをして、二人して顔を合わせてくっくっと笑った。

 ヒカルの横に並んで最寄りの駅まで歩いて、五つ先の駅で降りて、またしばらく歩くと、心を落ち着かせるような香りがどこからかふわりと漂ってきた。歩を進める先には柵で囲まれた区画の一辺が姿を現し、その内側には洗練された石の柱が行儀よく林立している。それぞれの石柱の側には淑やかな献花が添えられていたり、安らぐ香りを振り撒く線香が差し込まれていたりして、この僅かばかりの一帯を周囲の日常から少し離れたものへと切り離している。

 墓だ。人間は死ぬとここに入るらしい。

 アカリとミクも、ここではないどこかの墓の下で眠っているのだろう。

 腰までの高さしかない簡素な門を押し開けたヒカルの後に続く。石を敷き詰められた通路の両脇には、似ているようで同じものがない墓石が並んでいる。彼の背中はとあるひとつの前で止まった。

 花園家之墓。

 長方形の正面にそう刻み込まれている。天界では真上の一辺しか見えなかったのでこの墓に何が刻まれているのかわからなかったが、たった今知ることができた。

 墓が立ち並ぶ区画から少し離れたところに備え付けられた蛇口から、ヒカルがバケツに水を汲んで運んできた。その水を含めた黄色のスポンジで彼が墓石の表面を磨く。きゅっきゅっと水が擦れる音に合わせて、この前の大雨が乾いてできたであろう白く濁った点々の汚れが消える。スポンジひとつで長方形の各面の汚れも、刻まれた文字の溝に入り込んだ汚れも、するすると姿を消していく。淀みない手つきだった。

「誰か、大切な人?」

 返事は聞くまでもなくわかっていたが、屈みこんでいる背中にそう声をかけた。大切でなければ毎年足を運んだりはしないだろう。墓石を掃除する手慣れた、それでいて雑ではない手並みを見れば明らかだった。

「あぁ」

「そうだよね」

「初恋の、相手だ」

 恋という言葉は知っているが天使にそんな感情はない。

 だけど、その言葉を耳にした瞬間にとくんと鼓動が一回、無理に割り込んだような気がした。

 ヒカルは人間なのだから、恋する相手がいても何も不思議ではないのに。

 私は天使なのだから、人間の恋路に興味を持つ道理はないのに。

「返事はもらえた?」

「いいや。聞いたけどその前に亡くなったよ」

「何があったの」

「心臓の病気だったんだよ。殆ど病院に入りっぱなしの、かなり悪いやつ」

 その相手は長い付き合いの幼馴染だったらしい。

 ヒカルが話すには、小さい頃はそうでもなかったが、小学校に入ったあたりから退院している時間の方が短くなり、そのうち高校への進学を期待できないほど酷くなったらしい。

 だから彼女は成功率の低い手術にかけたと言う。

「それが、失敗したってこと?」

「失敗するとは考えてなかったけどさ、機会は逃したくないと思って手術前の病室で告白したよ……心電計が返事したけどさ」

 微笑みながらの安楽死だったと、そういってヒカルは墓石にそっと水をかけた。その上に乾いたタオルを押し当てて、傷がつかないようにゆっくりと水滴を拭きとる。タオルをどけたヒカルは、その下に残った糸屑の欠片をハンカチでさっと払った。

 本当に好きだったのだろう。

 優しい指先の動きを見つめていると、確証もなくそう思った。

「その笑みが、返事だったんじゃあないの」

「さぁな。言ってくれなかったからわかんないな」

「……残念、だったね」

 言葉に出さなければ本心が伝わらないのは、あの雨の日を経験した今ならよくわかる。

 彼女は何を想って最期に微笑んだのだろうか。

 私は墓石に手を合わせた。代弁できそうにない天使を咎めないでほしい。

「さぁ。帰るか」

 立ち上がったヒカルがバケツに残った水を近くの排水溝へ流しに行き、その後を追って私も墓石の前を離れた。


 それっきりヒカルは何も話さなかった。

 何か尋ねたり声をかけても、あぁだとかうんだとか、そういった相槌だけの返事が戻ってきて、そのうち私も話しかける材料がなくなって黙ってしまった。

 そうして道を逆になぞって、五つ後ろの駅で降りて、自宅まで歩く間、会話はなかった。


 家に戻ってもヒカルはだんまりのままだった。

 料理の下準備をしようだの、足りなければ買い物に行こうだの、まだ行ってないあの店をのぞいてこようだの、普段ならそういう話題を出しては実行に移すような頃合いだ。

 だけど、今日のヒカルは帰宅して早々カーテンを開けた窓にもたれかかって、ぼうっとどこか遠くをながめて一言も喋らなかった。

 様子がおかしいことにはとっくに気が付いている。しかしながら、どうしてヒカルがこうなったのか皆目見当がつかず、打開策の土台を組み上げるための最初の一手に取り掛かれなかった。

 ヒカルの中の何かが変わったようだが、それがわからない。変わったとしても、それはいつの話なんだろうか。昨日の夜はいつも通りだった、と思う。となれば、やはりこの墓参りを境に変わったと捉えるのが一番自然か。思えば家を出るときから、どことなくいつもと違っていたような気がしなくもない。

 だけど、よりにもよってどうして今……

「ねぇ。明日はまた遊園地に行こうよ」

「…………」

「前に行ったときはすっごい人だかりでびっくりしちゃったよ。平日ならきっともう少しくらい空いてるよね」

「…………」

「それに、あの時は人間界に降りてきて三日目だったし、勝手がわかんなかったっていうか。今ならもうばっちり慣れたからもっとたくさん見て回れるよ」

 相変わらず反応はないが、私は構わず喋り続けた。

 一人相撲に時計の針の観客が歓声を入れるが、どうにも盛り上がりに欠けていた。楽しかったことや驚いたことを逐一話して状況の好転を図り、そろそろ持ち球が尽きてくるかこないかといったその辺りで、ようやくヒカルが口を開いた。

「……また、失言だな」

「えっ? どういうこと?」

「明日の予定を立てるなんてな」

「そ、うだけど……」

 二日目の昼に同じようなことを言われたときの光景がばっと頭の中で再生された。だけど、あのときの冗談めかした雰囲気が今はどこにも感じられず、頭の先から足先までがひゅうっと冷たくなった気がした。

 外の日差しが作るヒカルの顔の影に思わず気圧された。

「ねぇ、どうしたの。今日はなんだか、その……」

「変だって?」

「いや……うん、そうだよ」

「いいや、いつも通りだ」

 そんなわけないと否定したかったが、この様子にはこれ以上ないほどの見覚えがある。

 天界からのぞいていた三年間のときの、あのヒカルだ。

 手持ちのすべてを投げ出して、もう捨てるものがないのにまだ何かを捨てようとしているような、そんな姿だ。

 かつてのその姿が今の姿にぴたりと重なって見えたがために、いつも通りだという彼の主張を強く跳ね除けることが、どうしてもできなかった。

「なんだかさ、もう充分だ」

 そんなことをヒカルが口にした。鼻から抜ける深いため息が後に続いて、それがやたらと大きく聞こえた。

「充分って?」

「やることだけのこと、やったなって」

「なに、言ってるの……」

 それじゃあまるで、残りは消化試合みたいな、そんな口ぶりだ。

 その消化の対象とは疑う余地もなく、彼の余生のことで間違いなかった。

「ねぇ、覚えてる? アカリとミクの話をしたこと」

「あぁ。俺より前に看取った二人のことだろ」

 アカリは学校で飼っているウサギのピョンの餌やりのためにいつもより早めに家を出て、二つ先の曲がり角でスピード違反の乗用車にぶつかった。左腕が関節の逆方向に曲がって、バンパーの欠片がわき腹に穴を作って、左目は潰れた。それでも、ピョンのことを気にかけて、またキャベツの切れ端を手渡しで食べさせてあげようと懸命にもがいて、救急車の中で寿命が尽きた。その事故の最初から最後まで、この目に焼き付けた。

 ミクは肺にできた癌を取り除くための開胸手術の際に敗血症にかかり、手術の二日後にショックを起こして、再び術台の上で横になったところで寿命が尽きた。胸を切り開かれて、右の肺の半分近くを切除され、それでまた別の病気に襲われた。それでも、完治したらテニスプレーヤーになりたいと病室でいつも意気込んでいた。その手術の最初から最後まで、この目に焼き付けた。

「……寿命をどう使っても構わないよ、ヒカルのものなんだから。でも、それを有意義に使おうって気がないんなら、私はなんのために、ここに……」

 それ以上は言葉が詰まって出てこなかった。

 こんなこと、天界からながめていたときは考えもしなかった。

 無為に日々を過ごして生きる目的を探そうともしない。そんなヒカルに愛想を尽かせて天界から見ていた。それくらいなら寿命は他の欲しがっている人に明け渡せと。後は残りの寿命を使い果たして勝手に終わればいいと。そうとしか思わなかった。

 だけど今は、ヒカルが寿命を持て余して消えようとしていることに、胸の奥が逆立つような強い怒りと悲しみが湧いた。ヒカルが自身に定着した寿命をどう使おうとも、私には関係ないはずなのに。

「……そうだな、まだやり残したことがある」

「なに? 協力するよ!」

 伏せていた顔をゆらりと上げながらそう言ったヒカルを見て、食い気味に返事をした。

 前向きな発言が聞けてテンションが上がった。

 そうだ。寿命は有意義に使うにかぎる。

 そこに手助けが必要だというなら、私は喜んで協力しよう。

 ヒカルは手を伸ばして、机の上に置いてあったティッシュ箱を手に取った。

「お前が来てから半月くらいか」

「……うん?」

「死ぬ前に一発ヤっておきたいから、出ていってくれ」

 そういってヒカルはティッシュを一枚引き抜いて目の前でひらひらと揺らした。


 ……何を言っているのか一瞬わからなかった。


 それが本当にやりたいことなのかなと、ひとまず真面目に捉えた。

 だけどヒカルの顔つきは真剣なものとはかけ離れている。

 それが冗談だということを、閃光が駆けるかのように一瞬で察した。


 ……今は、これ以上なく真剣な話をしているというのに……


 気付けば玄関のドアを叩くように開け広げて空へと飛び出していた。

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