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第一章 目醒

 明るく透かされた瞼の裏から逃げるように目が覚めた。

 開け広げたはずの視界はそれでも白く……眩しい。

 目が順応して周囲の色形を認識できるまでに暫し要した。

 日の光……

 時折髪をなでるそよ風……

 微かに香る甘いにおい……

 ふかふかの毛布……

 何もかも変わりのない、いつも通りの朝が訪れたらしい。

 ゆっくりと上体を起こし、覚えてもいない夢との別れを惜しみつつ目をこすりながら、腰までずり落ちた毛布を少しちぎって食べた。やわらかな弾力がすうっと溶けて、あっという間に口の中からなくなってゆく。後に残されたものについて、私はこれが甘い味なのだろうと思っている。天界には延々の大地以外に口にできるものがないのだから確かめようはないけれども。

 手を組み、ぐぅっと高く腕を上げて身体を伸ばすと、両肩に走るじんじんと痺れを伴った心地良さに気が緩み、不意に右の翼が背中の外へと飛び出した。

 天界に生れ落ちて十年……私は未だにこの翼が必要な機会に出会ったことがない。

 起きたからには「工場」に行かなくてはならない。

 いや、行かなくても不都合などありはしないが、ここでぼぅっと座っていてもいつもと変わらない穏やかな時間がただ過ぎ去り、やがてこれまたいつもと変わらない満天の星空が頭上に姿を現すだけだということはわかりきっている。目覚めてしまったからには、せめて工場のそばで何かしら面白いことでも起きないかと淡い期待を抱きながら座っている方がいくらかマシではなかろうかという、そういう理屈だ。

 つい先ほどまで全身を包んでいた毛布をもう一握りだけちぎって口にした後、私は工場の方角を確認し、ゆっくりと歩き出した。


 天界には二つのものしかない。延々の大地と工場の二つだ。そのうちのひとつの上を今、歩いている。

 延々の大地は天界と人間界を隔てる床のようなものだ。ほんのり暖かく、ふわふわしていて、適度な弾力があり、限りなく白に近い薄桃色をして、そうして果てもなく延々に広がっている。

 ついでに、この延々の大地というものは食べることもできる。味については、少なくとも工場の葉っぱよりは美味しい。食べる必要がないからと言われればそれまでだが、他の誰も口にしようとしないのはなんとももったいない話だとつくづく思う。せっかく延々に広がっていて量には事欠かないというのに。

 人間界から空を見上げても天界は見えない。

 天界から人間界を見下ろせるような場所もない。

 だけど、この延々の大地をほぐして穴をあけることで人間界の様子をのぞくことはできる。もっとも、そこまで地面を乱すのは仕事の時が大半だ。そして、用が済んだら再び平らにならして穴は塞いでおく。これは天界における数少ないマナーのようなもののひとつであった。


「――……きゅっ」

 突然、足下から小さな悲鳴があがった。

 右足をどけると、めくりあげた延々の大地の下に頭の半分まで潜り込んでいる天使が目に入った。顔の上半分までと、寝癖でくしゃくしゃに跳ねた薄桃色の髪ばかりしか見えないが、おそらく私とさして変わらないくらいの歳だろう。

 天の御使いと呼んで、天使……といってもその姿形は下界に住まう人間のそれと別段異にするところはない。違うところはせいぜい背中に生えた翼と、遠くまで見える眼と、平均して三百年ほど生きるということくらいだろうか。

 その場に屈みこみつつ、踏んでしまった小柄な天使の左脇腹あたりをさすりながら謝ると、彼女はあごの下まで毛布をずり下げながら、どうとも形容しにくいふにゃふにゃとして力の無い声調で話しかけてきた。

「おはよぅ、ぇっと……そのぅ……んんっ……えっと、あの……」

 寝ぼけた様子の彼女はそうして十秒かそこら考えた後、私のことをなんとか・なんとかという名前で呼んだ。一文字たりとも思い出せないのはどうかとも抱いたが、自信をもって相手のフルネームを思い出せないのはお互い様だったため、私はなんとか・なんとかという仮名を甘んじて受けた。

「踏んじゃってごめんね。ぼうっとしてて、うっかり」

「ぃいよ、きにしなくて。どこかにおでかけ……?」

「そう。工場に行くつもりなの」

「へぇ……工場かぁ……」

 はたらきものだねぇ~……と、聞いているだけであくびが出てきそうなほど気の抜けた感想が返ってきた。彼女も天使である以上は工場と全くの無縁ということはないにもかかわらず、その返答の内訳には「他人事だから私には関係ございません」と強調するかのようなニュアンスが多分に含まれていた。

「わたしは……マザーのおはなしでも、かおをだすかは……きぶんしだいかなぁ」

「マザーの講義なら絶対に行くよ。すっごくためになるからね」

「そっかぁ……べんきょうねっしんだねぇ~……」

 マザーの講義がその日の気分と天秤で釣り合うという彼女の考えは、私の中ではどうにも理解し難いものだった。ただでさえ何もないこの天界に身を置く中で、いつでも好きなだけ享受できる睡眠と、週に二度開かれるマザーの講義の優先度が同じだとは……

 そこまで考えて、ふと何かを忘れている気がした。

 時折、このような漠然とした健忘の気配が背中にまとわりつくことがあった。

 天使は人間のそれと比べると遥かに記憶力に長けている。あれやこれは覚えておこうという気概が当人にさえあるならば、それが余程複雑な内容でない限りは、買いたての収納箱にぽいぽいと投げ込むかのようにモノを覚えて留めておくことができる。

 そのような天使一般の性質が前提にあるからこそ、こうした出所不明の健忘感がいざ訪れた時には大層もやもやして仕方がない。何が何でも解消して心の引っ掛かりをいち早く取り除いてやらなければと、まだ寝ぼけ気味の頭を全力回転させていると、


 ……ところで、今日は何曜日だっただろうか。


 どこからともなく丁度良い閃きが現れて、繋がりそうで繋がらない納得の欠落部分を穴埋めしてくれた。


 ……そうだ、そうだった、えぇっと確か今日は……


 靄が晴れると、次は答え欲しさにたまらなくなった。

 今日が何日であるかについて疑うところはない……十月五日だ、間違いない。

 月日の概念は仕事と密接に関係する道具であり指標であった。その一方で曜日という概念、これについてはまったく関与してこない。忘れていようが、そもそも知らずにいようが、天使の責務を果たすに不都合はなかった。とはいえども、他の天使たちがどうかはさておき、私にとって日々の曜日の把握は重要な位置を占めている。

 私が踏み固めてしまった毛布を指先でもそもそとほぐしていた目の前の天使にその旨を訪ねると、彼女はごろっと転がってうつ伏せになり、今の今まで背中の下にあった延々の大地を適当にかき分けた。そうしてあけた小さな穴から人間界をのぞき、カレンダーか何かの日付がわかるものを見つけたのだろう。視線だけを私の方へと向けて、今日は金曜日だと教えてくれた。


 ……あぁ、しまった。毎週火曜と金曜はマザーの講義がある。


 二日前から殆ど寝て過ごしていたがために、これほどまでに大事にしている曜日の感覚が無情にもすっぽりと抜け落ちていたらしい。

「吹き抜けの渦に行くよ! あなたはどうする?」

 吹き抜けの渦というのは、いつからか延々の大地に自然とできた巨大な穴のことだ。

 本来であれば、あいている穴は塞いでおくのがお約束ではある。しかしながらこの穴は、縁に沿って一周しようとすれば――実際に測ったことはないものの――丸一日では足りないくらいの規格外中の規格外の円周を有する、それほどまでに巨大な大穴である。

 あまりに大きすぎるがために誰も地道にこの空洞を塞ごうなんて関心は起きず、結局そのまま堂々と今日まであけっ放しで放置されているわけだが、そのようにして残り続けたこの穴は、いつしか「あの大きな穴」ではなく「吹き抜けの渦」という固有名詞で呼ばれ始め、天界で数少ないランドマークのひとつとして認められるようになったという経緯がある。

 マザーの講義はここから工場の方角よりさらに少し向こうにある、その吹き抜けの渦の縁を背にした場所でいつも行われていた。金曜である今日もまた例外なく開講されているに違いない。

「ん~……うぅ~ん、わたしは……きょうはいいかなぁ」

 受講の誘いを欠伸混じりで断った彼女は、やわらかさをすっかり取り戻した毛布にご満悦の様子で、今度は頭の先まですっぽりと包まったかと思うと、私がまばたきを三度するかしないかという僅かな時間の内にもう小さな寝息をたてはじめた。

 講義は九時三十分から開始のはず……今が何時かもついでに聞いておけばよかったと少し後悔しながら、今度は誰も踏みつけないように早足でその場を離れ、マザーのもとへと急いだ。


「――……ですので、カミサマが生み出した純粋天使とわけて考えるために、かつての天使は複合天使と再命名されて、そう呼ばれるようになったのです」

 私がいつもの場所にたどり着いたとき、ざっと数えて三十かそこらの天使たちが既に始まって少しが経つマザーの講義を受けていた。

 受講生たちは適当な地べたに座り込んで正面にマザーを臨んでいる。皆の視線の先に立つ講師を少しばかり過ぎたところには吹き抜けの渦の縁が横一直に伸びており、以降には人間界に近い側の空が満たされている。その様子はさながら、凪いだ水面をたたえる湖畔とも例えられるだろうか。

 机も、座席も、教卓も、人間界でいうところの教室らしさを示すものは何ひとつないただの更地ではあるが、それでもこの一帯は私たち天使にとっては今まさに、れっきとした学びの場として機能していた。

 私は先客たちの邪魔にならないように青空教室の一番後ろ――と言っても、最前列や最後尾の取り決めがあるわけでもないが――に腰を下ろして、足元の手近なふわふわをかき集めてひざ掛けを作ると、その場に自らの座席を用意して講義を受ける態勢を整えた。

 マザーを含めた上級天使――所謂、天使を束ねる天使――たちは、講義という形式で様々な知識や歴史を語る。定期的に開催するかそうでないかはその上級天使の気分や性格によってまちまちだが、とにかくこの講義を受けることで、天使たちは天界のことを学んで成長する。

 上級天使こそ大勢いるが、私はその中でも特にマザーの講義が好きだった。彼女が専門とする天使学は天使の成り立ちについて教えてくれる。

 天使とはどういう存在なのか。

 どうやって生まれたのか。

 どうやって死ぬのか。


「純粋天使は『無』のみで形成されて存在しますが、複合天使の場合は『行き場を失った寿命』にこの『無』を定着させ……――」

 時折吹き抜ける微風よりもなお澄んだマザーの声が彼女の立つ場所を中心にして、りんっ、と、水面に生じた波紋のようにふわりと周囲に広がる。

 講義の内容もさることながら、マザーの声に耳を傾けることもまた、私が彼女の講義を受ける理由のひとつだった。心の奥に直接染み込むかのようなこの声に夢中になり、肝心の受講内容を覚えずに終わったことも一度や二度のことではない。

 ふと辺りを見回すと、ほとんどの天使は夢の中だった。

 足元をちぎって作った抱き枕を正面に抱えて舟を漕ぐ者もいれば、先程出会った二度寝天使のように毛布をかぶって熟睡している者もいる。ここに訪れる天使たちの大半は講義を聴くためではなく子守歌を聞くためにきているようなものだ。マザーはそういった天使も含めて、訪れる者は目的を問わず歓迎している。

 講義が進むにつれて、いつしか私以外の天使は結局全員寝てしまったようだった。いつものうららかな時の流れが頭の天辺を撫でて、ゆるゆるとその部分を温めていく。心地のよい眠気と共に座りつつ、私はマザーの講義を聴くことに集中した。


 講義が終わると、時刻は十一時を少し過ぎたところだった。

 眠っていた天使たちはぽつぽつと目を覚まして、今日も良い演奏会だったなどと余韻に浸りながら、各々が気ままに工場へと向かい始めた。もうそろそろ正午をむかえるのだから、この辺りのほとんどの天使は皆そうするだろう。

 私も流れに加わろうとして工場の方角を眺めた、そのとき、

「エミエル・ストロベリーフィールド。少しこちらへ」

 なんとか・なんとかではない、私の真の名前を呼ぶ声が聞こえた。

 声の主は誰なのか……振り返るまでもなくマザーだと分かった。


 彼女の本名はソルエル・ムーンライトというようだが、上級天使は一介の天使から昇格する際に下の名が省略される。それは、上の名だけで通じるほど偉大な存在になるからだという話を、いつか誰かがしていたような記憶があった。

 しかしながら、私を含めた多くの天使はそのような天界の背景があることを承知の上で、彼女のことをソルエルではなくマザーと呼んでいる。

 天使はカミサマによって無から天界へ生み出されるが、カミサマは天界のあらゆる事柄に対して基本的には不干渉であることを公言しており、実際に天地創生から今日までその姿勢を崩したことはほとんどないらしい。天界の均衡を維持するために天使を適宜生み出すことはあっても、そこから先のアフターケア――たとえば名前を付けたり、勉学の面倒を見たり――に対してはまず関与しない。

 そこで、新たに天使が生まれた際には、近くにいた上級天使がその新顔に名前を付けてひとり立ちできるようになるまでの面倒を見る慣習となっている。私を含めたこの辺りの天使がソルエルのことをマザーと呼ぶのはそのような天界の事情があって、彼女のことを育ての親として慕っているためであった。

 もちろん、エミエル・ストロベリーフィールドという私の名前もマザーから名付けられたものだ。私はこの名前を大層気に入っていた。


「はい! なにかご用ですか」

 私はマザーの輝く身体に自分の姿が反射して映り込むほど近くまで歩み寄った。

 上級天使へと昇格した天使は姿形が人型から大きく変化するが、彼女もその例に漏れず印象的な外見をしている。

 マザーの身体は真っ白な涙滴のような形状をしていて、背丈は私の倍以上はある。むいたゆで卵という人間界の食べ物が最も的確なたとえになるだろうか。周囲の景色や人物を反射する艶やかな質感もそれによく似ている。そのゆで卵型の身体には、木の枝が二本組み合わさってできたような細長い腕が左右一対備わっていて、それぞれの先端からは光り輝く糸のような細い指が無数に生えている。彼女の指先が微風に靡く様子はススキの穂先を思わせた。


「大事なお話があったので。まぁとにかく座ってください」

 マザーは右手の指の何本かをするすると伸ばし、私の足元をほぐしてクッションのようなやわらかい隆起をひとつ作り上げた。その際に指の何本かが互いに絡み合ってしまったようだが、どうやらそのことに彼女は気付いていない様子だった。

 クッションの上に座り、私はマザーの絡んだ指をちぎれないようにゆっくりとほどく作業に着手した。そこで彼女は自らの指たちの惨状に気が付いたらしい。

「あら、ありがとう。私ももう随分と長生きしましたからね……」

 マザーが視線を指先へと向けた。彼女に目鼻口などといった顔を構築する部品は何もなく、ただ滑らかなひとつの曲面が丸まっているだけだが、マザーが今、全盛期よりも劣ったであろう身体の機能を振り返り、少し寂しそうな「表情」をしたことが私には理解できた。

「絡んじゃっても私がまたほどきますからね」

「ちぎっちゃってもいいのよ」

「ダメです! 痛々しいので……!」

 マザーはたまにとんでもないことを言い出す。

 前に聞いた話では、この指は髪の毛のようなものだからちぎれても痛くはないらしいが、見ている者にとっては胸の奥がひゅっとする光景に違いない。それに、年をとったというのであればなおさら身体のことは労るべきであった。

「それで、大事なお話とはいったいなんですか?」

 そう聞くと、マザーは私が指をほどいている右手とは逆の手を使い、そばに置いてあった一枚の紙――紙と言っても剥がした延々の大地を押し潰して薄くしたものだが――を差し出して私の顔の前で吊り下げた。

「あなたが提出した稟議書が可決されたという報告です」

 その紙には覚えがあった。

 手持ちの羽ペンを使って目の前の内容を削り込んだことを確かに覚えている。


『稟議案:夜露の大樹 寿命供給ライン停止 結果:可決』


 その紙は以前マザーに提出した稟議書だった。

 稟議書と呼べば大層な聞こえではあるが、その内容は極めて単純だ。工場から延びる寿命供給ラインの稼働停止を上級天使に対して要求する、ただそれだけのために提出が義務付けられている、天界において数少ない書類のひとつであった。

「これが承認されたんですか」

「えぇ、その通りです」

「でも、提出したのはたしか先週のはずですけど……」

「はい。その一枚が可決されました」

 どうにも腑に落ちなかった。

 寿命供給ラインの停止という行為は相応に重要な決定である。だからこそ、普段は寝てばかりいるような天使たちにわざわざ稟議書を作成させて、直属の上級天使がそれを受け取り、上級天使が集う会合において妥当か否かの審議を進め、工場の最終責任を担う上級天使の承諾のもと、カミサマのお伺いをたてた後にようやく実行に移すという……とにかく、長い長い手続きが用意されている。

 この手続きは場合にもよるが、数か月から長い場合には一年以上かかり、そうして結局様子見という結論で棄却されるオチが大半だ。まだ三人目の担当を受け持ったに過ぎない新米天使である私発の手続きにしては、いささか可決まで至るには早過ぎるような……という考えが胸中にはあった。

 特に、私が割り振られている工場の最高責任者であるギデオンが、こんなにあっさりと工場への手出しを承諾したという点はにわかには信じがたいことであった。彼は工場の自立した機能を誰よりも尊重している。その性格傾向はどこの工場長にも当てはめることができる共通点ではあろうが、しかしながらギデオンに勝るとは思えない。それほどまでに彼は工場のありのままを常々望んでいた。


 ……もしかすると、上級天使たちも忙しくてあまり深く審査されなかったのかも。

 ……しかし、どうあれ、少なくともギデオンの承認だけは受けているはずだ。

 ……でも、あの堅物工場長がこんなにあっさりと承認を……?


「ギデオンは既に対象者の供給ラインを停止したと言っていましたよ」

 マザーの一言にひやりとした。勘ぐっていることを読まれでもしたのかと少し焦りはしたものの、マザーのいつもと変わらない穏やかな声音を聞いていると疑うような気持ちはすぐにどこかへと溶けていった。


 ……そうだ。なにも後ろめたいことをしたわけではない。

 ……この稟議書が速やかに通ったのは私の日頃の行いが良いからではないだろうか。

 ……いや、違いない。


 そう前向きに捉えることで、私の中で芽生えた些細な疑問はいつの間にか遠くへ流れて、どうでもよいことリストの末尾へと追加された。

「わかりました。供給ラインが完全に停止したかどうかと、余命の総量を確認してきます」

「よろしくね。それともうひとつ」

 これはもっと重要なことだとマザーが念押ししたので心持ち姿勢を正した。

 マザーが話題を切り出すまでに少しばかり間があった。

 気のせいだったと思い直しても構わないほどの数瞬。

 その僅かな間が私の注目と期待をそそった。

「研修を兼ねた出張に行ってもらうことになりました。今日から」

 今日からですかと聞くと、「そうです」とマザーは返した。

 私がですかと聞くと、「えぇ、そうです」とマザーは返した。

 天界でいうところの出張というのは、人間界に降りるということを意味している……

 人間界に降りるということは天界を離れるということであり……

 それはつまり、まともに使ったこともない翼で天界から飛び降りることを意味して……

「えええぇぇっ!!!??」

「あら、どうしましょう」

 驚いた拍子にマザーの指の何本かを引っ張ってしまい、今からほどこうとしていた二本はがちがちの固結びになってしまった。

「ひぇっ! ごめんなさい!!」

「いいのよ、気にしなくて」

 幸いにも、固結びのこぶには爪の先を引っかけることができる取っかかりが残されていた。そこに一縷の望みを託しながら、こぶを境にちぎれてしまわないように慎重にマザーの指をつまみ、引っかけた爪の先に力を込める。

 重い荷物を引っ張るかのようにずっ、ずっ、と片一方の指が僅かずつ解放されていく様子が確認できたことで、ようやくマザーに仔細を求める余裕が生まれた。


 人間の最期を見守るのは天使の責任だ。出張をするのはそれなりに経験を積んだ天使がやることだが、天使として行動熱心なエミエル・ストロベリーフィールドであれば、今後の成長のためにも早めにその機会に接するべきだ。

 ……と、概ねそういう内容の話が先日の上級天使の会議で行われたのだと、絡みついた指の解放に勤しむ私へマザーが説明した。

 たしかに他の天使と比べれば、上級天使の講義には頻繁に参加し、工場には毎日のように足を運び、仕事でなくても延々の大地に穴をあけては人間界の様子を眺めているという自覚はあった。上級天使たちの目にはそうした日々の姿が熱心な天使のものとして映ったのかもしれない。

 しかし、そのような私の行動のあれこれは単なる退屈しのぎにという側面が殆どであり、人間界に降りてどうこうしたいと思っていたわけでは……


 そこまで考えて、本当にそれでいいのかという疑問が頭の中に生まれた。

 人間の最期を見届けるという責任は、それが寿命の供給ラインを止めた場合だとしても天界の上から十分に果たせる。それは間違いない。

 しかし、そうして数百年、人間をのぞいてはその死を遠くでただ見ているだけで、本当にそれでいいのだろうか。どうせならもっと人間のことを知り、見守るという意義を学ぶべきなのではないか。そうすることで、初めて天使としての責任を、本質的なところから果たせると言えるのではないのだろうか。

 それに、人間界に降りれば天界にはないものにも直接触れることができる。

 嗅覚、触覚、味覚……天使にとってさして重要ではないそれらの感覚の真価を発揮するためには、天界に留まり続ける選択は得策ではなかった。無論、こうした感覚を知らぬまま三百余年の生涯を終えようと何ら不都合はないものの、持て余すという言葉を良いものとは思っていない私からすれば、絶好の機会が目の前にある以上、やらずにはいられない性分であった。

 一度考え出すと、途端に人間界のことを何も知らない自分をどうにかしたい気持ちが湧き始めた。妙な昂揚が胸の奥をくすぐり、好奇心が形を成す熱を感じた。その熱は背中にまで伝わって、肩甲骨の下付近に興奮を与えている。私の翼もこの内なる情動に同意しているらしい。

「私にできるでしょうか」

「えぇ。きっと素晴らしい成長に繋がると信じています」

「……わかりました。私、人間に会ってきます!」

「それじゃあよろしくね。 ……あら」

 マザーの固結びの指をほどき、クッションから跳ね上がった私の頭には、もう人間界へと飛び降りる自分の姿しか想像できなかった。

 指先が絡まないように小さくゆっくりと手を振るマザーに大きく手を振り返し、私は現状を確認するために工場へと駆け出した。


 天界には建物がない。

 天使たちは皆、好きなときに、好きなところへ行き、そこで横になって眠る。

 暖かい日差しと涼しい星空が規則正しくやってきて、荒天とは無縁で、外敵などいないこの天界において、人間界では重用される屋根や壁というものが必要ないためだ。それ故、マザーのもとから工場へと戻る道中も、私の視界にはその全体像が、眼をこらすまでもなく、離れたところからでも常にしっかりと視認できた。

 私が割り当てられている工場は、正確には夜露の大樹と名付けられている、巨大な樹木の一本である。

 枝の裾の端から端までがどれだけあるのかわからない。木陰には数百人もの天使が横になって昼寝をすることができるだろう。

 高さがどれだけあるのかも見当が付かない。一度翼を広げて天辺を間近にしたことはあるが遠近感が掴めなくなり、今でも遠くからその全貌を想うにとどめている。

 そして、巨大な幹が延々の大地に軸として突き立てられており、その足元から周囲へと広がる幾つもの太い根が複雑な起伏を付近の地に作り出している。

 天界にはこのような大樹が何本も存在しており、そのそれぞれが人間界の各人へ向けて寿命の供給ラインを張り巡らせ、彼らに命を配分している。その様子がまるで人間界における高度に自動化された施設のように複雑かつ正確なものだから、私を含めた多くの天使たちは自らが配属している大樹のことを「工場」と呼んでいた。

 工場に着いた私は、正午の直射日光を避けるために木陰へとやって来た大勢の天使たちを横目に、私が担当している人間へと供給ラインを張っている根を探した。目当ての根の表面にはまさに樹皮のような茶褐色の膜が張り付いていて、その根が対応する供給ラインの情報を樹木の模様の代わりに浮き上がらせている。


桜庭(サクラバ)ヒカル:未接続』


 無数に刻まれた根の模様からその文字列を見つけることができ、私が現在担当している人間にはたしかに寿命が供給されていないということが判明した。

 次に、根から離れて適当な足元を掘り返して人間界をのぞきこみ、対象者が今どこにいるのかこの眼で事前に確認することにした。

 おそらく仕事中だろう……そうあたりをつけて対象者の勤務先である二階建てのレンタルビデオ店を上空から注視し、天井を含めた幾つかの遮蔽物を透視して店内を捜索すると、カウンターに立ってバーコードを機械的に読み取っている当該人物のつむじが確認できた。

 対象者は今は勤務先にいる。それだけ分かれば充分だ。

 あけた穴を更にかき分け、私が通れるくらいの大きさまで広げた。

 ここまで大きな穴を掘るのは初めてだということもあり、三、四分ばかりの格闘の末に完成させた際には妙な達成感もあった。そうして作り出した穴とすぐに別れることに名残惜しさもあったが、このまま無造作に放置したならば寝ぼけた不幸な天使が私の後を追って落ちてくる可能性も否定できない。

 私は近くでうとうとしていた天使の一人に声をかけ、自分が飛び降りたらこの穴を塞いでおいてほしいと頼んだ。うんうんと、舟を漕ぐついでのような生返事には若干の心配も感じたが、閉じなかったからといって特別に罰則があるわけでもないのでまぁよしとした。あとは誰も落ちないことを祈る他ない。

「カミサマ! 行ってきます!」

 真っ青な空に声をかけると、はーいという返事がどこからともなく聞こえた気がした。

 あけた穴の縁に立ってもう一度ちらりと人間界をのぞく。

 ここを飛び降りればそこから先は天界ではなく、日々のぞきこんでいた空想の世界だ。

 背中にくっと力を込めると、私の中にあるほんの僅かな躊躇いを振り払うかのように、両方の白い翼がぱっとはじけた。まるでクリスマスの翌朝を待ちきれずにベッドではしゃぐ人間の子どものように。


 未知への恐怖を、未知への好奇心で上書きし、私は別世界の門へと飛び込んだ。

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