第5話
――午後0時10分
廊下にはすでに人の波ができていた。
1限から4限までの緊張が解けたせいか、制服姿の生徒たちは声を弾ませながらぞろぞろと食堂へ向かっていく。
「この匂いだぜ?どう考えても煮物だろ?」
「んなわけ、昨日の昼の組み合わせを考えたら揚げ物の方が有り得るだろ」
そんな何気ない会話が飛び交い、香織はその群れに紛れるように歩を進めた。肩が何度も触れ合い、スリッパが床を踏む音が重なり合って響く。
食堂の入口をくぐると、さらに熱気が押し寄せた。天井にぶら下がっている扇風機は最大出力で回ってはいるものの、湿った空気はまとわりつき、喉に重く残る。
配膳台の前には長い列ができており、金属のトレイを手にした生徒たちが少しずつ前へと進んでいた。
「……いいから早くして!次の人!はい、麦飯!」
「味噌汁に、揚げ豆腐と野菜炒めですよ!」
給仕係の掛け声に合わせて、アルミの茶碗や皿がカチリと音を立てて積まれていく。トレイの上に盛られた料理は素朴だが、お腹を満たすには十分な量だった。麦の粒が混じる飯、湯気の立つ味噌汁、油の匂いを漂わせる豆腐。小皿には浅漬けのキャベツが添えられている。
香織も列に従って配膳を受け取り、空いた席を探す。
食堂の中央では元気なグループが机を寄せ合って笑い声を上げていたが、香織は人目を避けるように奥の方へ進み、窓際の隅の席に腰を下ろした。
トレイを前に、箸を手に取る。
麦飯をひと口頬張ると、硬い粒が歯に当たり、噛むたびに小さな抵抗を返してくる。だが空腹の身体には、その素朴な味わいさえ沁み込んでいった。
味噌汁をすすれば、塩気のある汁が喉を流れ、胃の奥に温かさが広がる。
周囲からは食器の音と、楽しげな笑い声が絶え間なく聞こえてくる。香織はそれに耳を傾けつつも、下を向いて黙々と箸を進めた。
ふと斜め前の席で、誰かが「昨日の体育で転んでた奴?」と囁くのが聞こえた。
笑いが小さく広がり、香織の胸に不安がよぎる。
しかし顔を上げることはせず、俯きながら揚げ豆腐を小さくちぎって口に運ぶ。
昼のざわめきの中で、香織の席だけが小さな孤島のように見えたが、彼女にとってはこれが当たり前となっていた。
浅漬けのキャベツへと箸を伸ばしたとき、視界の端に見覚えのある姿が映った。
艶やかに整えられた髪、背筋を伸ばして歩く姿。その後ろには、いつもの取り巻きたちが連れ立っている。笑みを浮かべながら談笑しており、その輪の中心には、当然のように美代子がいた。
香織の胸がひゅっと縮む。止まった箸を握る指先が汗ばみ、背中に冷たいものが走る。
――こっちには来ないで。そう念じながら顔を伏せ、気配を消すように残っていた麦飯をかき込む。呼吸すら浅く抑え、咀嚼の音まで小さくした。
美代子たちの声が一瞬近づいた気がしたが、すぐに別の方向へと流れていった。
笑い声が遠ざかっていくのを耳で確かめ、香織はようやく息を吐き出す。
それは安堵というよりも、嵐をやり過ごしたあとの疲労に近かった。
冷めかけた味噌汁をすすり、揚げ豆腐も食べ終える。残ってた浅漬けもまとめて口に押し込むと、無理やり喉へと流し込んだ。
食器を持ち上げ、返却口へと運ぶ。
金属のトレイを重ねる音が、わずかに大きく響いた。
係の生徒が「ごちそうさま」と短く声をかけ、香織も小さく頭を下げてその場を離れる。
食堂を出ると、昼のざわめきが廊下にまで溢れていた。
友人同士で肩を並べて談笑しながら歩く者、意気揚々としながら校庭へ向かう者。人の波は行き先ごとに分かれ、香織はその合間をすり抜けるように歩く。
向かう先は図書室。食堂から続く廊下の先、静けさを約束してくれる場所。
スリッパの足音をできるだけ控えめに響かせながら、香織はその扉を思い浮かべ、足を進めていった。
――午後0時35分
昼休みのざわめきから逃れるように、香織は図書室の扉を押し開けた。
ひんやりとした空気が、じっとりとした曇り空の下から入り込んだ身体を包み込む。
窓には薄いカーテンがかかり、外光は曇天に和らげられながら拡散し、本棚の背表紙を淡く照らしている。昼下がりの図書室には数人の生徒しかおらず、紙をめくる音と鉛筆の微かな走りだけが静けさを形づくっていた。
香織は奥の方のテーブル席に腰を下ろし、教科書やノートを置く。
机にノートを広げ、筆箱に手を伸ばしたところで、窓際に影が動いた。
すらりとした体つきに、わずかに猫背を混ぜた姿勢。整っていながら無造作に垂れる黒髪が目元に影を落とし、その手には開いた本。村上進だった。
西日本州の山あい、津和野町の出身。父は役場に勤め、母は病弱。家族は目立たぬように暮らすことを選んできたという。
クラスでも口数は少なく、ほとんど目立たない。だが、一度発した言葉が妙に印象に残る――香織にとって、彼はそんな存在だった。
教科書を開いたまま、香織は鉛筆を握りしめる。だが、文字を追う瞳の裏では、食堂での一幕や美代子の笑い声ばかりが反響して、集中できなかった。
机の上の消しゴムを転がしながら、小さなため息をつく。その時だった。
「……梅原さん」
耳に人の声がしたのと同時に、肩が跳ねた。
顔を上げると、村上進が少し猫背を傾けるようにして立っていた。
「……えっと、村上くん?」
思わず声が上ずる。
彼は無表情のまま静かに首をかしげ、短く告げた。
「さっき……食堂で」
香織の胸がどきりとする。見られていた。俯きながら、必死に気配を消して食べ続けた自分の姿を。
村上は本を抱え直し、淡々と続けた。
「……ああいうのは、気にしすぎると苦しくなる。だからって、気にしないふりをし続けるのも……もっと疲れる」
返す言葉は出てこなかった。視線を伏せ、唇を噛む。
それでも、彼の声は落ち着いていて、どこか耳に残りやすい。
「梅原さんは……無理に目立つ必要はない。でも、消えるべきじゃないから」
――消えるべきじゃない。
その一言が、香織の胸の奥に小さな波紋を生んだ。
普段誰に対してもほとんど口を開かない村上が、自分に向けて言葉をかけてくれた。その重みが妙に強く響く。
彼はそれ以上何も言わず、本を片手に静かに歩き去った。
残された香織は、机の上の教科書を見つめながら、さっきの言葉を何度も心の中で反芻していた。
やがて、壁に掛けられた時計の針が午後の授業開始を告げる時刻へと近づいていることに気づき、香織は小さく身を震わせた。
思考の渦に沈んでいた自分を急かすように、図書室の扉の外からは廊下を行き交う生徒たちの足音が響いてくる。
香織は消しゴムを拾い上げ、鉛筆をノートの上に重ねると、教科書ごとひとまとめに腕へ抱えた。片手にずしりとした束を抱え込むと、その重みが否応なく気持ちを現実へと引き戻す。
椅子を静かに引いて立ち上がる。窓の向こうでは、まだ低く垂れ込めた雲が校舎を覆い、薄暗い光を差し込ませていた。
今日の午後の授業は思想学から始まる。他の教科とは違って間違えても大目に見てくれるような授業じゃない。
自分に言い聞かせるように心の中でつぶやきながら、香織は図書室を後にした。
廊下に出ると、すでに教室へ急ぐ生徒たちの流れができていて、スリッパの音が一斉に重なり合う。
その波に紛れるようにして歩調を速めると、先ほどまでの余韻も少しずつ薄らぎ、日常のリズムが再び彼女を包み込んでいった。
教室へ向かう階段を上がりながら、香織は胸の奥に残る言葉のかけらをそっと抱え込む。
それが重荷になるのか、支えになるのかはまだわからない。
香織は深く息をつき、足を止めることなく二階の教室へと向かっていった。