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第4話

香織の頭には、1限目の地理で見せてしまった醜態がまだ焼き付いていた。


それでも2限目の化学では、教諭が黒板一面に複雑な構造式を書き連ねるのを、ただ必死にノートへ写すしかなく、余計なことを考える余裕はなかった。幸い当てられることはなかったものの、試験のことを思うと胸の奥が落ち着かない。


3限目の現代文では、教科書に載っていた『蟹工船』の一節を順番に読まされる。声を出すたびに、1限目の教室に響いた笑い声が甦りそうになり、喉がわずかに震えたが、どうにか噛まずに自分の番を終えた。


そうして3限目がようやく終わり、教室にざわめきが広がる。香織は深く息を吐き、休み時間の空気に少し肩の力を抜いた。


「なぁ、9月にある体育大会だけどさ、俺絶対スタメン枠を取ってやるからな!」


教室の前方で立ち上がったのは山内剛だった。


西日本州の今治市出身で、父親は造船所の労働者、母親は紡績工場勤めだと聞いたことがある。日に焼けた肌と筋肉質な体つき、短く刈り込まれた髪――いかにも運動部員らしい風貌をしていた。


性格は単純で細かいことはあまり気にしないが、その明るさと人懐っこさで友人が多く、クラスの人気者の1人になっている。


剛の白い歯を見せた笑顔に、周囲の男子が「おー!」と応じて手を叩いた。


一方で、廊下側の窓際から大きな笑い声が響いた。


「昨日の合唱練習でさぁ、もっと腹から声を出せ!って顧問から言われちゃったのよ、あたしそのせいで本気で倒れるかと思ったからね!」


声の主は野口咲良。


東海州浜松市の出身で、両親は楽器工場で働いている。彼女は幼いころから楽器に囲まれて育ち、今は高校で合唱部に所属している。


ふっくらした頬にくるんとした前髪がよく似合い、表情もころころ変わる。声が大きく、思ったことがすぐに口に出やすいため、クラスの中でも特に賑やかな存在だった。


咲良の声に、取り巻きだけでなく近くにいた男子もどっと笑い、教室は一気に活気づく。


剛と咲良――どちらも明るく、場の空気を掌握する力を持っていた。


二人の明るい声が教室に響く中、香織は机の上のノートの端を指先でそろえ、机の下から次の授業で使う教科書を探して気持ちを落ち着けようとした。


そのささやかな安堵は、背後から近づく足音によって簡単に乱される。規則正しく響く靴音に胸の奥がざわついた瞬間、声が投げかけられ、香織の指先は止まった。


「……あら、まだここにいたんだ」


柔らかい響きに隠しきれない棘が混じる。振り返らなくてもわかる。美代子だ。同世代の女子と比べれば少し背が高く、肩まで伸びた髪に前髪はなく、額を出した顔立ちが脳裏に浮かぶ。


机のそばに立つ彼女は、取り巻きの二人を従え、香織の肩越しに覗き込む。


「ねえ梅原さん。次は世界史だって知ってる?また先生に当てられて、答えられなかったりしない?大丈夫そう?」


「1限目の時の地理のアレ、本当ひどかったもんねえ」


取り巻きが笑いをこらえるように口元を押さえる。


香織は返事をする代わりに、ただ教科書の背表紙に視線を落とした。胸が強張り、息が浅くなる。


その空気を切り裂くように、明るい声が教室を満たした。


「おーい、そろそろ席ついて!4限目は世界史だぞ!」


声の主は瑞希だった。ショートカットの髪を軽く揺らし、にかっと歯を見せて笑っている。筋肉質の腕を腰に当て、まるでグラウンドで仲間をまとめる部活のキャプテンのような仕草。


「ほらほら、先生が来る前に座れって!長々と説教されたいわけじゃないだろ?」


遠くからでも分かる楽天的で明るい響きに、緊張が少しだけ和らぐ。瑞希は学級委員としての責任感からか、自然と声に規律の力を帯びていた。


美代子は一瞬だけ瑞希に視線を投げ、口元に小さな笑みを浮かべる。


「……ふーん、もうこんな時間かあ。ほら、行こ」


取り巻きを従え、何事もなかったかのように自分の席へと戻っていく。


香織は机の上のノートに視線を落としたまま、かろうじて肩の力を抜いた。


やがて、廊下の向こうから硬い革靴の足音が響いた。乾いたリズムが近づくにつれ、ざわめいていた教室の空気が自然と静まり、数十の視線がドアの方へと集まった。


引き戸がガラリと開き、能見教諭が姿を現す。背筋の伸びた長身に、四角い眼鏡。小脇に抱えた分厚い教科書と、整列されたプリントを持っている。無表情な横顔は冷ややかにも見えるが、言葉を発すればその鋭さは一層際立つことを、誰もが知っていた。


能見が教壇へと歩みを進める。


「起立!」


吉田瑞希の張りのある声が教室に響いた。椅子が一斉に引かれ、生徒たちが立ち上がる。


「礼!着席!」


椅子が次々に床を鳴らし、全員が揃って腰を下ろす。その規律正しい一連の動作は、もはや儀式のように身体に染み込んでいた。


能見は教卓の中央に教科書を置き、眼鏡の奥の目で教室全体を見渡した。


「……では、世界史を始める。本日の題目は古代の中国、特に隋と唐の時代だ。そして中央ユーラシアとの関わりについて学ぶ」


チョークが黒板に白く線を走らせる。


「まずは――隋だ」


大きく板書された中国大陸を前に、能見の低く重い声が教室を満たしていく。


「隋は短命の王朝だった。しかし重要なのは、ここで初めて本格的に中国全土を統一したということだ。大運河を築き、南北を結びつけた。これによって米や塩が流通し、政治と経済の基盤が固まったのだ」


数名が一斉にノートへとペンを走らせる。香織も遅れまいと鉛筆を握りしめ、震える指で『隋=大運河』と書き込んだ。


能見はチョークを強く走らせ、新たに大きな字を黒板に刻む。


「次は唐についてだ」


その言葉に教室の空気が変わる。能見の声音がさらに低く、重みを帯びた。


「唐は隋の基盤を受け継ぎ、東アジア全域に影響を与えた。長安は人口100万を超える国際都市となり、アラブ、ペルシャ、ソグドといった民族が集まった。律令制度は日本をはじめ周辺国に伝わり、仏教もシルクロードを通じて広がった。まさに東アジア文化圏が形づくられた時代だ」


黒板には『長安=人口100万の国際都市、シルクロード』と並ぶ。


能見はチョークを置き、生徒たちを見渡した。


「ではここで問おう。唐の都だった長安で活動した交易民族は誰だったのか……吉田」


瑞希は勢いよく立ち上がり、笑顔のまま胸を張った。


「はい、ソグド人です!商業を担って唐と他地域を結び、音楽や宗教など文化も伝えました!」


「その通りだ」


能見は満足げに頷き、黒板に『ソグド人=商業・文化伝播』と書き加えた。


「吉田はよく理解しているな。民族交流が文化を生む好例だ」


瑞希は元気よく「ありがとうございます」と答え、座る。


その表情は生き生きとし、隣の席の生徒にさりげなくノートを見せてやっていた。


能見は再び視線を巡らせ、今度は教室の窓側に目を止める。


「では次だ。唐と関わり、時に戦いながらも、時に同盟を組んだ遊牧民族――突厥やウイグルの特徴を述べよ。……山内」


「えっ、オレっすか!?」


剛は慌てて立ち上がり、頭をかきながら必死に言葉を探す。


「えーと……馬をいっぱい飼ってて、戦うのが……得意な人たちっす!」


教室のあちこちでクスクスと笑い声が漏れる。能見は眼鏡を押し上げ、冷ややかに続けた。


「半分正しい。確かに軍事力で唐に影響を与えた。しかし彼らは交易の仲介者でもあった。唐は彼らから馬を得て、彼らは唐の絹や鉄器を受け取った。単なる戦う民族ではなく、経済の要でもあったのだ。」


黒板に『遊牧民=軍事+交易』と記すと、能見は剛を鋭く見据えた。


「山内、次はもう少し整理してから答えろ」


「は、はいっ!」


剛は顔を真っ赤にしながらも、照れ笑いを浮かべて席に戻った。その姿に、友人たちの笑いは絶えなかったが、どこか憎めない空気が漂っていた。


能見は再び教室を見渡す。香織の背筋に冷たいものが走った。


心臓が早鐘を打ち、指先が机の端をつかんで離れない。


だが能見の視線は、香織の席を素通りして別の列へと流れていった。問いは投げかけられず、説明はそのまま進んでいく。


ほっと息を吐いた瞬間、胸の奥に別の重苦しさが広がった。


安堵と劣等感が交じり合い、喉の奥に苦いものを残す。


やがて能見は黒板を叩き、低い声で授業を締めくくった。


「今日はここまでだ。次回は東南アジア地域を扱う。稲作の広がりと海上交易について、必ず予習しておけ」


「起立!」


瑞希の明るい号令に合わせ、全員が一斉に立ち上がる。


「礼!」


礼が揃い、能見は頷いて教壇を離れた。硬い革靴の足音が廊下へと遠ざかっていく。


「着席!」


その瞬間、教室の空気がふっと緩んだ。椅子の軋む音や、鞄の中を探る音が次々に広がる。


「腹減ったな、早く行こうぜ」


「だな、食堂すぐ混むから急がねえと!」


声を上げる者もいれば、机を片付けてゆっくり立ち上がる者もいる。友人同士で誘い合いながら、廊下へと歩いていく姿が次々に重なった。


香織も、教科書を揃えて鞄へとしまいながら、昼食の時間をどう過ごすかぼんやりと思い描く。


廊下に流れ出していく人波に加わると、窓からの光が揺らめき、もうすぐ昼だと告げているように感じられた。


こうして、午前の授業は終わりを迎えた。

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