第3話
食堂を出て校舎に入り、階段を上がると、二階の廊下はすでに朝のざわめきに満ちていた。
制服姿の生徒たちがそれぞれの教室の前にたむろし、同じ地方出身の仲間どうしで雑談を交わしている。
「昨日アイツがラジオこっそり聴いてたの先公にバレて連れ出されたの聞いたか?」
「おう、アイツ多分アメリカの音楽が聴ける番組に繋げてたらしいぞ」
「本当か?絶対ウソだろ」
笑い声や軽口があちこちで弾け、蛍光灯に照らされた廊下は、どこか浮ついた活気に包まれていた。
その中を香織は鞄を肩にかけ直しながら進んだ。すれ違う数人の生徒がちらりと彼女に目を向け、何かを囁き合う。睨むような視線を感じ、胸の奥がひやりと冷たくなる。顔を上げられず、自然と歩幅が小さくなった。
香織が所属する1年C組は廊下のちょうど真ん中の教室である。教室に入ると、すでに何人かは授業に備えて席に着いており、窓際で談笑している生徒たちの輪も見えた。黒板の上には『平等は力なり、進歩は未来なり』と赤い文字で書かれた標語がある。
香織は教室で1番後ろの自分の席に腰を下ろした。椅子の脚が床をきしませる音にさえ、周囲の視線が一瞬集まったように感じる。
気にしてはいけないと心で繰り返すが、どこかに潜んでいる冷たい目線は、見えない棘のように肌にまとわりついて離れなかった。
その中でただ一人、光をまとっているように見えるのが美代子だった。机に正しく腰を下ろし、背筋を伸ばし、ノートと教科書を几帳面に並べる。その姿勢の良さだけでなく、自然と数人が彼女の周囲に集まり、小声で笑い合う姿が、彼女がこのクラスの中心的な存在にいることをはっきりと示していた。
教室のざわめきが頂点に達しようとしたころ、廊下の向こうから重たい靴音が近づいてきた。それと同時に、談笑していた生徒たちはぱっと口を閉ざす。
しばらくしてドアが開くと、地理担当の片桐教諭が姿を現した。
「起立!」
前列の席から、よく通る声が響いた。
声の主は学級委員の吉田瑞希。北海州の千歳市出身で、軍の町で育った彼女はいつも歯を見せて笑う快活な少女だ。ショートカットの頭をきびきびと動かし、筋肉質な身体は制服越しでも引き締まって見える。
「礼!」
「おはようございます!」
全員の声が揃い、机と椅子が一斉に鳴った。
瑞希の号令に合わせ、教室全体が軍隊のような統一感を見せる。彼女自身も軍人の娘らしく、背筋をぴんと伸ばし、笑みを絶やさずに動作をこなしていた。
「着席!」
その一言で、椅子が一斉に床をきしませた。
香織も遅れないように動作を繰り返す。心臓がまだざわついていたが、瑞希の張りのある声が合図になると、不思議と少し落ち着くのを感じた。
全員が着席したのと同時に、1限目の授業を開始を告げるベルが鳴った。
片桐教諭は教卓に地図帳の束を置き、ゆっくりと眼鏡を直す。
「――よし、全員揃っているようだな。では地理の授業を開始する。本日はソビエトと中国、そしてユーゴスラビアの民族についてだ。どの国の民族も多様でありながらも、我々日本と同じく社会主義の理念を掲げる国家でもあるから、しっかりと覚えるように」
黒板に大きな世界地図が広げられ、赤い色で塗られた広大な領域が目を引いた。
まず最初に片桐教諭が注目したのはソビエト連邦。持っているチョークがシベリア地方を叩き、重々しい声が教室を満たしていく。
「まずはソビエト連邦だ。ソビエト連邦には現在、百を超える民族が共存している。ロシア人、ウクライナ人、カザフ人にブリヤート人など……国土の大半を占めている亜寒帯気候の影響で冬は厳しいが、それぞれの文化を尊重しながら、団結を果たしてきた。ボリジョイ・バレエやドストエフスキーといった芸術もそうだし、第二次世界大戦におけるナチス・ドイツとの戦いでの勝利も、その土壌から生まれたものだ」
覚えることの多さに、ほとんどの生徒が一心不乱にノートへペンを走らせていた。そんな中、美代子は涼しい顔でその様子を眺めていた。
香織も慌ててノートを開き、震える手で『ソ連=多民族国家』とだけ書き込む。
片桐はチョークで地図上の中国を叩いた。
「次に中国だ。中国には漢民族に加えて56の少数民族が暮らしている。漢民族が多数を占めるが、ウイグル族、チベット族、モンゴル族など、それぞれ文化も言語も異なる。――では、吉田」
名指しされた瞬間、教室の空気が軽くざわめいた。
瑞希は迷うことなく立ち上がり、明るい声を響かせる。
「はい。中国は民族が多彩ですが、すべての民族が鄧小平同志の下で団結しています。気候の違いから農業も分かれていて、北は小麦、南は稲作が中心です」
「うむ、吉田は要点をしっかり押さえているな。座ってよし」
片桐は満足げに頷いた。瑞希はにこりと笑って「はい」と返し、すぐに腰を下ろした。その自然体の余裕が、教室を一瞬やわらげる。
香織はページの隅に『中国=多民族、農業=南は稲作、北は小麦』と走り書きした。
すると片桐は別の地図を展開した。地図はヨーロッパへと変わり、今度はバルカン半島のとある地域を指した。
「最後にユーゴスラビアだ。セルビア人、クロアチア人、スロベニア人……小さな国土でありながらも多民族が入り組み、宗教や文化の違いも大きい。では――」
彼の目が巡り、やがて香織に止まった。
「梅原。ユーゴスラビアの民族と気候について説明したまえ」
一斉に注がれる視線。香織の手が止まり、喉がひりついた。ノートにはユーゴ=多民族としか書かれていなかった。
「え……えっと、その……」
かすれた声だけが空気を震わせ、沈黙が教室を覆う。その時だった。
「先生、私、答えてもいいですか?」
澄んだ声が左斜め前から上がった。美代子だった。彼女はすっと手を挙げ、背筋を伸ばしたまま微笑んでいる。
「その声は高木か、答えは何だ?」
「ユーゴスラビアは多民族国家で、セルビア人やボシュニャク人を中心に宗教の違いもあります。気候は地中海性気候と大陸性気候が混ざっていて、夏は乾燥して暑く、冬は雪が多いのが特徴です」
「その通りだ。模範的な答えで感心だ、高木」
美代子は片桐教諭に対して満足げに頷いた。
すぐさま教室のあちこちから小さな笑いが漏れる。
「やっぱ梅原には無理だったか」
「だって父親が原発の建設に貢献した党員だぜ?生き方も真逆なんだから無理に決まってる」
「やめとけよ、そういう事言うのは」
香織は視線を落とし、机に置いた手をぎゅっと握りしめた。頬に熱が上り、耳まで赤くなる。
美代子は振り返ることもなく、あくまで優等生の顔を崩さないまま、自分の席へと座った。
片桐はチョークを置き、香織の方へと冷ややかな視線を向ける。
「梅原……これで答えられなかったのは、何度目になる?」
静まり返った教室に、低い声が響いた。香織の背筋が震える。
「次に当てられたときも同じように黙り込むのか?……いいか、授業というのは復唱でも暗記でもなく、知識を確かに自分のものとする訓練だ。次に同じことを繰り返すようでは困るぞ。しっかり覚えておくように」
「……申し訳ございません」
香織はか細い声でそう言い、深く頭を下げた。視界の端で何人かの生徒がくすりと笑った気がした。彼女は俯いたまま、そっと腰を下ろす。
片桐はそれ以上追及せず、再び黒板に向かい、チョークで民族名や気候区分を書き続けた。教室には鉛筆の走る音と、教師の低い声だけが流れた。
――やがて壁の時計の針が、休憩の直前を指す。
「よし、今日はここまでだ」
片桐はチョークを置き、教室全体を見渡した。
「次の授業では、アフリカ大陸を扱う。サハラ砂漠より南の気候区分、そして部族や民族問題についてだ。各自、予習を怠らないように」
しんとした空気を破るように、瑞希が椅子を引いて立ち上がった。学級委員として、いつも通りの役割を果たす。
「起立!」
生徒たちが一斉に立ち上がる。椅子の脚が床を擦る音が重なり合った。
「礼!」
片桐の背中に向けて、生徒たちが声を揃えて頭を下げる。
「着席!」
再び座る音が揃い、直後にベルが鳴った。片桐は頷きながら教卓の横を回り、教室を出ていく。その背中が扉の向こうに消えると、教室はいつものざわめきに戻った。瑞希は小さく息をつき、隣の生徒に笑みを向けてから腰を下ろした。
香織は机の上のノートを閉じながら、胸の奥にまだ重たい塊を抱えたまま、次の休憩のざわめきに巻き込まれていった。