第2話
――午前6時30分
6月の湿った空気の中、全校生徒と教職員一同は校庭に集まっていた。
校舎の入口近くに置かれている掲揚台には、掲揚を担当する生徒によって赤い旗が巻かれたまま準備されており、曇天の下でも布地の赤色はくっきりと目立っている。香織にとってはこれが毎朝見慣れた光景だった。
「国旗掲揚!掲揚台に注目!」
三年生の男子生徒が声を張り上げる。その響きに合わせて、数百人の生徒が、誰も迷いなく、同じような動きで自然に身体の向きを揃えた。香織も少し遅れて掲揚台に身体を向ける。
教師たちもまた、当たり前のように掲揚台に向けて体勢を変える。
「敬礼!」
一斉に腕が上がる。音もなく揃うその動作は、もはや訓練の結果というより習慣として定着していた。
そして巻かれていた赤旗は、旗手の両手に支えられながら静かに引き上げられていった。
やがて旗が決められた高さに達すると、旗手が腕を振り、国旗を風に乗せる。
赤い布は勢いよく広がったが、その光景もまた、生徒たちにとっては見慣れた朝の一手順に過ぎない。
国旗の中央部には黄金の歯車が輝き、その中心には炎を象った松明が掲げられ、さらにその上には共産主義を示す小さな黄色い星が浮かんでいた。
日本人民共和国――かつての日本から大きく姿を変え、新しい体制のもとに築かれた国の象徴だ。
今、その旗が掲揚台ではためいている。
説明を受けるまでもなく、この高校に入学してから生徒たちは毎朝これを見上げてきた。視線を向けることも、敬礼の動作も、すでに習慣として身体に染みついていた。
掲揚に合わせて、校舎に備え付けのスピーカーから『故郷』の伴奏が流れ出す。音量は少し大きいが、それすらも耳慣れてしまっている。国歌として一番だけが演奏されるのも、もはや誰も疑問に思わない決まり事となっていた。
亜希子は真剣な面持ちで掲揚されていく国旗を見上げていた。
香織もまた同じ姿勢を取っているが、その瞳は旗を通り越して、曇った空をただ眺めている。毎日当たり前のように行われていることだからこそ、視線は遠くの方へと向いてしまうのだった。
国旗が最頂部に到達するのと同時に、スピーカーから流れていた国家の伴奏は終わりを告げた。それからしばらくして、号令担当の3年生の男子生徒から、空気を震わすような張りのある声が響いた。
「一同、直れ!解散!」
その瞬間、縛られていた静けさが解け、生徒たちは自然に列を崩し、流れるように食堂のある建物へと向かい始める。
香織も足元に置いていた鞄を抱え直し、遅れまいと周囲の流れに足を合わせた。
――午前7時
食堂の中は朝からむっとするほど蒸し暑く、窓際に吊された扇風機が低い唸りを上げて回っていた。生ぬるい風は届いても気休め程度で、集団の熱気にすぐ押し返されてしまう。
配膳台に並ぶのは銀色のトレイとアルミの茶碗。給仕係の生徒が流れるような手つきで食事をよそっていく。
「次の人!はい、麦飯」
「味噌汁と塩鮭、それから野菜の煮付けね」
かつては雑炊や芋粥ばかりだったが、近ごろはいくらか改善されていた。麦飯は腹持ちがよく、薄い塩鮭と大根や人参の煮付けが添えられている。さらに小皿にはほうれん草のおひたしまでつく。質素ではあるが、栄養の均衡を意識した献立だった。
香織はトレイを持ち、なるべく人目につかない奥の席へ腰を下ろした。周囲では食器のぶつかる音と、小声の会話が入り混じっている。
「今日もまたソ連の文化の話出てくんのかなぁ」
「いや、今日は中国の民族の方だろ」
「どっちにしたって覚えること多すぎじゃん。試験前とかやってらんないわ」
「まあまあ、あとで覚え方教えてやるって」
隣のテーブルから他愛もない会話が飛び交う中、香織は静かに麦飯を口に運ぶ。麦の粒が硬く、噛むたびに小さな抵抗を感じた。それでも、空腹の身体には温かさがゆっくり沁み込んでいく。その時だった。
「あれ?網走の娘じゃん」
斜め前の席から、くぐもった声が耳に入った。言ったのは美代子だ。肩まで伸ばした髪をかき上げながら、わざと香織の方に視線を流す。その隣に座る取り巻きたちが、含み笑いを押し殺すように口元を隠した。
「もしかしてさっきの聞こえてた?」
「うわぁ…こっわ」
ひそひそ声と笑いが小さく連鎖していく。
香織は箸を止め、顔を伏せた。鮭の身を少しずつほぐし、ただ小さな欠片を口に運び続ける。噛むほどに塩気が広がるのに、味はほとんど感じられなかった。
やがて、前の席でトレイを片付け始める気配がした。美代子とその取り巻きだ。ガタリと椅子を引く音が響き、笑い声を残したまま返却口へ向かって動き出す。
「……ごちそうさま。そろそろ急がなきゃ」
「うん、1限目始まる前にさっさと行こ」
軽い調子のやり取りと共に、足音が近づく。
その時、美代子が香織の背後を通る瞬間、わざとらしく肩を小突いた。
「あ、ごめんねぇ狭かったからさ」
口先だけの謝罪。取り巻きたちはくすくす笑いながら通り過ぎていく。
香織は箸を握り直し、何もなかったように麦飯をかき込んだ。だが喉の奥に張り付くように米粒が残り、慌てて味噌汁を流し込む。
ごくりと無理に飲み下した拍子に、軽い咳が漏れた。
咳を抑え込むように咄嗟に口元を押さえ、残りの鮭を小さく口に運ぶ。味を気にも留めずに早く食べ終えて、ただひたすらこの場を立ち去ることしか頭になかった。
「……ごちそうさまでした」
ようやく箸を置き、香織は冷めきった味噌汁を一気に飲み干した。立ち上がって銀色のトレイを返却口に運ぶと、そこから漂う食器と汁の匂いが鼻を刺す。列に並ぶ他の生徒たちの声が、遠くの雑音のように耳を通り抜けていった。
返却を終え、椅子の横に置いてあった鞄を肩に掛ける。食堂を出る瞬間、背中に冷たい視線が突き刺さるような気がした。今日もきっと何かされる――そう思うと気が滅入ってしまう。
でも今それを避ける術はない。香織は小さく息を吐き、視線を時計に落とす。針は午前7時45分を指している。1限目の始まりまで、残り15分。彼女はそのまま歩き出した。
「そろそろ行かなきゃ」
そう小さく呟くと、校舎へ続く渡り廊下を抜け、1年C組の教室へと足を向けた。