第1話
――1985年6月14日
午前6時、けたたましいベルが1年女子寮全体に鳴り響き、同時に廊下の電灯が一斉に灯った。
四人部屋の窓の外には、高台から見下ろすコンクリートの団地群が霞の中に沈んでいる。薄暗い朝靄の向こうに、点々と灯りがにじみ、まだ夜の名残が濃い。
木製の二段ベッドで身を丸めていた少女たちは、これから始まる点呼に間に合わせるべく、しぶしぶ身体を起こし始める。ただ一人を除いて。
「おい梅原、早く起きなさいよ!早くしないと連帯責任でこっちに迷惑かかるんだからね!?」
布団を乱暴に引き剥がしたのは、同じクラスの長倉亜希子だった。短いポニーテールを揺らし、寝ぼけ眼の香織を睨みつける。毎朝のように声を張り上げるのは決まって彼女だ。
「は、はい、すぐに支度します…」
生気のない声で香織は呟く。二段ベッドの下の寝床から上体を起こし、布団をゆっくりと、丁寧に折り畳んで所定の位置に置く。枕も同様に布団の上の真ん中に置き、寝床の整理は完了する。
寝床の整理を終えた後、机の上の手鏡を手に取り、目の下の隈に視線が止まるが、すぐに逸らして見なかったことにする。櫛で乱れた黒髪を梳かし、寝間着を脱いでセーラー調の制服に袖を通した。
壁のフックにかけられていた赤色の三角スカーフを手に取ると、慣れたように襟元に通した。指先で布を揃え、軽く結び目を作る。左右の長さを一度だけ確かめている中、横から亜希子の声が飛んできた。
「梅原さぁ、もっと早く動けないの?そんな調子だと、あんたをいじめてくるアイツどころか、監視してる教師にまで目をつけられるわよ?」
「うん、ごめん、長倉さん……」
香織は小さく答えた。それに亜希子は軽い溜め息を吐く最中、香織は椅子に腰を下ろし、履いていたスリッパを片方ずつ脱いで無造作に横へ寄せた。
机の引き出しから白い靴下を取り出し、慣れた手つきで履き、ローファーに足を滑り込ませる。最後にスリッパを所定の位置に押し込み、立ち上がった。
「ごめん長倉さん、支度できました…」
「ごめんじゃないわよ!準備出来たなら急いで寮の入り口まで行くわよ!早く!」
亜希子は焦燥感に駆られながらドアを開け、小走りで廊下へ消えていった。香織も遅れまいと鞄を肩にかけ、ドアを閉めてその後を追った。
同じ頃、1年女子寮舎の外の入り口前には、すでに多くの生徒が部屋ごとに列を作って待機していた。
名簿を片手にした寮母が、鋭い目つきで一人ひとりを指差し、確認しながら人数を数えていく。
香織と亜希子は息を弾ませながら列に滑り込み、亜希子は三番目、香織はその後ろへ並んだ。
「亜希子ちゃん、今日もあの子の世話してたの?」前に並んでいた同じ部屋の女子が、小声で囁いた。
「そうだよ全く……結構タイミング危なかった?」
「本当に危なかったよ。もし寮母さんに見つかってたら、その場で規範意識が足りないとか言いだして、きっと長い説教だったよ」
二人の声が針のように耳に刺さる。そのやり取りに混じって、別の部屋の子の冷たい視線が自分に向けられているのを、香織ははっきりと感じ取った。
胸の奥がずきりと痛む。何も言い返せず、ただ俯いて靴の先を見つめるしかなかった。
名簿を閉じた寮母が一歩前に出て、全員に響く声を張り上げた。
「人数確認が終わりました。これから点呼をとります。では部屋番号順に――松本仁美!」
「ハイ!」
張りのある返事があたりに響く。
元気に声を出す子もいれば、疲れたように声を絞り出す子もいる。名簿の読み上げは淡々と進み、やがて香織たちの部屋の番になった。
「…長倉亜希子!」
「ハイ!」
亜希子は背筋をまっすぐに伸ばし、模範生らしくよく通る声を出した。香織の目には、その姿がやけに堂々として見えた。
「梅原香織!」
「……はい」
香織は背筋を正したまま、小さく返事をした。寮母はあまりにも元気の無い返事に怪訝そうな表情をする。
横の方で、くすくすと笑い声が聞こえた。肩を震わせる子もいる。唇を強く噛みしめ、香織は視線を落とした。肩が勝手にすくんで、呼吸が浅くなる。
一年女子寮全員の点呼が終わると、寮母は名簿を脇に抱え、列を見渡した。蒸し暑さを含んだ風が流れ込み、並んでいる生徒たちの制服の袖をわずかに揺らした。
梅雨入り前の六月中旬、じっとりとまとわりつく湿気のせいで誰も声を出さないまま、寮母は口を開く。
「全員揃っているようですね」
寮母の声ははっきりしていて、湿った空気を切り裂くように響いた。
「いいですか。学校生活を送るうえで最も大切なのは、規律と連帯です。一人の気の緩みが、部屋全体を危うくし、寮全体の士気を損なうのです。規範を守る意識が欠ければ、周囲に迷惑をかけ、将来を棒に振ることにもなりかねません」
その言葉が香織の耳に流れ込むと、喉の奥が詰まるような感覚がした。汗と湿気で重くなった髪が頬に張りついている。まるで自分が名指しされているかのように響き、首筋に冷たい汗が伝った。
「共同生活を送る場である以上は、互いに注意し合い、助け合うこと。規律を乱す者を黙って見過ごすこともまた同罪です」
亜希子が視界の端で小さくうなずいた。香織は慌てて背筋を伸ばしたが、うなずくことはできなかった。
「以上を肝に銘じ、本日も未来を担う青年らしく行動してください」
寮母からの訓示が終わり、前列の生徒たちは揃って敬礼する。
そして待ちかねたように、小走りで校舎へと向かっていった。制服が一斉に揺れ、靴音が重なって校舎に通ずる道に向けて駆け抜けていく。
向かう先は校庭。毎朝欠かさず行われる国旗掲揚と国歌静聴のため。
遅れてはならないと分かっていても、香織の足取りは自然と一拍遅れる。
それでも列の流れに押し出されるようにして、香織も鞄の位置を直し、小走りで校庭へと向かった。