第8話 君が、いない世界で。
九月の風が吹きはじめたある朝、病院から一通の連絡が届いた。
紬が、眠るように息を引き取ったという報せだった。
朝方のことだったらしい。
苦しまず、静かに、ただ目を閉じたままだったと。
蒼司は、そのとき、不思議と泣かなかった。
けれど、何かが胸の奥で“音もなく崩れていく”感覚が、ずっと続いていた。
気づけば、ポケットの中にある小さな封筒に指を添えていた。
――あの日、紬が託した最後の手紙。
夜。
彼は、海辺の小さな宿の部屋でそれを開いた。
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結城くんへ
この手紙を読んでいる頃、私はもう、この世界にいないんだと思う。
だけどね、不思議と怖くはないよ。
たぶんそれは、あなたが“ここにいた私”をちゃんと見てくれたから。
生きていることって、きっと、ただ心臓が動いていることじゃないよね。
笑ったり、怒ったり、誰かを好きになったり。
そのすべてが“私だった”って、私は信じたい。
あなたと過ごしたあの夏の一日は、
私がこれまで願ってきたすべての夢を、ひとつにしてくれた日だったよ。
ありがとう。
出会ってくれて、名前を呼んでくれて、
そして――私のことを、“残して”くれて。
最後に、ひとつだけお願いがあります。
どうか、あなたの“見つけた景色”を、
誰かに見せてあげてください。
私が愛した世界を、あなたの目を通して、誰かに届けてあげて。
それがきっと、私が“生きていた証”になるから。
紬より
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手紙を読み終えたあと、蒼司は声を出さずに泣いた。
ただ、両手で顔を覆い、嗚咽だけが夜の部屋に響いた。
“紬”という名の少女は、もういない。
でも、彼女の声も、笑顔も、涙も、
あの夏のすべての記憶が、胸の奥で確かに生きていた。
数日後、蒼司は静かに旅支度を整えた。
紬と過ごした町を離れるのは、あまりにも寂しくて。
けれど、同じ場所に留まってしまえば、彼女の願いを果たせない気がしていた。
「あなたの目を通して、誰かに届けてあげて」
手紙に書かれていたその言葉が、胸の奥にずっと残っていた。
彼女がこの世界で見て、触れて、愛したもの。
それを、自分のレンズを通して残すこと――それこそが、彼女に“託された”ものなのだと、ようやく理解できた。
東京に戻った蒼司は、かつて妹と一緒に通っていたギャラリーに足を運んだ。
小さな貸しスペース。白い壁と、木のフロア。
そこに、紬の写真を並べる。
彼女が笑った場所、歩いた道、見上げていた空。
そして――あの日、海に向かって両手を広げた、あの一枚。
シャッターを切ったとき、蒼司は「残してしまった」と感じていた。
でも今は、それが「残すための一瞬だった」と思える。
展示の準備は、丁寧に、時間をかけて進めた。
どの写真にもキャプションはつけなかった。
けれど、紬の言葉を引き写した手紙だけを、ひとつの台にそっと置いた。
> “たった一度でも、誰かをちゃんと好きになれた記憶が、
> 死ぬことよりずっと大きな意味を持つと思うの。”
オープン初日、会場には数人の来場者が訪れた。
静かな空間に、淡い光と風景が並ぶ。
誰も声を上げない。
ただ、立ち止まり、眺めて、目を伏せ、そしてまた次の写真へと進んでいく。
その中に、見覚えのある姿があった。
紬の母親だった。
控えめに入ってきた彼女は、ひとつひとつの写真の前で、そっと目を閉じるように佇んでいた。
そして、紬のあの一枚――海に向かって立つ背中の前で、ゆっくりと膝を折り、小さくつぶやいた。
「……ありがとう」
蒼司は、声をかけなかった。
けれど、その一言が、この写真展のすべてを肯定してくれた気がした。
展示の最後に置かれた手紙を、彼女はそっと読み、涙を拭いながら頭を下げて出ていった。
その姿を見届けたあと、蒼司はひとりギャラリーの中央に立ち、改めて彼女の“残した光”を見渡した。
紬はもう、この世界にはいない。
けれど――確かに、ここに“生きている”。
写真展が終わった翌週、蒼司は再びカメラを手に、旅に出た。
目的地は決まっていなかった。
ただ風の吹く方へ、光の差す方へ、彼女が好きだった空の色を探して歩く。
「残すこと」――かつては、それが怖かった。
誰かの記憶を焼きつけることが、喪失と直結するように思えた。
けれど今は違う。
残すという行為は、誰かの生を肯定すること。
“ここにいた”という証を、世界に刻みつけること。
紬は言った。
>「私の代わりに、生きてほしいの」
それは、あまりに重く、けれど確かな祈りだった。
宿の部屋で、彼はふとノートを開いた。
そこに、自分の手でひとことだけ書く。
>「今日、名前も知らない少女が、小さな花を拾って笑った。
> その笑顔を、ちゃんと見ていた。
> シャッターは押さなかったけれど、たしかに残った」
カメラを持っていても、すべてを写真にする必要はない。
でも、“残す”という気持ちは、たぶん、今の自分にとっての“生きること”だった。
夜。
蒼司は、紬の手紙の最後のページを、もう一度だけ読み返した。
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――ねえ、結城くん。
君がいつか誰かと笑って、
また新しい景色に出会ったとき、
どうかほんの一瞬でいいから、私を思い出して。
それだけで、私はその世界にもう一度生きていられるから。
私は、君に出会えてよかった。
君が、私の“最後の風景”になってくれて、本当にありがとう。
君がいない世界で、私は――
ずっと、君の幸せを祈っています。
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涙は、もう流れなかった。
ただ、胸の奥に灯った光が、彼の背をそっと押した。
窓の外、朝焼けが空を満たしていく。
その色は、紬が愛した色と、まったく同じだった。
彼女はいない。
でも――
“君が、いない世界で。”
蒼司は、今も確かに、生きている。
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〈完〉