表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/8

第8話 君が、いない世界で。

 九月の風が吹きはじめたある朝、病院から一通の連絡が届いた。


 紬が、眠るように息を引き取ったという報せだった。


 朝方のことだったらしい。

 苦しまず、静かに、ただ目を閉じたままだったと。


 蒼司は、そのとき、不思議と泣かなかった。

 けれど、何かが胸の奥で“音もなく崩れていく”感覚が、ずっと続いていた。


 気づけば、ポケットの中にある小さな封筒に指を添えていた。


 ――あの日、紬が託した最後の手紙。


 夜。

 彼は、海辺の小さな宿の部屋でそれを開いた。



 結城くんへ


 この手紙を読んでいる頃、私はもう、この世界にいないんだと思う。

 だけどね、不思議と怖くはないよ。

 たぶんそれは、あなたが“ここにいた私”をちゃんと見てくれたから。


 生きていることって、きっと、ただ心臓が動いていることじゃないよね。

 笑ったり、怒ったり、誰かを好きになったり。

 そのすべてが“私だった”って、私は信じたい。


 あなたと過ごしたあの夏の一日は、

 私がこれまで願ってきたすべての夢を、ひとつにしてくれた日だったよ。


 ありがとう。

 出会ってくれて、名前を呼んでくれて、

 そして――私のことを、“残して”くれて。


 最後に、ひとつだけお願いがあります。


 どうか、あなたの“見つけた景色”を、

 誰かに見せてあげてください。


 私が愛した世界を、あなたの目を通して、誰かに届けてあげて。


 それがきっと、私が“生きていた証”になるから。


 紬より



 手紙を読み終えたあと、蒼司は声を出さずに泣いた。

 ただ、両手で顔を覆い、嗚咽だけが夜の部屋に響いた。


 “紬”という名の少女は、もういない。


 でも、彼女の声も、笑顔も、涙も、

 あの夏のすべての記憶が、胸の奥で確かに生きていた。


 数日後、蒼司は静かに旅支度を整えた。


 紬と過ごした町を離れるのは、あまりにも寂しくて。

 けれど、同じ場所に留まってしまえば、彼女の願いを果たせない気がしていた。


 「あなたの目を通して、誰かに届けてあげて」


 手紙に書かれていたその言葉が、胸の奥にずっと残っていた。


 彼女がこの世界で見て、触れて、愛したもの。

 それを、自分のレンズを通して残すこと――それこそが、彼女に“託された”ものなのだと、ようやく理解できた。


 東京に戻った蒼司は、かつて妹と一緒に通っていたギャラリーに足を運んだ。

 小さな貸しスペース。白い壁と、木のフロア。


 そこに、紬の写真を並べる。

 彼女が笑った場所、歩いた道、見上げていた空。

 そして――あの日、海に向かって両手を広げた、あの一枚。


 シャッターを切ったとき、蒼司は「残してしまった」と感じていた。

 でも今は、それが「残すための一瞬だった」と思える。


 展示の準備は、丁寧に、時間をかけて進めた。

 どの写真にもキャプションはつけなかった。

 けれど、紬の言葉を引き写した手紙だけを、ひとつの台にそっと置いた。


 > “たった一度でも、誰かをちゃんと好きになれた記憶が、

 >  死ぬことよりずっと大きな意味を持つと思うの。”


 オープン初日、会場には数人の来場者が訪れた。


 静かな空間に、淡い光と風景が並ぶ。

 誰も声を上げない。

 ただ、立ち止まり、眺めて、目を伏せ、そしてまた次の写真へと進んでいく。


 その中に、見覚えのある姿があった。


 紬の母親だった。


 控えめに入ってきた彼女は、ひとつひとつの写真の前で、そっと目を閉じるように佇んでいた。

 そして、紬のあの一枚――海に向かって立つ背中の前で、ゆっくりと膝を折り、小さくつぶやいた。


 「……ありがとう」


 蒼司は、声をかけなかった。

 けれど、その一言が、この写真展のすべてを肯定してくれた気がした。


 展示の最後に置かれた手紙を、彼女はそっと読み、涙を拭いながら頭を下げて出ていった。


 その姿を見届けたあと、蒼司はひとりギャラリーの中央に立ち、改めて彼女の“残した光”を見渡した。


 紬はもう、この世界にはいない。

 けれど――確かに、ここに“生きている”。


 写真展が終わった翌週、蒼司は再びカメラを手に、旅に出た。


 目的地は決まっていなかった。

 ただ風の吹く方へ、光の差す方へ、彼女が好きだった空の色を探して歩く。


 「残すこと」――かつては、それが怖かった。

 誰かの記憶を焼きつけることが、喪失と直結するように思えた。


 けれど今は違う。


 残すという行為は、誰かの生を肯定すること。

 “ここにいた”という証を、世界に刻みつけること。


 紬は言った。


 >「私の代わりに、生きてほしいの」


 それは、あまりに重く、けれど確かな祈りだった。


 宿の部屋で、彼はふとノートを開いた。

 そこに、自分の手でひとことだけ書く。


 >「今日、名前も知らない少女が、小さな花を拾って笑った。

 >  その笑顔を、ちゃんと見ていた。

 >  シャッターは押さなかったけれど、たしかに残った」


 カメラを持っていても、すべてを写真にする必要はない。

 でも、“残す”という気持ちは、たぶん、今の自分にとっての“生きること”だった。


 夜。

 蒼司は、紬の手紙の最後のページを、もう一度だけ読み返した。



 ――ねえ、結城くん。


 君がいつか誰かと笑って、

 また新しい景色に出会ったとき、

 どうかほんの一瞬でいいから、私を思い出して。


 それだけで、私はその世界にもう一度生きていられるから。


 私は、君に出会えてよかった。


 君が、私の“最後の風景”になってくれて、本当にありがとう。


 君がいない世界で、私は――

 ずっと、君の幸せを祈っています。



 涙は、もう流れなかった。


 ただ、胸の奥に灯った光が、彼の背をそっと押した。


 窓の外、朝焼けが空を満たしていく。

 その色は、紬が愛した色と、まったく同じだった。


 彼女はいない。

 でも――


 “君が、いない世界で。”

 蒼司は、今も確かに、生きている。



〈完〉

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ