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第7話 最後の夏、光の中へ

 八月の終わり、日曜日の朝。


 雲ひとつない空は、まだ夏の色を残していた。

 けれど、空気の中にはわずかに秋の気配が混ざりはじめていて、風は前よりも穏やかだった。


 その朝、蒼司は、駅前の小さなベンチに立っていた。

 白いシャツに、黒のスニーカー。カメラは、持っていない。


 それは、紬が願った“条件”のひとつだったから。


 ――今日だけは、記録じゃなくて記憶に残して。


 時計の針が、約束の時間を指す頃。

 遠くから、白いワンピースの少女が歩いてきた。


 帽子の代わりに、今日は淡いスカーフを髪に巻いている。

 頬の色は薄かったけれど、笑顔は確かだった。


 「……来てくれたんだ」


 「もちろん」


 蒼司は微笑んで、自然に手を差し出した。

 紬は一瞬戸惑ったように目を見開き、それから、そっとその手を握った。


 「じゃあ、行こうか。……君だけの夏、始めに行こう」


 ◇


 最初に訪れたのは、海沿いの遊歩道だった。

 青くきらめく波が、太陽の光を受けて何色にも揺れる。


 紬は、両手を大きく広げて風を受けた。

 その姿は、本当にどこか“自由な鳥”のようで――

 蒼司は思わず、手を伸ばしかけて、そして思い直した。


 「ねえ、結城くん」


 「ん?」


 「今日の私は、病人に見える?」


 「……全然」


 「よかった。じゃあ、私、今日だけは“君の彼女”でもいいかな」


 不意の言葉に、蒼司は目を見開いた。


 けれど、彼女の真っ直ぐな瞳に、冗談の色はなかった。


 「……いいに決まってる。今日だけじゃなくても」


 その言葉に、紬はふっと微笑んで、彼の腕にそっと寄り添った。


 「ありがとう。……その言葉だけで、胸がいっぱいになりそう」


 ◇


 昼過ぎ、ふたりは、紬が行きたがっていた喫茶店を訪れた。


 古びた木製の扉。ステンドグラスの窓。

 小さな店内には、アイスティーのグラスが並び、優しいジャズが流れていた。


 「ねえ、すごく素敵。……本当に、現実なんだね」


 「うん」


 「夢じゃないよね?」


 「夢じゃない。これは、君と僕の“現実”だ」


 紬は、しばらく無言でアイスティーの色を見つめたあと、ゆっくりと飲んだ。

 その一口に、どれだけの想いがこもっていたのか、蒼司にはわかる気がした。


 彼女の笑顔は穏やかで、壊れそうなくらい静かだった。


 「……ねえ、ひとつだけ、もう一つだけ、お願いしてもいい?」


 「何でも言って」


 「このあと、夕暮れの海が見える場所に行きたいの。

  最後に、もう一度だけ、あの色をちゃんと目に焼きつけたいの」


 蒼司は、迷わずうなずいた。


 「……行こう。君の一日が終わる、その前に」


 夕方になり、海は茜色の光をまといはじめていた。


 陽が沈む少し前――蒼司と紬は、静かな入り江の近くに立っていた。

 観光客の姿はほとんどなく、聞こえるのは、波が岩を撫でる音と、遠くの風鈴の音だけ。


 紬は、スカーフを外して風にあずけた。

 細い肩が、少しだけ震えていた。


 「風、気持ちいいね」


 「うん。……夏の終わりの風って、すこしだけ、やさしい」


 「わかる。それに……この時間って、ぜんぶがゆっくりになる気がするの。

  空も、音も、時間も、感情も。全部が、“止まる寸前”みたいな感じ」


 蒼司は黙って、紬の隣に立ち、海を見つめた。


 空は、彼女の言うとおりだった。

 まるで時間の流れが緩やかになっているようで、夕陽が海に溶けるまでの一秒一秒が、胸に染み込んでいく。


 「……今日って、ね。私が、願ってた“いちばんの夢”だったの」


 紬が、小さな声で言った。


 「病院の中じゃない日。

  何かを測られたり、薬を飲まされたりするんじゃない時間。

  点滴の針も、心拍数のグラフもない世界。

  ただ、“普通の女の子”として過ごす一日」


 蒼司はゆっくりうなずいた。


 「願いは、叶った?」


 紬は、少しだけ笑って、首を横に振った。


 「……まだ、半分だけ」


 「半分?」


 「残りの半分はね――

  “好きな人に、ちゃんと伝える”ってこと。

  本当の気持ちを、ちゃんと自分の言葉で、届くように言うこと」


 蒼司は、鼓動が一瞬止まるような感覚に包まれた。


 紬は、深く息を吸い込んで、そして、まっすぐ彼を見た。


 「――私は、あなたが好き。

  心から好き。

  この夏の全部が、あなたとだから、大切になった。

  この景色も、風も、味も、光も――

  ぜんぶ、あなたがそばにいてくれたから、意味を持てたの」


 その言葉は、震えながらも、確かに響いていた。


 「たった一日でも、たった一度でも。

  誰かをちゃんと“好きになれた”って記憶が、

  きっと、死ぬことよりずっと大きな意味を持つと思うの」


 「紬……」


 蒼司の声が、かすかに揺れる。


 「だからね。

  私はもう、こわくない。

  あなたが、私を忘れない限り、私はここに生きていられるから」


 海風がふたりの間を吹き抜け、スカーフが舞い上がって、海へと流れていく。


 蒼司は、紬の手をしっかりと握った。


 「俺は、絶対に忘れない。……絶対に」


 「……ありがとう」


 紬は、涙を見せなかった。

 けれど、その頬を流れた光は、夕陽だけじゃなかった。


 ふたりは、ただ海を見ていた。

 沈んでいく光、終わっていく時間。

 けれど、その中に確かにあった、“生きている”という実感だけを握りしめるように。


 紬と過ごした一日が終わりに近づいたころ、ふたりは、再び病院の正門前にいた。


 夜の空気はひんやりとしていて、昼間の暑さが嘘のように消えていた。

 街灯が、病院の壁を淡く照らしている。


 蒼司は、何度も振り返りそうになる気持ちを押し殺しながら、紬と並んで歩いていた。


 「今日は、ありがとう。……ほんとに、ありがとう」


 紬が、やさしく言った。

 その声には、達成感と、微かな別れの気配が混じっていた。


 「ありがとうを言うのは、俺の方だよ」


 「ふふ、じゃあ、五分五分ね」


 そう言って、紬はポケットから小さな封筒を取り出した。


 「これ、預かってほしいの。……もし、私が言葉にできなくなったときのために、書いたもの」


 蒼司は、それを両手で受け取った。

 少し厚みのある封筒。あの手紙の束の中から、選ばれた一枚。


 「……読んでいいのは、ちゃんと“お別れ”したあとね。

  ずるいけど、そうしないと、きっと私は泣いちゃうから」


 「そんな日が……来なくていいのに」


 蒼司がそう言うと、紬はかすかに微笑んだ。


 「ううん、来ていいんだよ。だって、“永遠”なんて誰にもないでしょ?

  でも、“一緒にいた”っていう時間は、どんな終わりよりも、強いから」


 彼女の言葉は、どこまでも優しく、どこまでも強かった。


 ふたりは、しばし無言で並んで立っていた。

 門の外には夜風が吹き、病院の中では看護師の巡回の足音が響いている。


 「ねえ、最後に、もうひとつだけお願いしてもいい?」


 「……何?」


 「生きていて。ちゃんと、これからも生きていて」


 蒼司は、息を呑んだ。


 「誰かに会って、笑って、喧嘩して、写真撮って、

  また恋をして――

  それでも、“誰かのことを想った夏”が、ちゃんと残っているように。

  私の代わりに、生きてほしいの」


 紬は、蒼司の手に、そっと自分の指を重ねた。


 「……君のことを、俺はずっと忘れない。

  それが、生きるってことなら、何度でも思い出すよ」


 紬は、静かにうなずいた。


 「じゃあ、もう十分。……おやすみ、結城くん」


 「おやすみ、紬」


 その言葉を交わして、ふたりは別れた。


 振り返ると、紬の背中が、病院の扉の向こうに消えていく。

 その姿は、まるで光に溶けていく幻のようだった。


 その夜、蒼司は紬からもらった封筒を開けなかった。

 きっと、それを開くときは、もう彼女の声が聞こえなくなったときだと思ったから。


 ただ――

 その封を胸元に抱いて、彼は目を閉じた。


 波の音が聞こえる気がした。

 あの日の空の色が、まぶたの裏に浮かんだ。


 “君のいた夏”が、確かにそこにあった。

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