第6話 八月の影、ひとつだけの願い 2
紬が自分の過去を語ったのは、それから数日後のことだった。
病室の空はやわらかく晴れていて、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。
その日、蒼司は小さな花束を持っていた。
町の雑貨屋で見つけた、野花のドライフラワー。
“何か残るもの”を、彼女に渡したかった。
「……ありがとう。これ、飾るね」
紬はそれをベッドのそばに置き、静かに微笑んだ。
そして、ふと目を伏せて、ぽつりと口を開いた。
「私、小さい頃に一度だけ、“治るかもしれない”って言われたことがあるの」
蒼司は、言葉を失った。
紬は、窓の外を見つめたまま続けた。
「奇跡みたいな話だった。海外の医療技術で、心臓を部分的に補助する機械を埋め込めば、
五年、十年……もしかしたら、普通に生きられるかもしれないって」
その声には、希望の代わりに、静かな哀しみがあった。
「でも、うちはそんなに裕福じゃなかったし、両親もすごく悩んでた。
保険も効かないし、成功率も五割以下だった。
“生きられるかもしれない”未来と、“このままでも穏やかに過ごせるかもしれない”現在の間で、ずっと揺れてた」
蒼司は、何も言えずに彼女の横顔を見ていた。
「最終的には、見送った。……でもね、それを“諦めた”って言われるのが、私はすごく、いやだった」
紬は、手をぎゅっと握りしめる。
「だって私は、“諦めた”んじゃなくて、“選んだ”んだよ。
限られた時間の中で、自分がちゃんと笑える時間を、大切にしようって。
それって、本当はすごく勇気のいることなのに……」
「……そうだな」
蒼司は、小さくうなずいた。
「誰かに“生きてほしい”って言われること。
誰かに“死なないで”って願われること。
それは時々、とても残酷なんだよ。
だって、その願いを叶えられなかったとき、私の中には、
“足りなかった”って想いだけが残るから」
その言葉に、蒼司の胸がきゅっと締めつけられた。
――あの日、妹に言えなかった言葉。
“生きて”と願うことの意味が、ようやく理解できた気がした。
「だからね、私ね、
“死ぬこと”そのものより、“忘れられること”の方が、ずっと怖いの」
紬の声は震えていた。
「私がいなくなったあと、この部屋も、ノートも、手紙も、全部消えていくでしょ?
私という存在が、誰の記憶にも残らなかったら……
それは、“いなかった”ことと同じじゃないかなって」
蒼司は、椅子から立ち上がり、彼女の手をそっと握った。
「君のことは、俺が覚えてる」
その言葉は、約束ではなかった。
でも、それは、彼にできるいちばんの誓いだった。
紬は、少しだけ涙をにじませて、けれど笑った。
「……ありがとう。
じゃあ、私は君の中で、生きていくのかな。少しだけ」
「ずっと、だよ」
「……欲張りだね、私」
「それでいい。生きるって、きっと“誰かの中に残ること”なんだから」
◇ ◇ ◇
病室の窓の外では、蝉の声が遠くで鳴いていた。
陽は傾きかけていて、病院の廊下にも夕暮れ色の光が差し込んでいる。
その光に包まれるようにして、紬はベッドの上で小さく丸まっていた。
蒼司が部屋に入ると、彼女はすぐに気づいて顔を上げた。
けれど、いつものような微笑みを浮かべるには、少しだけ時間がかかった。
「……ごめんね。今日は、ちょっと体が重いの」
そう言って、彼女はかすかに笑った。
「無理しなくていい。会えただけで、十分だ」
蒼司が言うと、紬は目を細めた。
「優しいね。……でも今日は、どうしても伝えたいことがあったの」
彼女は、枕元の引き出しから、ひとつの紙袋を取り出した。
中には、小さな紙の束と、封筒が一枚。
そして、折りたたまれた服が入っていた。
「これ、ね……“私の最後のお願い”」
蒼司は、その言葉に小さく息を飲む。
紬は、袋の中の封筒をゆっくりと差し出した。
「お願いしたいのは、“一日だけ、普通の女の子として過ごすこと”」
「……一日?」
「そう。病院じゃなくて、点滴も心電図もない、ただの町の一角で、
普通に歩いて、普通に笑って、普通にごはんを食べて、空を見て、風を感じたいの」
紬の瞳は、まっすぐだった。
もう、嘘をついていない目だった。
「体調は悪くなってきてるって、自分でもわかってる。
だからこそ……もう逃げない。
このまま何もしないで終わるより、一回だけ、ちゃんと“私の願い”を叶えたいの」
蒼司は、言葉を探した。
それが叶えられる願いかどうかは、わからなかった。
けれど――それでも彼は、うなずいた。
「……いつがいい?」
紬は、微笑んだ。
「来週の日曜。少しでも涼しい日がいいなって思ってた」
「じゃあ、準備する。行きたい場所は?」
「この町の、海辺の遊歩道。あとは、ちいさな喫茶店があって……私ね、いつか入ってみたいって思ってたの。ガラス越しに見てた。ドアの音とか、アイスティーの色とか、全部が“外の世界”って感じで」
「全部、行こう。君がしたいこと、全部」
紬は、静かに笑った。
「ありがとう。……その日だけは、カメラ、持ってこないでほしい」
「……どうして?」
「思い出を残すのは、君の目と心で十分だから。
その一日だけは、“今”を刻んでほしいの。残さなくてもいいから、私を忘れないで」
それは、とてもわがままで、とても切ないお願いだった。
けれど蒼司は、深く頷いた。
「……わかった。君と、ちゃんと一日、歩くよ」
「ありがとう。……それだけで、もう十分すぎるくらい幸せ」
紬の声は、風に揺れるカーテンの音に溶けていった。
彼女の手は、少し冷たかった。
でも、そこには確かに“生きている”熱があった。
次の日曜日――
それが、ふたりにとっての“最後の夏”になると、蒼司はまだ知らなかった。