第5話 八月の影、ひとつだけの願い 1
八月に入ると、町の空気が変わった。
空は高く、雲は遠く、蝉の声が朝から夕方まで途切れず響いていた。
太陽はぎらつくような熱を帯びて、風もまるで息をしているかのように熱を運んでくる。
そして、病室の中も、どこか“熱”を帯びていた。
紬の顔色は、ここ数日で目に見えて変わった。
頬が痩せ、声にわずかな掠れが混ざる。
モニターのアラーム音が、夜中に二度、鳴ったと看護師から聞かされた。
「外出は、しばらく控えたほうがいい」
そう医師が告げたのは、八月最初の月曜日だった。
けれど紬は、それでも“今日だけは”と頼み込み、短時間の許可をもらっていた。
彼女のリュックには、いつものスケッチブックと、小さな手紙の束が入っていた。
蒼司と会うのは、病院の屋上。
以前から「一度だけ、そこに連れて行って」と頼まれていた場所だった。
「景色がすごく綺麗なんだって。……ほんとは患者はあまり行けないんだけど」
それは、特別な場所。
紬にとって、きっと“最後になるかもしれない場所”だった。
◇
「……ごめんね、遅くなって」
エレベーターの扉が開き、蒼司が現れたとき、紬はすでにベンチに座っていた。
頭にはいつもの帽子。
けれど、今日はひときわ肌が透き通って見えた。
「体調、大丈夫か」
「うん、大丈夫。今日はね、“意地”で来たの」
そう言って笑う彼女の目は、少し赤かった。
それが、泣いたあとのせいなのか、風のせいなのか、蒼司にはわからなかった。
二人は、並んでベンチに座る。
屋上からは、町が一望できた。海と空の境界線も見える。
「この景色、見せたかったんだ。……君に」
紬の声は、どこか儚く、それでも優しかった。
「今日ね、先生に言われたの。“今月中はもう外出できないと思って”って」
「……そうか」
「うん。でも、思ったより平気。
だって、“会いに来てくれる人”がいるって思うだけで、
私、ちょっとだけ強くなれる気がするから」
蒼司は、何も言えなかった。
ただ、彼女の横顔を見つめる。
そして、カメラを構えた。
何度も、何度も、撮ってきたはずの角度なのに――今日の紬は、まるで違って見えた。
空の色が、彼女の背中に重なる。
「……一つだけ、お願いがあるの」
ふと、紬が言った。
「私の“いちばん好きな景色”を、撮ってほしいの」
蒼司は、目を見開く。
「それは――どこに?」
「ここにあるよ。……でも、それは“私の目”じゃないと見えないから。
君に、それを“写して”ほしいの」
彼女の声が、ほんのかすかに震えていた。
でも、その目はまっすぐだった。
「私ね、もうすぐ“残すこと”より、“託すこと”を選ばなきゃいけなくなると思う。
だから……君の手で、それを残してくれないかな」
蒼司は、何も言わずに頷いた。
そして、ファインダーを覗いたまま、そっとシャッターを切った。
それが、紬の“願い”の始まりだった。
◇ ◇ ◇
その日、蒼司が病室を訪れたのは夕方だった。
見舞いとしての手続きを済ませて病棟に向かうと、紬は窓際で何かを綴っていた。
小さな便箋。細いペン。
それらを扱う彼女の指先は、とても丁寧で、どこか祈るような仕草だった。
「……おじゃま、だったか」
声をかけると、紬は小さく首を振った。
「ううん。ちょうど、書き終わったところ」
そう言って、そっと封を折り畳んで、小さな箱の中へしまった。
その箱の中には、すでに何通もの手紙が重ねられていた。
「それ……?」
蒼司が問いかけると、紬は少し照れたように笑った。
「うん、手紙。昔からね、“会えなくなったら困る人”に、何か伝えたいって思ったときだけ、書いてるの」
「昔から?」
「うん、小学生のときくらいから。
いつ病気が悪くなるかわからないから、“いまの私”が伝えたいことを残しておこうって」
彼女は、箱のふたをそっと閉じた。
「結局ね、渡せた手紙って少ないの。
気持ちが変わったり、状況が変わったりして。……でも、不思議と“書いた”ってことが、私を救ってくれてる気がしてた」
紬の言葉は、淡々としているようで、どこか温かかった。
蒼司は、しばらく黙って彼女の手元を見ていた。
そして、おそるおそる尋ねた。
「その中に……俺宛の手紙も、あるのか?」
紬は、少しだけ目を見開き――けれど、すぐにふっと微笑んだ。
「うん。……あるよ」
「……いつ書いた?」
「最初に会った日。防波堤で。帰ってすぐ。
“きっともう、会えない”って思ってたから。あんなふうに、誰かに何かを拾ってもらったの、すごく久しぶりだったの」
蒼司は、胸の奥がじわっと熱くなるのを感じた。
彼女にとって、出会いの瞬間は“永遠には続かない一瞬”だった。
だからこそ、その一瞬の感情を残そうとしたのだ。
「……読んでも、いい?」
「……まだ、ダメ。
ちゃんと、“渡すべきとき”が来たら、開けてほしい。
それまでは、この箱の中に眠らせておくね」
紬は、微笑みながらそう言った。
けれどその笑顔には、かすかな痛みが宿っていた。
「……じゃあさ。俺からも、ひとつお願いしていい?」
「なに?」
「手紙じゃなくて、“直接”聞かせて。
君が好きな景色、君が嬉しかった瞬間。
言葉で、写真みたいに、俺に残して」
紬は、目を見開いた。
そして、ほんの少しだけ震える声で、答えた。
「……うん。約束する」
部屋に西日が差し込み、窓辺のカーテンがやわらかく揺れている。
風の匂いと、モニターの音と、ふたりの静かな息遣いが、ゆるやかに重なった。
その日、蒼司は病室を出る間際、ふと振り返って言った。
「また明日、来ていい?」
紬は笑ってうなずいた。
「明日が来るって、すごくいい言葉だね」