第4話 選ばれた日々、夏の予感 2
一方その頃。
宿の部屋で静かに横になっていた蒼司は、妹の遺したノートを読み返していた。
短いメモのような言葉が、淡い筆致で綴られている。
>「光の中で、ちゃんと笑ってる私を残したい。
> 誰かの記憶の中じゃなくて、“写真”というカタチで残したい」
>「死ぬってことは、消えることじゃなくて、残せるかどうかなんじゃないかな」
その言葉の意味が、灯と出会った今、少しだけわかった気がした。
妹が残そうとしたもの。
灯が残そうとしているもの。
それらは違うようで、同じものかもしれない。
彼はそっと、妹のノートの間に、今日の灯の写真を印刷したものを挟んだ。
――その行為に、深い意味があるわけじゃない。
ただ、ふたりの“祈り”がどこかで重なっていた気がしただけだ。
窓の外は、夜風に揺れていた。
どこか遠くの病院の窓にも、同じ風が吹いているのだろうか。
彼は、そっと目を閉じた。
金曜日。
それまで、もう少しだけ、この町にいよう。
金曜日は、少し曇っていた。
朝から雲が空を覆い、風もどこか湿気を帯びていた。
でも、雨が降る気配はなかった。
蒼司はいつものように防波堤へ向かった。
潮の匂いが、少しだけ重たい。
「来てくれるだろうか」
そう思いながら歩く道は、初めて来たときよりも少し短く感じた。
そして、防波堤の先――そこに、灯はいた。
いつもの白い帽子に、今日は薄いピンクのカーディガンを羽織っていた。
風が少し強かったせいか、前髪を留めるピンが増えていた。
「おはよう。……ちゃんと、来たね」
「君も」
「うん、今回は病院の車で送ってもらったの。時間は一時間だけって、しっかり釘を刺されたけど」
蒼司は笑って頷いた。
言葉の数は少ないのに、安心だけがしっかり伝わってくる。
灯はスケッチブックを開いて、昨日までの絵に少しだけ手を加える。
彼はその隣で、静かにカメラのシャッターを切った。
そしてふと、思い立ったように言った。
「……今度、君の病室、見せてもらえる?」
灯は、少し驚いたように顔を上げた。
「……なんで?」
「君の目に映ってる景色を、見てみたい。
君が“残そう”としてるものを、俺もちゃんと見たいんだ」
灯はしばらく黙っていた。
風が帽子のリボンを揺らす。
「……変な部屋だよ。白くて、冷たくて、好きになれない」
「そうかもしれない。でも、君がそこにいた時間は、君にしか残せないから」
その言葉に、灯は静かに目を伏せた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……今度、来て。窓から見える景色、紹介する」
◇
午後。
蒼司は、見舞いという名目で病院を訪れた。
ナースステーションで手続きを済ませると、灯の病室の番号を教えられる。
案内されたのは、三階の東棟――窓が大きく取られた明るい個室だった。
「入っていいよ」
そう声をかけられ、静かにドアを開ける。
灯はベッドの上に座っていた。
点滴スタンドが隣に立ち、心拍のモニターが規則的な音を刻んでいる。
白いシーツ、白い壁、白いカーテン。
――たしかに、夢の中みたいだった。
「これが、私の世界」
灯が小さく言った。
「どう?」
「……思ったより、静かだな」
「うん。うるさいのは心臓だけ」
冗談めかした言葉に、蒼司は苦笑した。
けれど、そのモニター音が、なぜか心の奥を強く打った。
彼女が今も“生きている”証が、そこに確かに鳴っている。
「窓、開けてもいい?」
「いいよ。海、見えるよ」
蒼司は窓をそっと開けた。
遠くに、いつもの防波堤が小さく見えた。
見慣れた景色なのに、病室の中から見ると、それはまるで別の世界だった。
「この窓からね、朝の光がすごく綺麗に差すの。
でも、一番好きなのは夕方。オレンジ色の影がね、ここまで伸びてくるの」
灯はスケッチブックを開き、窓辺の景色を描いたページを蒼司に見せた。
それは、彼の妹が遺した写真と、驚くほど似ていた。
「……同じ景色を、見ていたのかもな」
蒼司は、ぽつりと呟いた。
灯は、首を傾げる。
「え?」
「いや……君と、よく似た誰かがいた。
その人も、窓の外をよく見てたんだ」
灯は何も言わなかった。
ただ、静かにうなずいた。
窓から差し込む光が、淡くオレンジに染まりはじめていた。
病室の壁も、床も、ベッドの白いシーツさえも――
すべてが柔らかな茜色を帯びて、まるで別の世界にいるかのようだった。
灯は、ベッドの上で膝を抱え、少しだけ目を細めて空を見ていた。
「……ねえ」
「ん?」
「この光の色、すき。
でも、それと同じくらい……この時間も、すき」
蒼司は黙って、彼女の言葉を聞いていた。
「なんていうか、夕暮れって、すべてが“過ぎていく”音がするでしょ。
今日が終わるんだって、ちゃんと教えてくれる感じ」
「……そうだな」
「でもね、不思議なんだ。
あなたといると、その“終わる音”が、ちょっとだけ優しくなる気がするの」
灯の言葉は、とても静かだった。
それがあまりにも自然で、蒼司は少しだけ胸が痛んだ。
彼女はきっと、日々“終わり”と向き合っている。
どんなに笑っていても、その奥には、抗いようのない現実が横たわっている。
「……君にとって、俺は何かを“延ばして”しまってるんじゃないか」
ふと、そんな言葉がこぼれた。
灯は少しだけ驚いたように、彼の方を見つめた。
「延ばす?」
「終わりを。……見ないふりをさせてるんじゃないかって。
本当は、誰にも近づかない方が、君は……」
「それ、違うよ」
彼女は、きっぱりと言った。
「私は、ちゃんと見てる。
終わりがあることも、時間が限られてることも、ずっと前からわかってる」
そして――ほんの少しだけ、声を震わせながら、続けた。
「でもね。
“誰かと一緒にいる時間”が、終わりを怖くさせることもあるけど――
逆に、“いま”が愛しくなることも、あるんだよ」
その言葉に、蒼司は何も言えなかった。
ただ、彼女の小さな肩を、夕陽が照らしていた。
病室の奥で、モニターが静かにリズムを刻む。
“生きている”という証が、確かにそこにあった。
「……もう少し、この町にいようと思う」
ふと、蒼司が呟く。
「いいの?」
「いい。……むしろ、そうしたい」
灯は、ほんのわずかだけ、息を飲んだようだった。
けれどすぐに、あたたかな笑みが浮かんだ。
「そっか。じゃあ、また会えるね」
「もちろん。何度でも」
「……でも、そろそろ、ちゃんと名前を教えてほしいな」
蒼司は、少しだけ照れたように笑って、小さく頷いた。
「――結城 蒼司」
彼女は、その名前を口の中でゆっくり繰り返す。
「……結城くん、か。なんか、まじめそうな名前」
「それ、褒めてる?」
「半分だけ」
ふたりの間に、小さな笑いが生まれる。
ほんのわずかでも、この空間が“普通の世界”になる瞬間だった。
外の空は、ゆっくりと青から藍に変わっていく。
しばらくして、彼女がぽつりとつぶやいた。
「私ね、**花守 紬**っていうの」
「……花を守るって書いて、“紬”。ちょっと変な名前でしょ」
「別に。……似合ってるよ」
灯――紬は、少しだけ驚いたような顔をして、すぐに笑った。
その笑顔が、なぜだか蒼司の胸に静かに残った。
「君と過ごす時間が、夢じゃなかったらいいのに」
その言葉が、風の音に溶けていく。
蒼司は、それに答えられなかった。
答えなんて、あるはずもなかった。
でも――心の奥で、そっと誓った。
彼女が目を背けないのなら、自分も逃げずにいよう。
この町で、もう少しだけ、彼女と“いま”を歩いていこう。