第3話 選ばれた日々、夏の予感 1
再会は、思っていたよりも早く、そして静かに訪れた。
火曜日の朝。
陽射しはすでに夏の気配を帯びていて、潮風のにおいも強くなっていた。
蒼司は、いつものように駅から町を抜け、防波堤の道を歩いていた。
歩きながら、胸の奥が少しずつざわついてくる。
“約束”をしたことに、今さらながら戸惑っていた。
あのときは、自然に言えた。
でも、約束を守るということは、そこに“誰かがいる”と信じることと同義だった。
それが、ほんの少しだけ、怖かった。
風が吹いた。
遠くに、白い帽子が揺れているのが見えた。
彼女は、いた。
リュックを背負い、スケッチブックを抱えて、防波堤の上に座っていた。
膝の上には小さなクロスが広げられ、薄いサンドイッチと紙パックの紅茶が置かれている。
「……おはよう」
少しだけ、蒼司が声をかけると、灯は顔を上げた。
眩しそうに目を細め、そして、ふわりと笑った。
「来たね。……ちゃんと、火曜日に」
「君こそ」
「うん、がんばった。朝から看護師さんに“お昼までには戻るから”ってお願いして、すごく急いできたの」
蒼司は彼女の隣に腰を下ろす。
日差しが少し強くなってきて、影が濃く伸びている。
「お昼まで?」
「そう。今日は、ちょっとだけわがまま言って。ほら、次に外に出られるのは金曜日でしょ? 間が空いちゃうから」
灯は、サンドイッチの包みを少しだけ広げながら言った。
ハムとチーズのシンプルなもの。小さなパンに、彼女の控えめな性格が滲んでいた。
「食べる? 半分こしようか」
「……いいのか?」
「うん。だって、誰かと食べる方が、おいしいでしょ?」
当たり前みたいに差し出されて、蒼司は少しだけ戸惑いながらそれを受け取った。
病院で暮らしている子に、こんなにも自然に“分け合う”という発想があることが、不思議でならなかった。
「病室、どんなとこなんだ?」
「うーん……ひとことで言うなら、“清潔すぎて落ち着かない空間”かな」
彼女は肩をすくめて笑った。
「白い壁、白いベッド、白いカーテン。ぜんぶ同じ色なの。まるで誰かの夢の中にいるみたい」
「夢?」
「うん。……でもその夢から、いつか醒めるって、ずっとわかってるのに、そこから抜け出せない感じ」
蒼司は一瞬、言葉を失った。
夢――
それは、彼女が現実から距離を置くための、ささやかな比喩だったのかもしれない。
「君の夢は?」
不意に、そんな言葉が口をついて出た。
灯は、少し驚いたように目を見開いたが、すぐに視線をそらして、小さな声で答えた。
「……ないよ。もう、持たないようにしてる。
叶わないってわかってるものを持ってるのって、苦しいだけだから」
その横顔が、どこまでも静かだった。
波の音と風の音が、それをそっと包む。
「でも、今は――」
彼女は言いかけて、言葉を切った。
「今は?」
「……なんでもない」
そう言って、サンドイッチをひと口かじる。
だから蒼司は、何も追及しなかった。
代わりに、カメラをそっと構えて、彼女の横顔を切り取った。
また、シャッターの音が静かに響いた。
「じゃあ、今日はこれで――また金曜日に」
灯はそう言って、小さく手を振った。
約束のように、まっすぐな目でそう言った。
病院までの道のりは、歩いて二十分ほど。
彼女は一人で歩いて帰ると言い張ったが、蒼司は半ば当然のように隣を歩いた。
「付き添いなしで帰るのは、病院的にはアウトじゃないのか?」
「内緒にしてくれるなら、大丈夫」
「それがいちばん危ない発言だ」
「ふふっ、正論」
緩やかな坂を登る。
左右には民家が並び、洗濯物が風に揺れている。
灯は、歩幅を合わせながら、ときどき空を見上げた。
雲の隙間から陽が差し、彼女の頬をやわらかく照らしている。
「金曜日、また来れる?」
「もちろん」
蒼司は即答した。
迷いはなかった。
ほんの数日前までは、どこに向かう気力もなかったのに、
彼女に「また」と言われるだけで、そこに立つ意味が生まれた気がした。
病院は、坂の上の開けた場所にあった。
真っ白な外壁と、広い中庭。
どこか無機質で、けれど整った風景。
それは、彼女が言っていた“夢の中”という言葉に、妙に合っていた。
「じゃあ、また」
門の前まで来ると、灯はリュックの肩紐を直して、振り返った。
「今度は、もっとちゃんとした服で来るね。帽子も、新しいの探してみようかな」
「似合ってたよ。今日の帽子も」
その言葉に、彼女は少し照れて目を伏せた。
「……じゃあ、次は、もっと似合うって言わせる」
それだけ言って、彼女は病院の敷地へと歩き出した。
蒼司はその背中を、静かに見送る。
まるで、夢から現実に戻っていくみたいに――その姿は、どこか遠く感じられた。
◇
夜。宿に戻った蒼司は、カメラのデータをパソコンに取り込んでいた。
小さな背中。
帽子のつば。
光の差す横顔。
笑った顔、少しだけ不安げな顔。
一枚、一枚を眺めるたび、胸の奥がじんと熱を帯びる。
スクロールしていく中で、ふと止まった。
灯の病室の話を聞いたときに、思い出したことがあった。
妹が、最後に自分でシャッターを切った写真。
それもまた――病室の窓から撮ったものだった。
カーテン越しに差し込む夕陽。
窓枠に映る逆光の空。
そして、遠くに見える木の陰。
似ていた。
灯のスケッチと、妹の写真が。
描こうとした風景と、遺そうとした瞬間が、重なっていた。
蒼司はそっと画面を閉じ、目を閉じた。
もしも、この出会いが“偶然”じゃなかったとしたら。
もしも――どこかで、誰かが繋いでくれた縁だったとしたら。
その意味を、もう少しだけ信じてみてもいいのかもしれない。
病室に戻った灯は、着替えを済ませてから、窓際の椅子に腰を下ろした。
午後の回診はまだ先で、部屋には静かな時間が流れていた。
ベッドの上に置いたスケッチブックを開く。
今日の海、今日の空、そして――今日の蒼司。
彼の横顔を描こうとして、手が止まる。
思い出せるはずなのに、どこか線が定まらない。
写真に撮られるのは、ほんの少しだけ怖かった。
それは「この瞬間が、終わってしまう」という証のようで、どこか残酷だった。
でも、彼のシャッター音は違った。
それは、優しい音だった。
心を脅かすのではなく、そっと輪郭を撫でてくれるような、あたたかな響きだった。
「……また、会えるよね」
つぶやいた声は、自分に向けたものだった。
次の金曜日、それは約束された未来。でも、未来はいつだって不確かだ。
彼に話していないことは、たくさんある。
本当の名前も、病状のことも。
どれも、まだ渡してはいけない気がしていた。
“選べる時間”が、私には限られている。
だからこそ、誰と過ごすかに慎重になる。
そしていま、蒼司と過ごす時間が“心地よい”と感じてしまったことが、少しだけ怖かった。
ほんの少しだけ、望んでしまった。
もう少しだけ、生きていたいと。