表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/8

第3話 選ばれた日々、夏の予感 1

 再会は、思っていたよりも早く、そして静かに訪れた。


 火曜日の朝。

 陽射しはすでに夏の気配を帯びていて、潮風のにおいも強くなっていた。


 蒼司は、いつものように駅から町を抜け、防波堤の道を歩いていた。

 歩きながら、胸の奥が少しずつざわついてくる。


 “約束”をしたことに、今さらながら戸惑っていた。

 あのときは、自然に言えた。

 でも、約束を守るということは、そこに“誰かがいる”と信じることと同義だった。


 それが、ほんの少しだけ、怖かった。


 風が吹いた。

 遠くに、白い帽子が揺れているのが見えた。


 彼女は、いた。


 リュックを背負い、スケッチブックを抱えて、防波堤の上に座っていた。

 膝の上には小さなクロスが広げられ、薄いサンドイッチと紙パックの紅茶が置かれている。


「……おはよう」


 少しだけ、蒼司が声をかけると、灯は顔を上げた。

 眩しそうに目を細め、そして、ふわりと笑った。


「来たね。……ちゃんと、火曜日に」


 「君こそ」


 「うん、がんばった。朝から看護師さんに“お昼までには戻るから”ってお願いして、すごく急いできたの」


 蒼司は彼女の隣に腰を下ろす。

 日差しが少し強くなってきて、影が濃く伸びている。


「お昼まで?」


「そう。今日は、ちょっとだけわがまま言って。ほら、次に外に出られるのは金曜日でしょ? 間が空いちゃうから」


 灯は、サンドイッチの包みを少しだけ広げながら言った。

 ハムとチーズのシンプルなもの。小さなパンに、彼女の控えめな性格が滲んでいた。


「食べる? 半分こしようか」


「……いいのか?」


「うん。だって、誰かと食べる方が、おいしいでしょ?」


 当たり前みたいに差し出されて、蒼司は少しだけ戸惑いながらそれを受け取った。


 病院で暮らしている子に、こんなにも自然に“分け合う”という発想があることが、不思議でならなかった。


「病室、どんなとこなんだ?」


「うーん……ひとことで言うなら、“清潔すぎて落ち着かない空間”かな」


 彼女は肩をすくめて笑った。


「白い壁、白いベッド、白いカーテン。ぜんぶ同じ色なの。まるで誰かの夢の中にいるみたい」


 「夢?」


 「うん。……でもその夢から、いつか醒めるって、ずっとわかってるのに、そこから抜け出せない感じ」


 蒼司は一瞬、言葉を失った。


 夢――


 それは、彼女が現実から距離を置くための、ささやかな比喩だったのかもしれない。


 「君の夢は?」


 不意に、そんな言葉が口をついて出た。


 灯は、少し驚いたように目を見開いたが、すぐに視線をそらして、小さな声で答えた。


「……ないよ。もう、持たないようにしてる。

 叶わないってわかってるものを持ってるのって、苦しいだけだから」


 その横顔が、どこまでも静かだった。

 波の音と風の音が、それをそっと包む。


 「でも、今は――」


 彼女は言いかけて、言葉を切った。


 「今は?」


 「……なんでもない」


 そう言って、サンドイッチをひと口かじる。


 だから蒼司は、何も追及しなかった。

 代わりに、カメラをそっと構えて、彼女の横顔を切り取った。


 また、シャッターの音が静かに響いた。


 「じゃあ、今日はこれで――また金曜日に」


 灯はそう言って、小さく手を振った。

 約束のように、まっすぐな目でそう言った。


 病院までの道のりは、歩いて二十分ほど。

 彼女は一人で歩いて帰ると言い張ったが、蒼司は半ば当然のように隣を歩いた。


 「付き添いなしで帰るのは、病院的にはアウトじゃないのか?」


 「内緒にしてくれるなら、大丈夫」


 「それがいちばん危ない発言だ」


 「ふふっ、正論」


 緩やかな坂を登る。

 左右には民家が並び、洗濯物が風に揺れている。


 灯は、歩幅を合わせながら、ときどき空を見上げた。

 雲の隙間から陽が差し、彼女の頬をやわらかく照らしている。


 「金曜日、また来れる?」


 「もちろん」


 蒼司は即答した。

 迷いはなかった。


 ほんの数日前までは、どこに向かう気力もなかったのに、

 彼女に「また」と言われるだけで、そこに立つ意味が生まれた気がした。


 病院は、坂の上の開けた場所にあった。


 真っ白な外壁と、広い中庭。

 どこか無機質で、けれど整った風景。

 それは、彼女が言っていた“夢の中”という言葉に、妙に合っていた。


 「じゃあ、また」


 門の前まで来ると、灯はリュックの肩紐を直して、振り返った。


 「今度は、もっとちゃんとした服で来るね。帽子も、新しいの探してみようかな」


 「似合ってたよ。今日の帽子も」


 その言葉に、彼女は少し照れて目を伏せた。


 「……じゃあ、次は、もっと似合うって言わせる」


 それだけ言って、彼女は病院の敷地へと歩き出した。

 蒼司はその背中を、静かに見送る。


 まるで、夢から現実に戻っていくみたいに――その姿は、どこか遠く感じられた。


 ◇


 夜。宿に戻った蒼司は、カメラのデータをパソコンに取り込んでいた。


 小さな背中。

 帽子のつば。

 光の差す横顔。

 笑った顔、少しだけ不安げな顔。


 一枚、一枚を眺めるたび、胸の奥がじんと熱を帯びる。


 スクロールしていく中で、ふと止まった。

 灯の病室の話を聞いたときに、思い出したことがあった。


 妹が、最後に自分でシャッターを切った写真。


 それもまた――病室の窓から撮ったものだった。


 カーテン越しに差し込む夕陽。

 窓枠に映る逆光の空。

 そして、遠くに見える木の陰。


 似ていた。

 灯のスケッチと、妹の写真が。

 描こうとした風景と、遺そうとした瞬間が、重なっていた。


 蒼司はそっと画面を閉じ、目を閉じた。


 もしも、この出会いが“偶然”じゃなかったとしたら。

 もしも――どこかで、誰かが繋いでくれた縁だったとしたら。


 その意味を、もう少しだけ信じてみてもいいのかもしれない。


 病室に戻った灯は、着替えを済ませてから、窓際の椅子に腰を下ろした。

 午後の回診はまだ先で、部屋には静かな時間が流れていた。


 ベッドの上に置いたスケッチブックを開く。

 今日の海、今日の空、そして――今日の蒼司。


 彼の横顔を描こうとして、手が止まる。

 思い出せるはずなのに、どこか線が定まらない。


 写真に撮られるのは、ほんの少しだけ怖かった。

 それは「この瞬間が、終わってしまう」という証のようで、どこか残酷だった。


 でも、彼のシャッター音は違った。

 それは、優しい音だった。

 心を脅かすのではなく、そっと輪郭を撫でてくれるような、あたたかな響きだった。


 「……また、会えるよね」


 つぶやいた声は、自分に向けたものだった。

 次の金曜日、それは約束された未来。でも、未来はいつだって不確かだ。


 彼に話していないことは、たくさんある。

 本当の名前も、病状のことも。

 どれも、まだ渡してはいけない気がしていた。


 “選べる時間”が、私には限られている。


 だからこそ、誰と過ごすかに慎重になる。

 そしていま、蒼司と過ごす時間が“心地よい”と感じてしまったことが、少しだけ怖かった。


 ほんの少しだけ、望んでしまった。

 もう少しだけ、生きていたいと。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ