第2話 止まった時間、風の中の出会い 2
翌朝、蒼司は、昨日と同じ道を歩いていた。
予定はなかった。
理由もなかった。
けれど、胸の奥にぽつんと残った少女の声が、潮の音に重なるように響いていた。
「また会えたら、名前の話をしてもいい?」
あの笑顔が忘れられなかった。
まるで最初から、すべてを知っているような目をしていた。
防波堤にたどり着くと、そこには誰もいなかった。
風だけが昨日と同じように吹いていて、波の音だけが変わらずそこにあった。
蒼司は、肩に下げたカメラを見下ろす。
結局、昨日も一枚もシャッターを切れなかった。
あの子を撮りたいと思ったのに、どうしても、レンズを向けられなかった。
――人を撮るのって、怖いよな。
心のどこかで、そう呟いた。
その人がいなくなってしまったあと、写真だけが残る。
それが、たまらなく怖い。
蒼司が妹を亡くしたのは、大学三年の春だった。
「余命一年です」と告げられてから、家族はみんな必死だった。
奇跡を信じて、医学の可能性を信じて、少しでも希望があるならと手を尽くした。
けれど、病魔は静かに、けれど確実に、彼女の体を奪っていった。
写真が好きだった。
花や空や、家族の後ろ姿を、いつも笑いながら撮っていた。
「記憶って、すぐに薄れるでしょ? だから、ちゃんと残しておきたいの」
そう言って、何度もシャッターを切っていた。
彼女が亡くなったあと、部屋に遺されたSDカードには、数え切れないほどの写真が残っていた。
でも、どれだけ見返しても――
もう、その声も、温度も、戻ってはこなかった。
蒼司はカメラをしまい、ベンチに腰を下ろした。
潮の匂いが、昨日より少しだけ強くなっている気がした。
「……来ないか」
呟いた声は、風にかき消された。
そのとき、足音がした。
細くて軽い、サンダルのような足音。
そして、どこか申し訳なさそうな声が、背後から聞こえた。
「ごめん、待った?」
振り向くと、そこに昨日の少女――灯が立っていた。
今日は白い帽子をかぶっていて、ワンピースの色も水色に変わっていた。
「……来ると思ってなかった」
「うん、私も。……でも、来ちゃった」
彼女は隣に座り、スケッチブックを膝に広げた。
「昨日描いてたの、ちょっと直したかったの」
彼女が広げたページには、昨日の防波堤の風景が描かれていた。
そこに、小さく、ベンチに座る人影が追加されていた。――蒼司だった。
「……勝手に描いて、ごめん」
「いや、……ありがとう」
そう言って、彼は初めて、自分からカメラを構えた。
「撮っても、いい?」
灯は驚いたように目を見開いて、でもすぐに、ふんわりと微笑んだ。
「うん。……今なら、たぶん平気」
シャッターが切れる音が、小さく響いた。
それは、蒼司が“誰か”に向けて撮った、久しぶりの一枚だった。
第1話 止まった時間、風の中の出会い 4
写真を撮られるのが苦手な子だと思っていた。
けれど、ファインダー越しに見た彼女は、思いのほか自然だった。
風に揺れる髪、帽子の影にかかるまつ毛の曲線。
カメラを向けられることに慣れていないはずなのに、彼女の表情は、どこか懐かしいようなやわらかさを持っていた。
「すごいね、音が」
灯はシャッター音に少し驚いたように言った。
「なんか、ちゃんと“撮られた”って気分になる」
「今どきのカメラは、もっと静かなんだけどな。……これは、古いやつだから」
「でも……あたたかい音だね」
蒼司は少しだけ笑った。
“あたたかい”という言葉を、誰かがこのカメラにくれたのは初めてだった。
「その帽子、似合ってる」
そう言うと、灯は指先でつばをつまんで、くるんと回して見せた。
「これ、病院の売店で買ったんだ。退院のとき、先生が“紫外線に気をつけて”ってうるさくて」
病院。
その言葉に、蒼司はふと表情を曇らせる。
「……病院って、今も?」
「うん。通院、っていうより、基本は入院生活。外出許可が出るのが、火曜と金曜だけ。……今日がその金曜日」
彼女は笑いながらそう言ったが、その笑みに滲む疲労感を、蒼司は見逃さなかった。
「この町の病院?」
「ううん。もうちょっと山の上の方。救急もやってる大きい病院。景色は良いけど、ごはんはまあまあ」
何気ない口調だった。
まるで、自分の命に期限があることを特別なこととは思っていないような、そんな話し方だった。
「君は……怖くないのか」
その問いに、灯は一瞬だけ、目を伏せた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「怖いよ。でも、それよりも“知られたくない”って気持ちの方が大きいかな。
かわいそうって思われるの、すごく、苦手で」
蒼司は黙って聞いていた。
風が、帽子のリボンを揺らす。
「私さ、長くは生きられないんだって、小さい頃からずっと言われてきたの。
でもね、それって、最初はすごく苦しくて。だけど、あるときから、ちょっとだけ見え方が変わったの」
「どう、変わった?」
「“限られてる”ってことは、“選べる”ってことでもあるんだなって。
何を大切にして、誰と過ごして、どこで笑いたいか。選ぶ時間だけは、誰よりも真剣だから」
その言葉に、蒼司は返す言葉を見つけられなかった。
胸の奥が静かに、だけど確実に締め付けられる。
彼女は、時間の流れ方が違う。
この世界で、同じ季節を何度も迎えられないことを知っている。
それなのに、こんなふうに、穏やかな顔で笑えるなんて。
「君は……強いな」
「ううん、弱いよ。だから、強いフリをしてるだけ」
灯は、少し照れたように笑った。
「でも、“選ぶ”ってことに関してだけは、少しだけ自信があるの。
たとえば、今日この場所に来たこととか、君と話したこととか。……きっと、間違ってなかったって思えるから」
蒼司は、何も言わずに頷いた。
その瞬間、彼の中で何かがわずかに動いた気がした。
止まったままの時間が、ほんの少しだけ、音を立てて軋んだ気がした。
第1話 止まった時間、風の中の出会い 5
太陽が、水平線の向こうへ傾き始めていた。
町の空はうっすらと金色に染まり、波がきらきらと輝いていた。
午後の柔らかな日差しが、ふたりの影を長く引き伸ばしている。
灯は、防波堤の端に立ち、ゆっくりと風を受けながら空を見上げていた。
どこか遠くを見るような、少し寂しげな目だった。
「そろそろ戻らないと。……門限、あるんだ」
「そうか」
蒼司はそれ以上、何も言わなかった。
この数時間が、彼にとってどれほど特別だったのか、彼女に伝えるには言葉が足りなかった。
灯は、スケッチブックを閉じて、そっと胸に抱えた。
今日描いた景色は、まだ未完成。けれど、彼女の中では、きっともう完成していたのだろう。
「次は……火曜日。もし、また晴れたら」
「来るよ。……絶対に」
その言葉に、灯は小さく笑った。
「じゃあ、そのときは……名前、聞かせてね?」
「うん。……約束する」
灯は帽子を押さえながら、ゆっくりと歩き出した。
小さなリュックを背負い、背中はどこか頼りなくて、でも不思議とまっすぐだった。
蒼司はその後ろ姿を、ただ黙って見つめていた。
何かを言おうとして、けれど言えずに、そっとカメラを構えた。
――シャッター音が、静かに鳴る。
それは、たったひとつの背中に向けた、たった一度の祈りのようだった。
誰にも知られずに、誰にも気づかれずに、
その瞬間だけが、永遠になることを願って。
灯が曲がり角に消える。
そのとき、ほんの少しだけ振り返って、手を振った。
それは、言葉にしない“またね”だった。
蒼司は、軽く手を挙げて応えた。
そして、深く息を吸い込む。
胸の奥に、何かが確かにあった。
もう二度と、誰かを撮ることなんてできないと思っていた。
けれど今――彼は、もう一度シャッターを切った。
ただの風景じゃない。
ただの記録でもない。
そこには、誰かが“生きていた”という証が、確かに焼きついていた。
夕暮れの光の中、彼はもう一度だけ、同じ場所にレンズを向けた。
灯のいない空間、灯のいない道。
でも、どこかにまだ、彼女の気配が残っている気がした。
風が吹いた。
スケッチブックのページが、ひとりでにめくれる音がした気がした。
彼は静かに呟いた。
「……また、火曜日に」