第1話 止まった時間、風の中の出会い 1
潮風が、頬を冷たく撫でた。
早朝の空気は思いのほか澄んでいて、肌にまとわりつく湿気さえも、この町ではどこか優しかった。
駅前のロータリーには人気がなく、まだどの店のシャッターも下りたまま。
干物のにおいと、潮の香りが混ざり合った空気の中で、蒼司はひとり、古びたベンチに腰を下ろした。
長い夜だった。
東京を夜行バスで発って、ここに着いたのは午前五時を少し回った頃。
眠ったような、眠っていなかったような、そんな中途半端な感覚が体の奥に残っていて、頭がまだ霞がかっている。
この町に来たのは、ただの気まぐれだった。
スマートフォンの地図アプリを開き、適当にスクロールして指が止まった場所。それが、ここだった。
何かを期待していたわけじゃない。
何かを探していたわけでもない。
ただ、どこか知らない場所で、自分という存在が薄くなるのを感じたかった。
ポケットから、小さな黒いケースを取り出す。
妹が遺していったカメラ。
もう二度と、彼女がシャッターを切ることのないそれを、蒼司はずっと手放せずにいた。
(……どうして、こんなに重たく感じるんだろう)
そのカメラは決して大きくない。だけど、持つたびに胸が痛んだ。
妹が最後まで大切にしていたもの。
入院先のベッドで、弱々しい声で言った言葉が、今も耳の奥に残っている。
――お兄ちゃん、写真って、いいよね。時間を閉じ込めてくれるから。
蒼司は、そっと目を閉じた。
時間が止まったままの心を抱えて、それでも今日もまた、朝が来る。
気づけば、空がゆっくりと白み始めていた。
遠くの水平線が淡い桃色に染まり、波がかすかに音を立てて打ち寄せている。
彼は、ベンチから立ち上がった。
防波堤の方へと足を向ける。
なぜか、その先に“何か”がある気がした。
数分も歩けば、町の喧騒は完全に消えた。
広がるのは、静かな海と、白く塗られた防波堤、そして風の音だけだった。
そして――その先に、ひとりの少女がいた。
防波堤の端に、ぽつんと腰をかけている。
白いワンピースに身を包み、風に揺れる髪を押さえながら、何かを見つめていた。
手にはスケッチブック。
鉛筆を動かす指先が細くて、儚い。
その姿は、どこか現実味がなかった。
まるで、誰かの夢の中にだけ存在しているような、そんな空気を纏っていた。
ふと、彼女が顔を上げた。
「……ねえ、それ、人を撮るやつ?」
不意に声をかけられて、蒼司は足を止める。
そして自分の肩に下げていたカメラを見た。
「ああ……まあ、一応は」
「最近は、撮ってる?」
少女の瞳は、まっすぐで、嘘がなかった。
その透明さに、蒼司は少しだけ戸惑いを覚える。
「人は……あまり。風景ばかり」
「ふうん、じゃあ私は安心だ」
彼女はそう言って、ふっと微笑んだ。
けれどその笑顔は、どこか寂しげで。
ほんのわずかだけど、“終わり”の匂いがした。
次の瞬間、突風が吹いた。
彼女の持っていたスケッチブックが風にあおられ、数枚の紙が宙に舞う。
「あっ……!」
少女が手を伸ばすより早く、蒼司は動いていた。
一枚を空中で受け止め、もう一枚を足元で拾い上げる。
描かれていたのは、病室の窓辺だった。
点滴のチューブ、白いシーツ、ベッドの上の花瓶。
その奥には、曇った空と、ぼんやりとした夕陽。
「見ないで。……恥ずかしいから」
少女が、そっと言った。
けれどその声は震えていた。
「これ、病室……?」
問いかけると、彼女は小さくうなずいた。
「うん。……私、たぶん、来年の春は見られないから。
今のうちに、いろんな景色、ちゃんと焼きつけておきたいの」
「来年の春は、見られない……?」
蒼司はその言葉を、すぐには受け止めきれなかった。
少女は微笑んでいた。けれどそれは、慰めのような、予防線のような、壊れやすいガラス細工のような笑顔だった。
「なんてね。嘘かもしれないし、本当かもしれない。……こういうの、言ったもん勝ちだよね」
小さく肩をすくめると、彼女はスケッチブックの紙をそっと重ね直した。
風で折れた角を直すように指先が動く。
その手の甲には、点滴の痕のような、薄い色のあざが残っていた。
「ごめんね。朝から変なこと言っちゃって」
「いや……」
蒼司は言葉を飲み込んだ。
何を返せばいいのか分からなかった。
“頑張って”とも言えなかったし、
“生きて”とも言えなかった。
それは、あまりにも無責任な願いに思えた。
「あなたは、旅人?」
話題を変えるように、彼女が訊いた。
「旅っていうほど、立派なもんじゃない。ただ……逃げてるだけ」
「なにから?」
「全部。……自分からも、誰かからも」
少女は、その言葉に反応を示さなかった。
ただ、静かに目を伏せて、唇をきゅっと結んだ。
沈黙が、潮の音に溶けていく。
でも、それは苦しいものじゃなかった。
たった今出会ったばかりのはずなのに、なぜか息苦しさはなかった。
「名前、聞いてもいい?」
彼女が、ふと問いかけてきた。
蒼司は少しだけ迷って――そして、小さく首を横に振った。
「……たぶん、今は知らないほうがいい」
「そっか」
少女も、それ以上は追及しなかった。
不思議な子だった。普通なら、興味本位でもう一歩踏み込んでくるのに、それをしない。
「じゃあ、私のも……適当なやつ、教えとくね」
くるりと防波堤の上で踵を返しながら、少女は笑った。
「私の名前は、――灯。ひらがなじゃなくて、ちゃんと“火”が入ったやつ。燃えかけてるみたいな名前」
それが本当の名前ではないことは、すぐに分かった。
けれど蒼司は頷いた。
「……灯さん」
「うん、似合ってる?」
「ちょっとだけ」
少女はくすっと笑い、視線を海へ向けた。
「海って、いいよね。終わりみたいで、始まりみたいで」
「……よく来るの?」
「ううん、今日が初めて。でも、なんか引かれたんだ。
もう、来られないかもしれないから」
その言葉に、また胸の奥がざわつく。
「君の描いた絵、すごく……優しい」
思わず、そう呟いた。
複雑な構図でも、技術的に上手いというわけでもない。
けれど、一枚一枚に“何かを残したい”という願いがこもっていた。
「うれしい。……絵ってね、自分のために描くものだって、ずっと思ってた。
でも最近、“誰かのために”も、悪くないかなって」
「誰かって?」
少女は、答えなかった。
ただ、遠くの海を見ながら――目を伏せて、小さく息を吐いた。
「ねえ。あなた、明日もここに来る?」
唐突な言葉に、蒼司は思わず顔を上げた。
「……わからない。気まぐれで来たから」
「そっか。じゃあ、もしも、また会えたら。
そのときは……もう少しだけ、名前の話をしてもいい?」
「……ああ」
そのときの、彼女の笑顔が――
どこまでも穏やかで、どこまでも、切なかった。
まるで、もうそのときが来ないと知っているかのように。