鈴鹿さん 一
朝日が窓から差し込んで、ちょうど私の顔を照らす。ゆっくり体を起こして、背中を伸ばす。やけに部屋が暖かくて乾燥しているなあと思ったら、部屋の隅で石油ストーブの炎がゆらゆら燃えている。不用心だなと思った。
念のため、ストーブの火を消して土間へ向かう。顔を洗って寝癖を直した。
あの後、台所は掃除して生ごみは裏手にある大きめのゴミ箱に捨ててきた。ブリのあらと残った切り身はそれぞれ甕に入れ、切り身の方に醤油と酒を注いで漬けにして、これらを氷室に運んだ。これで数日は生のブリを美味しく食べられる。本当は砂糖があった方がいいのだけれど、ないので仕方がない。できるだけ塩辛くならないように酒を薬缶に入れ、ストーブで軽く温めて、しっかり冷まして多めに使った。鬼神様には「勿体ない酒の使い方をするな」と怒られたけれど、「必要なことです」と言い返した。
氷室は歩いて一、ニ分の所にあり、十畳程の広さがある。その中央にテーブルが置いてあり、それを囲むように棚が設けられていた。「夏はちゃんと乗り切れるんですか」と鬼神様に聞いてみると、「夏は雪女特製の氷があるから、そうそう解けない」と答えが返ってきた。要は問題ないのだろう。追及してもどうせ人間の私には分からない。
これから、鬼神様の包丁人になるのか……あまり実感はない。だけれど、大好きな料理を好きなだけやれるのは嬉しい。ついこの間までは、こんな事できやしなかったから。しかし、いくつか問題があった。それは料理に必要なものがあまりにもなさすぎることである。包丁、まな板、醤油、羽釜……ってあまりにも少なくありません? てか逆になんで醤油だけ調味料があるんですか? それに竈とか使ったことないですし、というか初めて生で見ましたよ。
台所にガスコンロを設置したとしても、昨日のブリを捌くくらいのスペースはあるから、どこかで調達したい、いや、それ以外も欲しいんだけれど。そもそも、この異界(って呼び方でいいのか分からない)がどこまで技術が発達しているのか全く分からない。私のいた世界以上に発達しているのか、そうではないのか。あるいは全然違う技術が発達しているのか。それによって揃えられる器具も変わってくる。
ここがどんな世界か気になるな。だけれど、勝手に外出したら、逃げたと思われるだろうか?
「ほお、生贄がまだ生きているのか」
突然、後ろから凛々しい女性の声がした。私は悲鳴を上げて振り返った。そこには二メートル弱の白拍子姿の女性がいた。豊かなツヤのある黒い髪をじれった結びで留めて、烏帽子を被っている。紫色の水干に茜色の単衣と袴を身に纏い、刀を二本腰に差し、肩には鷹のような鳥が止まっている。キリッとした目が特徴的で顔立ちが良い。美しくもあり、可愛さもある、魅力的な女性である。昨日の宴会にはいなかった鬼である。年齢は二十代後半くらいに見えるが、実のところは分からない。
「ええと、どなたですか? 戸締りしてましたよね?」
そう訊くと大女は笑ってこう言った。そして、玄関についていたであろう立派な南京錠を見せる。
「ああ、あんな緩い施錠は戸締りとは言わないなあ」
とりあえず、戸締りはきちんとされていたことは分かった。
「不法侵入ですよ、これ」
「戸締りしていない方が悪い」
「戸締りしているのに、こじ開けて侵入する方が悪いと思いますが……、それで、どちら様ですか?」
「申し遅れてすまない。私は鈴鹿という者だ。皆は鈴鹿御前と呼ぶが……御前という柄でもない。気軽に鈴鹿とでも呼んでおくれよ」
よろしく頼むよ、と鈴鹿は右手を出した。私は握手を交わして自己紹介をした。その後、「よく食われずに済んだな」と言われたので、昨夜のことを話した。
「どうして鍵をこじ開けてまでここに来たんですか?」
「それは生贄にされた者達を供養するためだ。こんな死に方じゃ浮かばれないだろう? だからせめて弔うくらいはな」
ただの侵入者かと思ったら、そうでもなかった。案外常識人かもしれない。いや、他人の家の鍵を壊している時点でそれはないか。
「しかし、包丁人になったのか。それで、もう食事を作るのか?」
「いえ、そういうわけではなかったのですが……もう、ということは準備するには早すぎるということですね」
「ああ、鬼神の場合はそうなるな。妖怪にも夕方から行動する者もいれば、私みたいな朝からうろつく者もいる。それに合わせて――」
と私達が話していると、突然石油ストーブが鈴鹿さんめがけて飛んできた。ガシャンと派手な金属音が鳴り響き、鈴鹿さんはその場に倒れ込んだ。私は鈴鹿さんに駆け寄って必死に名前を呼んだ。
「おう、鈴鹿じゃねえか。他人ん宅に勝手に上がり込んで何してんだ?」
見るからに不機嫌な鬼神様が鈴鹿さんを虫を見るような蔑んだ目つきで見下ろしながらやって来た。どうやら石油ストーブを投げたのは鬼神様らしい。
「おお、鬼神。珍しく早起きじゃないか。早起きは三文の徳と言うからな。うむ、実に良いことだ」
鈴鹿さんは何事もなかったかのように立ちあがった。全くの無傷ということに驚く。
「お前の声がしたから起きたんだろうが」
「おお、それは悪い事をした。ああ、そうだ。寝起きで悪いが、嘉穂を借りていくぞ」
鈴鹿さんは後ろから私の両肩をポンと叩いた。
「駄目だ。そいつは俺の生贄だ。同族殺しのお前なんかに預けられねえよ」
「そう言うな。ちょっと外をうろつくだけだ。幽世のことくらい知っておいた方が良いだろう? だから私が案内をしようと言っているのだ」
「信用できねえんだよ、お前のことが」
「信用してくれ、私のことを」
じゃあ、行くぞ、と背中を押して私達は外へ出た。鬼神様は何か言いたげな表情をしていたけれど、恨めしそうにこちらを見つめるだけだった。鈴鹿さんは鬼神様より偉いのかなと漠然と思った。
鬼神様の家は小高い丘の上にあり、そこから周辺の様子を一望することができる。昨夜は暗くてよく見えなかったけれど、私がいたような田舎の風景と大して変わらなかった。茅葺き屋根の家がぽつぽつとあり、電柱も立っている。田んぼや畑が広がり、土の農道が敷かれ、遠くに山も見える。古き良き日本の風景といった感じである。
私達が丘を降りると豪華な装飾のあしらわれた牛車が停まっていた。車を背負った黒い牛が退屈そうに鳴いて近くの草をもさもさと食べている。巫女姿の二人の童女がその牛のすぐ近くに立っており、こちらに一礼した。私も頭を下げる。
「これは、鈴鹿さんの牛車ですか?」
「ああ、光輪という車でな。八十キロくらい出るぞ」
八十キロってマグロの泳ぐ速さじゃん。
童女たちは牛車から牛を外して、車の後ろに踏み台を置いた。私達は牛車に乗り込んだ。中は思いの外広く、二人で座るには充分であった。その気になったら四人乗れるかもしれない。私は鈴鹿さんと向き合うようにして座った。童女達が牛車と牛を繋いでその上に足を揃えて横向きに乗る。程なくして牛車が動き出した。ガタガタと激しい音を立てながら、進んでいく。私は後ろを向いて少し簾を上げた。周りの風景は凄まじい速さで景色が流れていく。確かに凄まじい速度が出ている。こういうの、車に乗っている時に見たことある。
……でも、最後に見たのはいつだっけ?
最後に車に乗ったのはいつだ?
『嘉穂、私、咲奈と出かけてくるから。あんた留守番ね。掃除と洗濯でもやっといて』
……余計なものを思い出してしまい、憂鬱な気分になった。私はさっと簾を下ろした。
「嘉穂、嘉穂?」
「は、はい!」
鈴鹿さんの呼びかけに我に返った。私は背中を伸ばして、前を向いた。
「顔色が悪いぞ。車酔いか?」
「あ、いえ。そうではなくて」
私は笑って誤魔化した。