序文 一
私の住む村には誇槍の森という森があり、その奥に大きな神社が佇んでいる。
ここにはある伝説がある。昔、この森には鬼が住んでおり、毎夜、村にやって来て暴れ回っていた。ある時、三人の皇族がここを通りかかり、村人から事情を聞いた。見過ごせまいと思った三人はその鬼と対峙して、森に封じ込んだ。しかし、今度は祟りをなし、早霜の害で作物を駄目にされた。そこでその村の人々は神社を建て、鬼神様として祀り上げ、三年に一度の12月3日に十七歳の若者を生贄に出し、祟りを鎮めることになった。そうしてこの森は「子遣りの森」と呼ばれるようになり、時代の流れと共に「誇槍の森」と表記が変化した。
さて、皆さんは流石にこのような儀式が今も残っているわけないと思われているだろうが……実は現在も続いている。鬼神様は実在し、村の娘は生贄に出されている。
何故このような話をしているかと言うと、今まさに私が、鬼神様の生贄として誇槍神社に向かっているからだ。
駕篭に無理やり押し込まれた私はゆらゆらと揺らされながら、鬱蒼とした森を進んだ。途中で逃げ出そうにも、これでもかというほどに重ねた着物のせいで、それも難しかった。まあ、動きやすくても駕篭を何人もの男が取り囲んでいるのだけれど。
やっと神社に着いた。駕篭から顔を出すと、目の前には、神額に「子遣」と彫られた忌々しい鳥居があった。かつては朱色に染まっていたのだろうが、丹塗りがすっかり剥げてしまい、木材は老朽化し、今にも崩れそうだ。その鳥居を潜り、五メートルほど離れたところで、駕篭はピタリと止まった。私は外へ無理矢理放り出される。
私はその場に立ち尽くしたまま、荒れ果てた拝殿を眺めた。恐怖心は殆どない。至って冷静である。いや、冷静というより、何もかもがどうでもよかった。
突然、辺りに霧が立ち込めた。見渡すと、木々の隙間から息を吐き出すように、白い煙が吹き付けて、周囲を覆い隠す。程なくして霧は晴れていき、周囲がはっきりと見渡せるようになった。私は唖然とした。今いる場所が先ほどまでの暗澹とした森ではなく、どこかの日本家屋の土間に立っていた。目の前には流し台、隣には竈が並んでおり、備え付けの棚には桶やまな板に大皿、薬缶、そして包丁が置かれている。
あんな高い所に包丁が……。
「贄だ。美味そうなのが来たぞ」
どこからか声が聞こえる。そちらを見ると、居間でニタニタと不気味な笑みを浮かべた五人の子どもが広い座卓を囲んでいる。皆釣り目でおかっぱ頭。見た目こそ小学生と大差ないが、異形の何かだと直感的に分かった。後退りをすると、トンと何かにぶつかってしまった。振り返ると、そこには赤い髪を振り乱した大男が立っていた。背丈は二メートルは超えていると思う。
「今回の生贄はこいつか。中々美味そうなのを寄こしてくれた」
赤髪の男はそう言うと、私の肩を無理やり抱き、居間に連れていった。大男は私を上座に座らせ、隣に腰を下ろした。すると、周りの男女は奇怪な笑みを浮かべたまま、姿勢を正した。
彼らが囲んでいる座卓には酒と何も下処理されていないブリが沢山、それと人一人が横になれそうな大きさの皿(多分私が盛られる)が並んでいた。部屋の隅に石油ストーブが置いてある。ブリが痛みそうだなあと思った。
それにしても鬼神様というのは魚が好きなのか? それと、鱗すら落とされていないが、今からここで解体するのだろうか? 私のついでに解体するつもりだろうか? とか、余計なことを考えていた。
彼らが盃に酒を満たすと乾杯をした。一同はよっぽど私が来たのが嬉しいようで、頭の天辺から足を舐め回すように見てくる。どうやら、彼らにとって人間は特別な食材らしい。まあ、三年に一度しか食べられないのならそりゃそうか。私はもう間もなく食い殺される。
それよりも、これだけの数のブリがあれば様々な料理ができそうだ。煮付けにしても良し、照り焼きにしても良し、あるいは何もせずに刺身にするのも良い。いや、これだけ人数がいればしゃぶしゃぶにするのもありだ。あらは味噌汁にすれば無駄なく堪能できる。ああ、ブリのフルコース。ああ、贅沢の極み。
……って私は食材になりに来たのであった。ブリに花を添えに……花を添える? かは分からないが。兎に角、食べられに来たのだ。またしても余計なことを考えてしまった。
だが、もし、叶うなら私が調理してみたい。この時期のブリは脂が乗っていて美味なのだ。……もう余計なことを考えるのはやめておこう。叶いもしないことを妄想しても仕方がない。
私は彼らの宴の様子をぼんやりと眺めていた。鬼神様とその仲間は酒を水のようにガバガバ飲んでいる。そして、鬼神様がブリに手を伸ばした。ついに解体ショーの始まりか? かと思ったが、鬼神様はそのまま口に運ぼうとしている。
「ちょ、ちょちょちょ! ちょっと待って!」
私は鬼神様が持つブリを掴んだ。
「そのまま食べるつもりなんですか、絶対美味しくないですよ?」
「ああ? 俺たち鬼はこうやって食う」
「あ、な、なるほど。すみません、人間と食文化が違い過ぎたもので、つい」
宴を楽しんでいた化け物達は手を休め、こちらをギロリと睨んで来た。
「生贄風情が鬼神様の為すことに難癖付けんな」
「難癖ではありません、助言です。少なくとも鱗とはらわたは取った方がいいです。手を加えた方が美味しいです、絶対」
「鬼神様に長い時間待てと言うのか?」
「でしたら、せめて刺身にさせてください。それほど時間は取らせませんので」
「お前、図に乗んなよ」
鬼達が文字通り鬼のような形相で私にじりじりと歩み寄ってくる。まずい、出過ぎたことを言ってしまった。ああ、でもどうせ食べられるからいいのか。
「やめろ」
鬼神様の一声で化け物達は動きを止めた。
「座れ。おい、生贄」
鬼神様は全員を座らせ私を一瞥した。
「は、はい」
「俺に物言う生贄は初めてだ。その度胸に敬意を示して魚を好きにさせてやろう」
「は、はい! 有難うございます!」
「……感謝する生贄も初めてだ。お前はなんだ?」
「はい! 私は繁名 嘉穂と言います」
「名を聞いたわけじゃないんだが……まあいい。さっさとやれ」
鬼神様が持っていたブリを私に押し付けた。
「はい! 任せてください!」