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ホテルAでの怪談

作者: あまみけ

 これは20年近く前の冬の日の話。

 IT企業の営業職の私は、当時は甲信越地方のとある企業を担当していた。

 東京の本社からだと、片道3時間以上かかる所で、夜は21時台の特急電車が終電になるため、月に2〜3回は泊まりになる。

 そのため、私はお気に入りの常宿を2軒作って、部屋の空き状況とその日の気分次第でどちらかに泊まるようにしていた。

 

 もちろん、常宿以外に泊まる日もあった。

 私の常宿は、どちらも全国展開している大手ホテルチェーンだったので、休み前の金曜日や長期休暇中などは満室になることもあって、その際は、いくつか他のホテルを利用したこともあった。


 ただ、この日は少しばかり事情が違っていた。

 ある金曜日の夕方、上司から日曜日のシステム試験の立ち会いに行ってくれないかと、土曜日に前乗りしてからの一泊二日の休日出張の依頼があった。

 元々はSEだけで作業する予定だったのだが、お客さん側の部長も参加するという連絡があって、営業も立ち会いをせざるを得なかったのだが、上司が家庭の用事で行けないため、私が出席することになった。

 私はいつもの常宿に予約を入れてから帰宅しようと、予約サイトを見てみると満室。

 それでもホテルに直接電話をすれば、予約サイトでは満室表示であっても、私のような常連客には融通してくれることもあったので、電話で問い合わせてみるも、やはり常宿2軒とも満室だった。

 仕方がないので、宿泊予約サービスのサイトで検索してみたら、該当エリアで空きがあるのは2軒しか無かった。

 今までここまで空き室が無いなんてこれまで無かったので、私と上司が不思議に思っていたら、大学生の弟がいる後輩が、日曜日は国公立大学の前期日程の入試だからではないか、と教えてくれたので納得した。


 空き室がある2軒の内、1軒目はビジネスホテルと言うより、民宿に近いような古い粗末なホテルで、尚且つお客さんのシステムセンターまでタクシーを使わないといけない程の距離にあったので除外。

 もう1軒はエリアで一番の高級ホテルで、ビジネスホテルと言うよりも、シティホテルというクラスのホテルのため、会社の宿泊費規定制限額を少しオーバーしてしまう価格だったが、急な休日出張ということもあり、上司もOKしてくれたので、私はその高級ホテルの予約を取って、その日は早めに帰宅した。


 土曜日の午後。

 遅めの昼食を都内で食べて、特急電車に乗った。

 駅に着いて、酒や飲み物類とおつまみをコンビニで買って、ホテルAにチェックインした時には、もう夕方になっていた。

 私は一番安くて、空きがあった喫煙シングルの部屋で予約を取ったのだが、空き部屋が多いのか、部屋をアップグレードしてくれたそうで、広いツインの部屋だった。

 

 古いホテルだったが、さすがは高級宿ということもあって、室内は綺麗で、ふかふかの絨毯が敷かれていて、部屋の奥には大きなフロアランプがあり、一方で部屋の手前には大きなクローゼットが置かれていた。

 

 私は部屋着に着替えて、クローゼットにスーツとコートと明日着るワイシャツを仕舞っておく。

 土曜日の夕方のテレビ番組は大して面白いものはなかったが、テレビをつけたまま新聞を読んでいると、ウトウトとしてきて寝落ちしてしまった。


 暖房の暑さで目が覚めると、時刻は20:00になろうとしていた。

 腹はまぁまぁ減っているのだが、寒いので外に出たくない。

 このホテル自慢の温泉大浴場に入って、コンビニで買ったおつまみとお菓子で晩酌して、早めに寝てしまおうかと思ったが、それだけでは腹の虫が到底許してくれそうにない。

 私はクローゼットのコートを羽織って、外に食事に出ることにした。


 ホテルAから少し歩いたところのラーメン屋で食事して、コンビニの喫煙所で少しタバコを吸って帰ってくると、もう21:00を過ぎていた。

 部屋に戻って一息ついてしまうと、風呂に行くのが億劫になるのが分かっていたので、コートをベッドに放って、バスタオル類と替えの下着を持って、地下の温泉大浴場に行った。


 私が大浴場の脱衣所に入ったところで、先客が1人出ていき、浴室で体を洗っている時にもまた先客が出ていき、広い大浴場は貸し切り状態になった。

 ぬるぬるとする黒湯は結構熱く、浸かってすぐに体が温まってきたが、薄暗い大浴場に1人きりというのは少し不気味で、早々に切り上げて大浴場から出てしまった。


 ロビー横にある喫煙所でタバコを吸ってから部屋に戻ると、21:45。

 明日、早起き出来たら、朝風呂で温泉を堪能しようと思って、部屋の浴室にバスタオルを干しておいた。

 私は、窓際のソファで、おつまみをポリポリとしながら晩酌を始める。

 タバコを…と思ったら、ポケットの中の箱は残り1本になっていたので、カバンから一箱新しく取ってこようと、クローゼット横に置いたカバンへ取りに行く。

 ついでに、風呂に行く前にベッドに放っておいたコートを仕舞おうと、クローゼットを開けようとすると、扉が少し開いていた。

 コートをハンガーに掛けて、バタンと扉を閉める。

 古いクローゼットなので、建て付けが悪くなってしまっているのだろう。

 今度は、ちゃんと扉が閉まったことを確認して、カバンから新しいタバコを一箱を取って、窓際のソファに戻り、晩酌を再開した。

 レモンサワーの缶を2本も開けた時には、いい感じに酔いも回ってきて、同時に眠気も連れてきたので、私はベッドに入ることにした。


 2つのベッドのうち、私は部屋の入り口に近い方のベッドに入った。

この部屋は常夜灯が無く、私は真っ暗では寝られないタチなので、フットライトと部屋の奥のフロアランプを1番明るさが弱い状態にして眠りについた。


 ・・・どうにも暑く、寝苦しい。

 暑くて目が覚めた。

 古いホテルなので、室温調整は弱中強と切でしか、エアコンの調整ができない。

 チェックインした時には特に暑くも寒くもなかったので、特に調整することなく、そのまま寝たのだが、寝巻きのロンTは汗でびっしょりになっていた。

 ベッドサイドに置いた携帯電話を見ると、まだ2:15。

 私は、汗で張り付いたロンTが気持ち悪くて、部屋の電気をつけて、隣のベッドに置いておいたホテルの浴衣に着替えることにした。

 眠気を纏ったままダラダラと起き上がり、ロンTを隣のベッドに脱ぎ捨てて、浴衣を羽織る。帯は適当。トレパンは足が冷えるのでそのままだ。

 私は、エアコンを弱に切り替えて、また布団に潜り込んだところで気が付いた。


 またクローゼットの扉が少し開いている。


 私は、こういうことが気になるタチで、また布団から出て、扉を押し付けるようにバタンと閉めた。

 そうすると、扉は私に抵抗するかのように、ギィ…と、また少し開く。

 私はイラついて、再びバタンと扉を閉めてから、クローゼット横のバゲッジラックに置いてあるカバンを取って、クローゼットの扉を押さえ付けるようにぴたりと付けて置いた。


 これで、もう扉が開いてしまうことはない。


 私は、念入りに足でカバンをクローゼットに押し付けて、部屋の電気を消して、また眠りについた。


 2時間ほどは眠れただろうか、今度は寒くて目が覚めた。

 寝ついた時はまだ暑かったからだろう、かけ布団は蹴り上げてしまって、ベッドの端に避けられていて、私は毛布だけを包まっている状態だった。


 真冬の4:30。

 重い掛け布団を掛け直して、寝直そうとするが、眠気は一旦覚めてしまったようで、なかなか寝付けない。

 布団の中でぐだぐだとしていると、もう5:00を過ぎていた。


 私は寝ることを諦めて、ベッドサイドの携帯電話を取り、半纏を羽織って、窓際のソファでタバコに火をつけた。

 テレビの朝の情報番組を観ながら、タバコを吸う。

 メンソールのスゥーとした感じで、頭も目覚めてきた。

 ホテルの朝食は6:30から。

 大浴場は確か、朝は5:00からだったよな、と思い出し、朝風呂の後にそのまま朝食を早めに取ってしまおう。

 私は、タバコと携帯電話、それとホテルの朝食券を持って、浴室のバスタオルを取ろうとした時に気付いた。

 

 クローゼットの扉がまた開いている。


 2時過ぎに目が覚めた時よりも、大きく開いている。

 ノートPCや書類が入った大きめのカバンで、ぴたりと押し付けた扉が、だ。

 荷物で約10kgにもなるカバンは、扉が開いた拍子で倒れていて、開いた口から筆箱やら溢れでていた。


 目の前のクローゼットは中から、何かが扉をこじ開けたかのように、扉が大きく開いていた。


 この中に何かがいる!

 いや、何かはもう出てきてしまったのかもしれない…

 ひっと声が出てしまった。

 と同時に、ゾクゾクゾク・・・と悪寒が走る。

 

 私は、クローゼットからじりじりと後ずさった。

 そして、浴室からバスタオルをぶん取り、鍵を持って部屋を逃げ出すように飛び出た。

 携帯電話とタバコ、それと朝食券はちゃんとポケットに入っていた。

 最低限の冷静さは残っていたようだ。


 あれは、寝惚けて見間違えたわけではない。


 部屋のドアの前でスゥッと深呼吸して、私は自分を落ち着けようとした。

 心臓はまだバクバクとしている。

 もう一息、スーッと大きく深呼吸する。

 やっと少し落ち着いてきた。

 

 1〜2分は経っただろうか。

 私は呆然と部屋のドアの前で立っていたが、今度は目の前のドアが、ギィと開くことはなかった。


 とりあえず、ここに居ても寒いだけ。

 先ずは風呂だ。

 私は、朝風呂で気分を落ち着かせてから、これからのことを考えようと大浴場へ向かった。

 大浴場に入ると、更衣室には5人の先客がいた。

 話ぶりから大学生のようで、これからスキーに行く模様。

 浴室にも3人の先客が居て、中年の3人組だったが、こちらもスキー客のようで、楽しそうにおしゃべりをしながら、体を洗っている。

 大浴場におっちゃんらの話し声が響き、普段なら少しうるさいくらいなのだが、今は私の恐怖感は和らげてくれていた。


 私もおっちゃんらに続いて、熱めの黒湯の湯船に入る。

 やはり少し熱いのだが、体の芯から温まってくる。

 熱くなってきて、私は湯船の縁に腰掛けるようにして半身浴にする。

 だいぶ気分は落ち着いてきた。

 

 そう、単に、クローゼットの扉が開いただけで、中から何かが出てきたのを見た訳ではない。

 髪の長い青白い女の幽霊も、得体の知れない黒い影も、正体不明の何かを見たわけではないのだ。

 そして、私に何も実害は無い。


 大浴場の時刻は6:00を過ぎている。

 真冬とはいえ、朝食後にはすっかり夜は明けているだろう。

 朝は来たのだ。


 私は、もう一度、肩まで湯船に浸かってから、風呂から上がった。

 更衣室には、また5人ほど人が居た。

 これから混雑してきそうだ。

 ドライヤーで髪を乾かして、大浴場を出た時には、更衣室は朝風呂目当ての客でいっぱいだった。


 1Fに上がって、ロビー横の喫煙所に行く。

 食事の前とはいえ、風呂上がりの一服が我慢できなかった。

 喫煙所にはさっきの中年男性3人組がいて、今度は楽しそうにおしゃべりしながら、仲良くタバコを吸っている。

 私もタバコに火をつけて、咥えたままでポケットから携帯電話を取り出そうとした時に、部屋の鍵も落としてしまった。


 「ほい、どうぞ。」

 と、私が拾う前に、中年3人組の内の1人が鍵を拾ってくれて、私にう渡してくれた。

 「お兄さんもこれからスキーですか?」

 と、おっちゃんが聞いてくるので、「いえいえ、今日はこれから仕事で。」と答えると、「日曜日なのにお仕事ですか!ご苦労様です。」とニコニコしながら、おっちゃんらはタバコを吹かしながら言う。

 私が、お客さんのシステムの試験対応で休日出勤なんです、と教えると、自分の従兄弟が役員だの、別のおっちゃんは奥さんが元社員だのと、もう二度と会うこともないのに「困ったことがあったら言ってな。」と、名刺を渡してくれた。


 そして、おっちゃんらが先に朝食会場に行ったのだが、別れ際に、「でも、まだその鍵の部屋が残ってるんだね。」と最年長のおっちゃんが、私が手に持っている鍵を指さして言った。

 「部屋によって鍵が違うんですか?」と私が聞くと、私らのはコレ、と、よくあるタイプのカードキーを見せてくれた。

 「大きいホテルだからなぁ。一度に全部は無理なんだろか。でも、去年泊まった時にも既にカードキーだったような・・・」と、おっちゃんらは笑いながら言って、特に気にすることもなく喫煙所を出て行ったが、私は気になっていた。

 

 カードキーのシステムを導入したのに、なぜ全ての部屋の鍵を取り替えることに1年以上もかかるのだろうか、と。

 やはり、あの部屋は何か曰く付きの部屋で、普段は使われていない部屋なのでは?

 何かの手違いで、喫煙シングルが満室だったので、あの部屋が私に宛てがわれたのではないか?

 と、また不安が戻ってくる。

 さっき火をつけた2本目のタバコの大きくなった灰が、床に落ちそうになったので、灰皿にタバコを捨てた。

 

 私は3本目のタバコに火をつけて、壁にもたれかかって、もう考えるのはやめた。

 やはり、私には何も実害は無いのだ。


 ゆっくりしていたら、朝食会場に入った時には、もう7:00になろうとしていた。

 喫煙所で3本もタバコを吸ていたため、朝風呂に入った割に浴衣はタバコ臭くなっていた。

 窓際の家族連れや女性の席のそばは避けて、壁側の席に座る。

 高級ホテルらしく、小鉢がいっぱい乗った豪華な和朝食で朝から満腹気味になって、懲りずにまた1本だけ食後の喫煙の後には、もうすっかり朝日が照って、天気の良い朝になっていた。


 私がエレベーターで自分の部屋のフロアに戻ると、既にチェックアウトした部屋の清掃が始まっていた。

 リネン類を積んだカゴを持ったおばちゃんが、私の部屋の2つ隣の部屋の鍵をマスターキーでガチャリと開けて、ドアストッパーでドアを開けたままにして、中に入っていった。

 どうやら、私の部屋だけでなく、このフロアはまだカードキーに変わっていないようだ。


 私も自分の部屋の鍵を開けて、ドアをそぉっと開ける。

 誰も、何も居ない。

 ドアを閉めてしまうのはやはり怖いので、私もドアストッパーでドアを少し開けておいたままにしておく。

 すぐに用意をして、この部屋を出て行ってしまいたいが、外の清掃の音が聞こえていると、他人がすぐ近くにいる安心感があるからだ。


 クローゼットのドアは、ちゃんと閉まっていた。

 クローゼットの前を通って、窓際のカーテンを全開にすると、朝日が入り、部屋は一気に明るくなった。

 私は、冷蔵庫の残った水を飲み干し、浴衣を脱ぎ捨て、トレパンも脱ぐ。

 そして、浴室のドアを全開にしたまま、さっと歯を磨き、髭を剃った。

 トイレは、、、後でロビーですればいいや、と問題のクローゼットのドアをゆっくりと開けた。

 

 やはり、誰も、何も居なかった。

 あるのは私のコートとスーツやワイシャツ類だけ。

 コートを取り出して、クローゼットの中を改めて見ても、何も居なかった。

 ただ、私の着替え中に、また扉が開いてしまうことがないように、木製の靴ベラを閂のように挟み込んでおく。

 これで、もう開けることは出来まい。


 私は急いで着替えて、カバンに衣類や財布を仕舞って、部屋を出た。

 エレベーターでロビーに降りて、トイレを済ましてからチェックアウトした。

 時刻はまだ8:00前。

 客先に入るのはまだ少し早いので、コンビニで買い物をしてから向かうことにした。


 コンビニで会計をしている時に気が付いた。

 私物の携帯電話はちゃんと持っているものの、会社の携帯電話が無いことに。

 カバンの中を見るも無い。

 コートやスーツのポケットにも無い。

 昨晩、晩酌しながらSEと今日の予定をメールしていたので、ホテルの部屋に忘れているのは確かだ。

 いつもベッドの頭上か脇に私物、会社のもの共に置くようにしているので、急いで部屋を出たので、持って出るのを忘れてしまったのだろう。

 ホテルに電話して、携帯電話の忘れ物がフロントに届いていないかを確認したするが、まだ清掃に入っていないとのこと。

 私は、すぐに必要な物なので、ホテルに戻って、部屋の中を探させて欲しいと伝えて、ホテルへ引き返した。


 フロントで電話した旨を伝えると、村松さんという若い女性スタッフが呼ばれて、私を先導してくれるような格好で、部屋まで行くことになった。

 「カードキーになっている部屋もあるようですが、まだ全部切り替わってないんですか?」と鍵のことが気になっていたので、先導する村松さんに聞いてみると、ボソボソとか細い声で、改装する予定のフロアがあり、改装に合わせてドアキーも取り替える予定になっていると教えてくれた。

 確かに改装前にドアキーを変えてしまったら、二重投資になって勿体無い。

 なるほどね、と納得しているうちに、先ほどまで滞在していた部屋の前に着いた。


 村松さんがドアを開けて、ドアストッパーでドアを固定する。

 どうぞ、と促されて、私は部屋に入る。

 一方で、村松さんは室内に入ろうとしない。

 私は部屋に入って数歩で、クローゼットの扉に、木製の靴ベラが挟まったままで、ひとりでに開いてしまう扉が固定されて、ちゃんと閉まっていることを確認する。

 

 私はベッドのところに行き、置いたままであろう会社の携帯電話を探すが見当たらない。

 床に落ちてしまったのだろうかと、ベッドの下まで探してみるが見当たらない。

 それでは窓際のソファセットのところだろう、と探してみるが、こちらにも無かった。

 ならば、もう一度カバンの中はどうか、慌ててカバンに衣類やらを放り込んだ時に紛れてしまったかもしれない、ベッドの上にカバンの中身を広げるが、携帯電話はやはり無かった。

 

 「その番号に電話をかけて、鳴らしてみてはいかがでしょうか…?」

 か細い声で村松さんがそう言って、こんなことも思い付かないほど、自分が焦っていることに気が付いて、私物の携帯電話で呼び出してみた。

 会社の携帯電話は、基本的にマナーモードにはしていない。すぐに着信音が鳴るはずだ。


 プ、プ、プと耳元で鳴るのを聴きながら、ドアの方を見やると、村松さんがこちらから見えるか見えないかくらいのところに立って、恐々と部屋の中を覗くようにしていた。

 彼女はこの部屋の何かを知っているのだろうか…と思った時、耳元でザーザーとノイズ音が鳴りだした。

 電波が悪いのか?と窓際に近づくが、ノイズ音は変わらない。

 ならば、廊下だ、と今度は開いたままのドアに近づくと、また、プ、プ、プと呼び出そうとし始めた。

 私が、どうにも電波が悪いようで、と取り繕うとした矢先、ピリリリ…!とけたたましい着信音が鳴った。

 私が設定している着信音ではない。

 バイブの振動でガタガタガタ…!という音も

混じっている。

 ギョッとして、部屋の中を見ると、クローゼットの扉に挟んだ靴ベラに、ストラップが掛けられた、私の会社の携帯電話がバイブの振動でクローゼットの扉を叩きながらなっていた。

 そんなところに在るはずがないのに。


 私物の携帯電話で発信を切って、恐る恐るクローゼットのところに携帯電話を取りに行く。

 そうすると、チリリンとメールの着信音がして、ブーブーと携帯電話が振動する。

 この携帯電話は二つ折りタイプのものだが、背面にも小さな液晶ディスプレイがあり、着信やメールの受信が分かる。

 私は携帯電話を開けて、着信メールを開いた。


 “これだろう?探し物は”

 メッセージはそれだけ。

 だが、私は一気に恐ろしくなって、携帯電話を落としそうになる。

 そうすると、またチリリンという着信音とともに携帯電話が震える。

 またメールが着信した。


 私は震える手で、そのメールを開く。

 “中にいると思ってたんだろう?”

 “ハズレだよ。ずっといっしょにいたんだよ”

 メッセージはその2行だけ。


 だが、私はこれだけで理解した。


 クローゼット“の中には”、何も居なかった。

 そう、クローゼットの外、つまり、室内に何かが居たのだ。


 「だから、こんなことしてもムダなんだよ。」

 私がカバンを持って、逃げ出そうとした時に、耳元で低い男の声で囁くような声が聞こえた。

 正気を失いそうになり、私の体は固まって立ち止まってしまった。

 そして、私の目の前で、クローゼットの扉に挟んだ靴ベラが、視えない何かに抜き取られるように、ベッドの上に投げ捨てられた。

 

 そして、扉が、またギィ…と開く。

 ほらね、と言わんばかりに大きく全開に。

 何かの言葉どおり、そこにはやはり何もなかった。

 私の足はガクガクと震えて、腰が抜けそうになっていた。

 「え?え?…???」と思考も停止し、ぶつぶつと呟いている私。

 

 「お、お客さま!お客さま!大村さま!」

 村松さんの絞り出すような大声で、私を呼ぶ声で、私はハッと我に戻った。

 「早くこちらへ!」

 「逃げて!」

 と、手を振りながら私を呼んでいる!

 その声で、私は村松さんに引っ張られるように走って、転げるように飛び出した。

 それと同時に、村松さんはドアを勢いよくバタンっと閉めて、ガチャリと鍵を掛けた。


 数秒の後。

 フゥーっと大きく息を吐き出して、平静を取り戻そうとする村松さんが、「も、もう、他にお忘れ物はございませんね?」と、声を震わせながら聞くので、私が「ありません!大丈夫です!」と、力強く答えると、「では、参りましょう。」と、足早にエレベーターへ向かった。


 ドン!と、背後にドアを叩くような音がした。

 私達は、背後を振り返ることは出来なかった。


 エレベーター内。

 村松さんに「あの部屋は何かあったんですか?」と聞いてみたが、「私は存じ上げておりません。」とはぐらかされてしまった。

 私が続けて、村松さんはあの部屋で何かを見たのか?と聞いてみるも、「大村さまの様子が急にお変わりになられたので、心配になり、お声を掛けたまでです。」と“何も知りませんし、何も見ていませんよ”と突き通すように返された。


 「気が動転してしまったようで、ご迷惑をお掛けしましたが、助かりました。ありがとうございました。」と礼を述べると、お役に立てて良かったですと、村松さんは少しだけニコリとして、「私はこちらで…」とエレベーターが1Fに到着したところで、ロビーとは反対の方へ行ってしまった。


 私がフロントの人にも礼を言って、ホテルを出ようとしたら、フロントの人が、「村松さん、こちらのお客さま。お部屋へのご案内をお願いしますね。」と、フロントの奥の事務所から出てきた女性スタッフに、私を案内するように言う。

 

 村松さんだ。


 さっきと見た目は同じ村松さんが、ニコリとしながら、どうぞこちらへ。と、“明るく爽やかに”エレベーターの方へ誘導しようとする。


 私はコートのポケットに手を入れて、さっきの恐ろしい体験の代わりに、やっと回収した携帯電話を確認する。

 ちゃんといつもの感触がある。

 一応、取り出してみると、確かに会社貸与の私の携帯電話だ。


 私は声が上擦りながらも、「それが、やはり私の勘違いで、コ、コートのポケットにありました!お、お騒がせして申し訳ございません。」と、後退りながら謝罪して、逃げ出すようにホテルAを出た。


 「「行ってらっしゃいませ。」」

 私は、その声に振り返ると、フロントの人と村松さんが深々と礼をして、私を送り出してくれていた。

 私は、ホテルAから少しでも早く逃げられるように客先へと駆け出した。


 お客さんのシステムセンターに到着すると、真冬なのに汗を垂らし、ぜえぜえと息を荒げながら早足でやってきた私を見て、警備員の内藤さんが、朝から野良犬にでも追いかけられたの?なんてからかってきた。

 まぁそんなところです…と答えながら、入館票を記載して手渡すと、「大村さんが早いから、まだ窪田部長は来ていないよ。ここで待っとき。」と、待合用の椅子のところにヒーターを置いてくれた。


 私が、窪田部長が出勤して来るのを待っていると、係長と担当者たちが出勤してきた。

 おはようございます。今日はよろしくお願いします。と、挨拶して彼らを見送る。

 システムセンターのルールで、アポイントを取った相手とでしか、居室には入室できないのだ。


 私は窪田部長を待ちながら、上司に業務開始メールを送る。

 1分も経たずに、スーツのポケットの中の携帯電話がチリリンと鳴るとともに、ブーと振動する。

 休日なのに、ちゃんとメール気にしてくれたんだな、と感心して、返信を確認する・・・

 

 “バレたか。だまされるとおもったんだけどなぁ”

 “ざんねんだ”

 “さよならだ”


 と、3行だけ。


 その後は一切、あの何かからのメールは来ることはなかった。

 もちろん、一度もあのホテルAに泊まっていない。


 あれから20年近くの年月が経った。

 私は、今度は課長として、あの地方を担当することになった。

 そして、来週の週末、早々に体制交代の挨拶回りが決まった。

 役員になった窪田部長との懇親会もセットだと言うことで、また泊まりになりそうだ。

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