囁かれる噂
「ごきげんよう。ステラ様」
「ごきげんよう」
朝一の講義が行われる教室に踏み入れば、見知った令嬢達が出迎えてくれた。
静かに太陽の光が差し込む中、その隅ではどんよりとした空気が立ち込めている。
数名の男子学生達が涙を流しながら、集まっているのだ。彼らには見覚えがある。
昨日、メイアー嬢を女神と崇めていた者達だ。
「お聞きくださいな。女神が消えたとかで、傷を慰め合っているそうですわ」
静かに頭を下げ、エイダ嬢はステラの向かいに腰掛ける。
「女神ね」
おもむろに彼らに視線を向けると、敵意をむき出しにした彼らの瞳とぶつかる。
だが、突っかかってくる事はない。ただ、黙って肩を寄せ合うだけだ。
「我々は分かっている。フワイトタニア令嬢は惨めな女性だとな…」
「そうだとも…。メイアーが心を砕くまでもない」
小さくつぶやく彼らの言葉ははっきりと聞こえている。
誰に向けて納得させているのかしら?
でも意外と茶番を演じたかいはあったという事かもね。
彼らの女神たるメイアー嬢が私に手を出すなと言ったんだもの。守るのが信者という所かしら。
よくも悪くも可愛い方々だわ。
思っていた以上に無害な集団だったと納得する。
けれど、懸念もある。この場に彼の姿がない。
思えば、あの集会にもいなかった。
顔を合わせれば、突っかかってきたのに…。
「そう言えば、ベイルーズ公子はお休みなの?」
エイダ嬢の眉が一瞬、上がる。やはり、彼らの間には何かあるのかしら?
「あの方は昨日付けで退学なされました」
「まあ。そうなの」
「フワイトタニア令嬢に無礼を働いたのだから、当然ですわ」
「無礼とは大層だわ。嫌味を言われたぐらいでキレる程、感情的ではないの。貴女はどうなのかしら?ベイルーズ公子と浅からぬ縁のようにも見えたけれど?」
「まさか。とんでもない。ただ、昔から知っているだけです。ですが、彼は財務を司る長の血縁者でもある。にも拘わらず、メイアー嬢に入れあげ、未だその影を追いかけているとなれば、嫌な顔をする親族も多いのでしょう」
「詳しいのね。幼馴染というものなのかしら?」
「私達はそんな…。それよりもステラ様とその…お呼びしても?」
「もちろんよ」
話をうまくかわされたわね。彼との事はこれ以上、探られたくないと丸見えだわ。
「アルベルト…殿下は信用できる方なのですか?」
「また、どうしてそのような?」
「いえ、巷で噂になっているものですから。アルベルト殿下が国を手に入れるために幻魔をあえて、野放しにしていると…」
「まあ、どこでそのような話を?」
「誰というわけでは…ですが、あの方は魔導士であられる。ならば、魔法で姿かたちを変える事も用意では?初代様に似たあの姿が仮初だと言われても納得できてしまいますわ。もしや魔の手先として、ステラ様を利用なさっているのでは?」
全く、その噂はどこから流れているのか?
少なくともそのような根も葉もない作り話が広まっているなら、とうに耳に入っているはず。
私が把握していない現状、推測するにこれはエイダ嬢の作り話とも考えられるわ。
「それは私を貶しているのかしら?どこぞの馬の骨とも分からない男を王太子の座に据えた悪女だと?」
「まさか。私は心配しているのです。ステラ様の身に何かあれば…」
「なぜそこまでしてくださるの?」
「ベイルーズ公子…いえ、ハーバンとの間に何かあるのかとお聞きしましたよね?」
「ええ」
「実は私はずっと彼が好きでした。ですが、向こうにその気はありません。それは構わないんです。両想いになる事など望んではいませんでしたから。ですが、メイアー。あの女に心を奪われるのだけは我慢ならなかった。彼を愛してくれるならまだしも、彼女は学院も王家も国も愚弄したも同然…」
エイダ嬢の瞳に炎が燃えているような気がした。赤く、ドロッとした。憎悪に似た色だ。
「メイアーに立場を分からせてくださったステラ様に感謝しているのです。ですから、私はその役に立ちたい。何より、幻魔の発生率が高いのは事実でしょう?その責任の矛先が向かう場所など限られているではありませんか?」
確かに話の筋は通っている。そして、頭の回転も速い。
私と同じタイプの少女だと直感した。
まだ、敵となる可能性が残されているのが残念だわ。今は様子見ね。
「エイダ嬢。貴女が心配するような事ではないわ」
「申し訳ありません。出過ぎた真似を致しました」
エイダ嬢の言葉はだんだんと小さくなっていく。けれど、その背中はまっすぐに伸びている。
まるで何かと戦っているように…。
「メイアー…。やっと戻ってきてくれたとおもったのに」
領地へと戻る馬車の中でハーバンは密かにつぶやいた。
すでに王都を出発して、何日立ったか?
もう少し海が美しいネフェルトリアの街に滞在にしてもよかったが、なぜだか落ち着かない。
彼女が消えてから、ずっとそうだ。体中が渇くようでイライラする。
あの神聖な広間でメイアーの姿を模した虚像が流れた時は彼女を近くに感じ、歓喜した。
例えニセモノだとしてもすがりたかった。それでも、心のどこかに本物の彼女を求める気持ちも残されていた。他の連中のように取りつかれたようにあれを女神だともてはやしたが、やはり、生身の彼女に触れたい…欲しい。
あの麗しい瞳、香り、美しい肌。すべてを独り占めしたかった。
だが、彼女は王太子の物だ。だから、我慢したのだ。愛しい女が選んだレオポルト王子。
しかし、あの男の何もかもが偽物だった。
こんな事なら、もっと早くメイアーを連れ出してしまえばよかった。
彼女は消えた。消えてしまった。すべてはあの憎きフワイトタニアの女のせいで…。
ああ、喉が渇く。纏わりつく、幻の女性の幻影すら見える。
どうしてこうも、メイアーの肌触りは忘れられないんだ。
せめて、同じ悲しみを持つ同志たちと悲しみを分かち合いたかったのに…。
なぜ、急に呼び戻されなければならないんだ。領地など戻ったところで広がるのは変わり映えしない田舎だというのに。
クソ…。なぜこんなことに…。
メイアー。メイアー。君はどこにいるんだ。
この世で結ばれないというなら、彼女と共にこの命を終える覚悟だってあるのに…。
誰よりも想っている。
すべてが憎らしい。全く…すべてが…。
自身の言葉が支離滅裂な事にハーバンは気づいていない。
幻想に浸る中、急なブレーキ音と共に前かがみになった。
「どうした?急に…」
使用人に悪態をつけば、人が飛び出してきたからだと返される。
人だと!俺の進む道を邪魔するなど、どんな奴だ!
ああ、胸糞が悪い。一発、お見舞いしてやろう。いや、一生立てないような体にしてやろう。
それがいい。
「ベイルーズ公子様…」
行き倒れた少女は自身の名を呼んだ。そのか弱い声を聞き間違えるはずはない。
「メイアー?」
「お助けください…」
美しいドレスを着こなしていた以前の彼女の面影などほとんどなかった。
「どうしたんだ?」
思わず駆け寄り、その華奢な体を抱え上げる。
なんて軽い。そして、香しい。
鼻の奥に甘い艶やかな振動が伝わっていく。
「私には貴方しかいないの!」
「可哀そうなメイアー。俺が助けてやる」
ピッタリと胸板にあたる柔らかな感触はメイアーの豊満な胸だ。
それだけで夢心地を味わう。ゆったりとメイアーは微笑んだ。
もう、ハーバンの瞳にはメイアーしか映らない。
「俺のメイアー。やっと、この腕の中に…」
女神像でもなく、王太子妃でもない。ただのメイアー。ずっと欲しかった女が向こうからやってきた。この時ばかりは批判ばかりする父上にすら感謝したい気分だ。
ハーバンは人生の絶頂期を味わっていた。
抱き上げる彼女の血色が戻り、その瞳が怪しく光った事など気づかずに…。




