19.平常心と自制心と結婚記念日
ラスト回ちょい長め
ホテルの支配人の案内で通された部屋は広い主寝室と居間と応接室とバスルーム、それに使用人の泊まる部屋まで兼ね揃えた立派なお部屋だった。
一泊にかかる金額も分からない豪華なお部屋に自分がいることがまず信じられない。
粗忽者の自分をよく知っているルチアには、とても落ち着くことができない部屋である。
汚したらどうしよう? とか、備品を壊してしまったらどうしよう? とか。心配ごとが尽きない。
(意識を変えよう……セレーネさまのお供、いやお使いで来たと思って……ここの内装とか調度品をよく覚えてセンスを磨くのよ。勉強するために来たのよ。うん、そういうことにする! いまはせっかくの機会なんだから堪能しよう!)
深呼吸を一度。
そして改めて、すべてのお部屋探検へと意識を切り替えた。
どのお部屋も豪奢な内装で彩られながらも品があり、もちろん埃ひとつ落ちていない。
そこここに花がうつくしく活けられ、居間のテーブルにはウェルカムドリンクと軽食が揃えられてと、おもてなしにも隙がない。
ついついあちこち見て回りながら『ここの使用人、できるわ!』とルチアの職業意識が高まった。
使用人用の部屋に至ってはミニキッチン(こまごまとした備品付き)まで設置されており『ここならわたし、仕事しやすいんじゃ?』とまで考えてしまったルチアであったが。
「おいで」
ルチアがあちこちの部屋を探検して回った後ろをくすくすと忍び笑いしながら追っていたグスタフ。
彼に手を引かれ足を踏み入れたのは寝室。その広いベッドの上にはピンクの薔薇の花が捲かれており、なんともムード満点で逆にルチアは緊張してしまった。
(へ、平常心、へいじょうしん……)
グスタフはあれこれ煩悶するルチアの手を引いたまま寝室の中を横切り、バルコニーへ出られる大きな窓を開けた。
そしてそのままバルコニーに出る。
(あれ……? えーと? ベッドへ直行ってわけじゃないのね)
ホッとしたというか、ちょっとだけ肩透かしというか。
外へ出れば王都の街並みが一望できた。
遠くには王城の灯りが見える。
空は群青色の夕闇に押しつぶされ、星が瞬き始めていた。
「寒くはないか」
バルコニーの欄干に手を置いたグスタフが、ルチアに声をかける。
ルチアはデル・テスタ家で着させられた白いドレス姿のままだ。半袖だし、ルチアの華奢な首元が晒されるデザインのドレスなので、このまま夜空の下に居続けたら寒くなるかもしれない。
とはいえ、いまはさほど寒さを感じない。
「だいじょうぶ。平気……」
なにも考えずにそう答えたあと、ルチアは己の迂闊さに気がついた。
(しまった! ここは『すこし寒いかな』とか言って密着するチャンスじゃん! みすみすそのチャンスを捨てるなんてわたしのバカ馬鹿ばかっ!)
だいじょうぶと答えてしまったら、グスタフの素敵筋肉(筋肉は温かい)に温めてもらう機会がなくなるではないか!
ここ最近、顔を見ることさえ稀だったグスタフとやっと一緒にいられるのに!
自分で自分へのご褒美タイムを逃すなんて、迂闊にもほどがある!
「そうか……でも、寒そうに見えるから……これ……」
ルチアの動揺に気がついているのか分からないが、グスタフは自分の近衛の制服を脱ぎ、彼女の肩にかけてくれた。
肩にずしりと乗った制服に残っていた彼の体温とフレグランスが、ルチアの身体を包み込む。
(わたしの儚げに見える外見、今だけはよくやった! ナイスリカバリー!)
ルチアにとって近衛隊の制服は物理的に重いし大きい。もともと頑丈な布地で作られているうえに、モールやら金ボタンやらあちこちに飾りが付いていたりするから。
袖なんて、ルチアが腕をとおしても指の先しか出ないくらいだ。
グスタフとの腕の長さの違いにドキドキする。そしてその温かさに、違う意味でドキドキする。
思い起こせばいつもいつも、ルチアはグスタフのやさしさに包まれている。
枕元に飾られたピンクのガーベラ。
さりげなく奪われるルチアの荷物。
肩にかけられた制服。
(あぁ、そうだ。ちゃんとお礼言わないと)
グスタフはいつもルチアを気遣ってくれていた。
ルチアはそのやさしさに甘えてばかり。
それではだめだ。
ルチアは決心したではないか。
もっと夫を労わり彼を癒せるような、そんな妻にならなければいけないと。
彼から貰ったやさしさや温かさをお返ししなければ!
「グスタフ」「ルチア」
お互い同時に呼びかけてしまい、驚いて顔を見合わせる。
グスタフの瞳が一瞬見開かれた。
その瞳はルチアと視線を合わせたまま、とろんと柔らかな微笑みに変化した。
(あぁ、好きだなぁ)
「こんなこと、前にもあったな」
やさしく笑うグスタフが好き。ルチアは素直にそう思った。
「タイミングが合っちゃうんだね」
もっと近づきたい。触れたい。
一歩。あと一歩だけ。
「ルチア。先に謝らせてくれ」
ルチアの目の前でグスタフは頭を下げた。
「すまなかった。俺のせいでルチアが要らぬ苦労をした」
要らぬ苦労とはなんだろう?
ルチアには覚えがなくて首を傾げるしかない。
「お義父上たちには昼間謝罪したが……俺が、その……どうにも臆病で……悲観的で……そのせいで、本当にすまない」
「罠にかけたっていう、あれのこと?」
グスタフは首肯く。
「俺は、どうしても物事を最悪なほうへと、考えてしまう癖があって……職業柄もそうだが、そもそも後ろ向きな性格だから。だからこそ、いつも前向きなルチアが眩しいし好ましい」
グスタフはいつの間にかルチアの前に跪いている。
「いつも最悪を想定し……最悪の事態にならないためにどうすればいいか。最悪の事態に陥ったらどう対処すべきか。そんなことばかり考えていた」
グスタフは語る。
運よく武門の誉れである伯爵家に引き取られたが、ここを捨てられたらどうしたらいいのだろう。
武芸の才を認められたが、怪我でもして動けなくなったらどうしたらいいだろう。
いつもいつも考えは後ろ向き。
捨てられないために武芸に励んだ。
怪我をしないためにも、よりいっそう身体を鍛えた。
ひとに嫌われないよう、マナーを覚え勉学に励んだ。周囲の期待に応えるよう行動してきた。
自分に課せられた義務をまっとうすることばかり考えていた。
だから将来に明るい展望を抱いたことなどなかった。
だがルチアは違う。
臆病な自分とは、違う。
ルチアは自分の目標のために勉強する。
大好きな妃殿下のそばにいたいから、全力でマナー講習に臨む。
行動の原動力が、そもそも違うのだ。
眩しいと思った。
そして次に欲しいと思った。
ルチアがそばにいれば、自分も前向きに行動しようと思えるようになった。
「だからルチア。だまし討ちみたいに結婚してしまったが……俺は、結婚したことには……我ながら上手くやったなと思ってた。後悔してない。後悔してるとすれば、ちゃんとした手順を踏んで結婚して、みんなに周知させる結婚披露をしなかったこと、だ。ほんとうに、すまなかった」
「グスタフ、もういいよ。何度も謝らないで。それに、披露パーティーは今日やったからいいじゃん」
「あぁ。デル・テスタ夫人のお陰だ」
「もうお義母さんって呼んでいいんだよ?」
そう提案すれば、グスタフはやっと愁眉を開いてくれた。
「じゃあ、わたしからも言わせてね? ……グスタフ。いつもありがとう。この制服も……お陰であったかいし。さっきもわたしにお料理をたくさん取り分けてくれたし。わたしが一緒にいるときはいつも荷物持ってくれるし。そっとお花を飾ってくれたりするし……いつもいつも、グスタフはわたしを思いやってくれてる。すごく嬉しい。すごく助かる。すごく……」
大好きだ。
思いが溢れ、その思いに突き動かされるままに手を伸ばした。
なにも考えずに目の前にあるグスタフの頭を両腕で抱え込んだ。
「おかあさまが心配しないように、連絡取り合ってくれたんだって? 結婚するまえからうちの商会で買い物してくれてたんだって? うちの売り上げに貢献してくれたの? 本当に……グスタフってば……」
さりげなく片付けられる部屋。
無くなるゴミ。
飾られる花。
「わたし、もっとちゃんと、ぐすたふのこと、きづかえるようにっ、なるからっ、だから、わたしのことっ、すてないでね!」
「は?」
グスタフはひとりでも生きていけるのだ。
ルチアはグスタフのいない生活など考えられないというのに。
ルチアは思い知ったのだ。
たとえ職を失っても、この男を逃したらだめだと。自分の中で結論は出ていたのだ。
このままではルチアの方がゴミと一緒に捨てられてしまうのではないか。そんな不安に駆られた。
なぜか急に目頭が熱くなって、なぜか声が掠れて。
「お、おによめだけどっ……おむね、ちいさいけどっ……、がんばるからっ」
「ルチア? 泣いてるのか?」
泣いてなんかない。これはあれだ。汗だ、汗。
首を振って涙なんかじゃないと伝えるが。
「うー」
「ルチア、ルチア。泣くな、泣かないでくれ」
ルチアがグスタフの頭を抱え込んでいるせいで、グスタフからはルチアが見えない。
首を振っただけでは伝わらない。あたりまえだ。
ルチアの背中をやさしくぽんぽんと叩く手がある。
大きくて温かい手。
その手の主が何度もルチアの名前を呼んでいる。
ちょっと焦ったような声音で泣かないでくれと。
この大きな手が背中を撫でてくれて安心したことを思い出した。
昨日、あの失敬な王女殿下に伴侶を見繕ってやると言われたとき。
あぁ、この人はいつでもルチアの後ろでルチアをフォローしてくれるんだ。そう思ったら勇気が湧いてきた。
グスタフがいてくれたから、ルチアは毅然とした態度をとれたのだ。
グスタフに女の涙なんて見せたくない。
ルチアは涙を武器に相手を意のままに扱う、そんなずるい女になりたくないのだ。
「グスタフ……グスタフ、だいすき。だから……」
言えないと思っていたことば。
でも現状を打破するためには言わないといけない。
抱え込んだグスタフの耳元に、ちいさな声でそっと囁く。
「……抱いて? ほんとうのお嫁さんに、して?」
恥ずかしい! 恥ずかしいが10倍! いや100倍くらい恥ずかしく感じる。
ルチアがこんなに恥ずかしい思いをしているのに、それでもグスタフが抱いてくれなかったらどうしよう。
ルチアは『もうなるようになれ!』とグスタフの反応を待っていたが。
しばらくの間、沈黙がその場を支配した。グスタフはルチアの前に跪いて頭を抱え込ませたまま、微動だにしない。
やっぱりあれか、お胸が貧弱なせいか。
ルチアに対してその気にはなれないのか。
そんな弱気な思考がぐるぐると脳裏を駆け巡り、また涙が出そうと思ったとき。
突然、グスタフが立ち上がった。ルチアを己の頭に張り付かせたまま。
というか、彼の肩に担ぎ上げられた姿勢になってしまった。
急に高い場所に持ち上げられたルチアは、悲鳴をあげかけたが、既のところで堪えた。
「ルチア」
「なに?」
グスタフがルチアを担ぎ上げたまま部屋の中へ戻った。
「いまのうちに謝っておく。すまない」
「え? なんで?」
そっと下ろされた場所はベッドの上だった。そこにコロンと転がされた途端に、ベッドの上に散乱していた薔薇の芳香が鼻孔をくすぐった。
「できるだけ頑張って暴走しないようにするが、加減ができるか分からない。だから」
グスタフはルチアの上に馬乗りになるとシャツを脱ぎすて、彼女の大好きな大胸筋と腹筋をあっさりと曝け出した。
「これ以上、俺を煽らないでくれ」
夫がどこか切羽詰まったような声をだすから。
見上げた彼の顔はなんだか余裕がなくて、焦っているようで。それでいてどこか嬉しそうな雰囲気もあるから。
ルチアは笑顔で両手を伸ばし、夫を迎えいれた。
「ねぇ、グスタフ」
「ん?」
「“泣かないでくれ”って言われてグッときたけどね」
「……うん?」
「俺の胸で泣けって言われたら、キュンキュンしちゃうと思うな」
「~~~だからっ!」
◇
結婚したらすべて解決、すべて終わりなんてことにはならない。
だってこれからも生活は続いていく。
きっとまた揉めるし喧嘩もするだろう。
そのたびに揉めればいい。喧嘩もすればいい。
でも嘘はつかないでね、隠しごとはしないでね。
ふたりでよく話し合って、ふたりだけのルールを決めた。
おたがい職業柄、いざとなれば主の盾になる。そういう事態に陥ったら主に代わり命を落とすのは従の者の使命だ。その覚悟もある。
まあ、そんなことにはほぼならないだろうとグスタフは言った。
あの王太子殿下が、みすみすそんな事態(彼の溺愛する弟を危機に晒すようなそれ)に陥らせないだろうなと。
政治の話はルチアには解らなかったけれど、自国の王太子殿下がとんでもない傑物だということは夫の口ぶりから知った。
年に一度くらいは特別な日を作ってお祝いしようと提案すれば、夫も同意見だった。
世間はそれを記念日と呼び、花を飾っておたがいに祝うのだ。
一般的に結婚記念日とは、貴族院へ届け出を提出した日を指すらしい。
でもルチアたちにはその日よりも強烈に記憶に残った日がある。
結婚披露パーティーをした日。
ルチアの夫がその妻に対して、その気になれないなんてことは『絶対に』無いと証明してくれた日。
この日を本当の結婚記念日にしようね。
ルチアは夫のたくましい腕の中でそう口にした。
グスタフは妻の額にくちづけたあと、妻の望みはすべて叶えると約束した。
ところで。
どうやらルチアの夫はルチアが仕事に慣れるまではと、夜の方をずっと、ずーーーーーーっと我慢してくれていたようで。(自制心が強いというか、忍耐強いにもほどがある)
そうこうしている間にきっかけを逃してしまっていたようで。
それはルチアも同じだったので、ふたり似た者同士だねと笑い合った。
【おしまい】
ここまでのご高覧ありがとうございました。
お楽しみいただけたのなら幸いです。
広告を飛び越え↓の星での応援をよろしくお願い致します。
<(_ _)>