31.おっさんは手術を行う。
フアナは箸口に頼むと再び目を伏せた。
箸口はその態度にこの生活で近づいた関係が遠のいた気がして少し寂しく感じたが、今は時間がなかった。エスカフローネ二世を診察しなければならなかった。
フアナが許可を出してくれて箸口はもう一度仕切りの向こうに戻った。
「あ、前ははだけなくていい、です」
上着を脱ごうとしたエスカフローネ二世を箸口は残念に思いながらも制止し、フアナが支えて起こしたエスカフローネ二世の前に座り、それから目を閉じて自分のエーテル構成体上に『目』を構築した。
箸口はエスカフローネ二世の肩に手を置いた。エスカフローネ二世の身体が少し震えた。
エーテル界に感覚を移し、エスカフローネ二世のエーテル体を確認した。
エーテルの膜上に存在するエスカフローネ二世のエーテル体はその容姿にふさわしく美しいものだった。
エーテル界は立体的な世界ではなく、感覚としては二次元に近いが、平面とも異なる独特の世界だった。そこにそれぞれ生物と思われるエーテル体が配置されていて、常時流動的に動いていた。いくつかのパターンが複雑に絡み合い、明滅を繰り返すのである。しかもパターンはさまざまな速度で変化し、幻惑的な光景を作り上げていた。
エスカフローネ二世のエーテル体は、近くに見えるほかのエーテル体に比べてもより美しくより複雑に見えた。だがその複雑なパターンにどこか違和感があった。明度の高い、赤や黄色、緑と言った明るい色のパターンの中に、濃い紫のパターンが混じっていた。
(なんだこれ……)
箸口は『目』をこらした。
視覚とは異なるため、目をこらしたからはっきり見えてくる、ということはなく、むしろその場所以外が認識から外れる感じであったが、そのことによってその紫のパターンの異様さがより鮮明になった。
紫のパターンは明滅だけではなく、徐々に大きくなっていた。エーテル体のサイズは変化がないのだから、大きくなっているということは周囲をゆっくりと侵食していることを意味していた。
そんなパターンを箸口は知らなかった。
慌てて周囲に『目』を向けたが、他のエーテル体ーーフアナやクリスティーナのものと思われるエーテル体にもそのような兆候はなかった。
エスカフローネ二世の不調の原因はこのエーテル体の異常にあると思われた。エスカフローネ二世から感じた違和感と同じものがこの紫色のパターンから感じられたためだった。何とかしなければ、と箸口は思った。
だがエーテル界では『観察』と『操作』は同時にできなかった。
箸口は『操作』用の『マニピュレータ』を自分のエーテルに構成した。それからエーテル界で『感覚器』と『マニュピレータ』を交互に入れ替え、エスカフローネ二世のエーテル体の処置を始めた。
フアナは、エスカフローネ二世に手をかざしそのまま目を閉じて微動だにしない箸口を黙って見守った。
不思議な光景だった。
エスカフローネ二世も時間が止まったように動かなかった。だがたまにわずかに身をもだえさせ荒い息を吐いた。顔にはうっすらと赤みが差し、先ほどまでの青白さと比べると状況が改善したようにも見えたが、それが果たしてどのような作用の結果なのかはわからなかった。一方ハシグチは呼吸をしているかどうかもわからないくらい、わずかにも動かなかった。フアナもまた動かないままその状態を保った。エスカフローネ二世の上半身を支える腕が痛んできても、気にせずそのままでいた。
どれほどの時間そうしていたのか、ハシグチとエスカフローネ二世とフアナの静寂の空間はクリスティーナの言葉によって破られた。
「少しいいか?」
ギリギリ聞こえる程度の小声であったがこの箱庭のような幸福な世界に対する外敵に思えて、聞いた瞬間強い反発と憎悪を感じた。そのため返事をするのに少し時間がかかった。平静の声を無理に作って、
「……なんですか?」
「周りの様子が変だ」
「……」
「気配がない」
「どういう意味ですか?」
「周囲の無害な獣が逃げ散るほどの何かが近づいてきている」
フアナは現実に戻った。この状況でさらに最悪の事態が近づいていることに天を呪いたくなった。
「ーー対応の必要がありますね。少なくとも戦力としてハシグチは必要です」
「口惜しいが事実だ」
「確認を取ります」
それからフアナはハシグチに呼びかけた。
ハシグチは三回目の呼びかけで反応した。居眠りからの覚醒のようにびくっと震えたあと、目を開けて周囲を見回して、
「え? あれ? なんで夜??」
といった。その疑問を無視して、フアナはハシグチに訊いた。
「……陛下の状況はどうでしょうか?」
まだ反応がないエスカフローネ二世が心配だった。
「あ、一応処置はしてみましたし、たぶんすぐに目を覚まされるとーー」
「たぶんとはどういうことだ!? 貴様、陛下にいったい何をした!?」
「あ、違う違う。絶対です! たぶん絶対です、じゃなくて絶対絶対です!」
その言葉に反応したようにエスカフローネ二世がゆっくりと目を開いた。
「へ、へいか?」
エスカフローネ二世は夢うつつのような状態で周囲を見回し、それからまずハシグチに目をとめ、なぜか顔を赤らめさせた。
「へいか……?」
フアナの再度の呼びかけにエスカフローネ二世の視線にようやく意志の力が戻ってきた。
「フアナか。心配を掛けたな。身体は……うむ。動く。ハシグチが何かをやってくれたのだな」
「よかったです。エーテルに妙なものが混じっていたので可能な限り取り除きました……やっぱりあれが原因だったのかな。なんなんですかね、あれ」
ハシグチの言葉をエスカフローネ二世は聞いてない様子だった。また夢を見たような表情になってそのままうっとりとした調子で、
「そうか。エーテル同士が触れあったのか、私たち二人は……」
と呟いた。
フアナは驚いた。『エーテル同士が触れあう』、というのは女性向けの戯曲で使われる『恋の始まり』を表すフレーズであったからだ。
だが、今はそれどころではなかった。
「陛下、申し訳ありませんが、こちらの話を聞いてください。危険が近づいているようです」
「すまん。どういうことだ?」
「クリスティーナ、説明を」
「わかった。周囲におそらく大型の魔獣か、魔獣の群れが近づいてきていると思われます」
クリスティーナが先ほどの推測を改めて説明した。
話を聞き終わったエスカフローネ二世は皇主の顔に戻った。
周囲を見回し、
「ここは少し開けているが、壁と仮にも屋根があることから一応攻撃の方向は限定できるな……」
「屋根は上に乗られたらすぐに破壊されるでしょう。また逃げる方向も限定されますが……」
「それはそうだが逃げる先はそもそも存在しない……長期化する可能性もあるか。立て籠もるとして何が必要だ? 水、そうか井戸か。あそこなら頑丈な屋根もある。井戸のある地下室で迎え撃つべきだな」
「正しい判断かと」
「すぐに向かうぞ」
全員が立ち上がった。ハシグチ一人がよろけていたが気にかける時間はなかった。武器になりそうなものとあと保存食を手に砦の地下に向かう。
状況の確認のためクリスティーナは入口に残り、残りが地下室まで降りた。地下室に到着した途端、ここに来るまでの間ももたついていたハシグチがしゃがみ込んだ。顔は汗でびっしりで明らかに異変が起きていた。
「……大丈夫ですか?」というフアナの冷静な質問と、「大丈夫か!?」とエスカフローネ二世の悲鳴に似た言葉が混ざった。
「あ、すみません。大丈夫です、たぶん……たぶん」
そう言いながらハシグチは立ち上がろうとしてそのまま腰砕けに座り込んだ。ハシグチが自分の手を見ながら呟くのが聞こえた。
「なんだこれ。俺の身体どうなってる?」
答えを出せないフアナたちに代わって、
「おそらく毒だな」
暗闇の中から声が沸くように響いた。
次回更新は明日の予定です。




