逃亡
ひんやりと薄暗い部屋の隅で、蝋燭の灯りがチリリと揺れる。どこか見覚えのある木製の格子窓の向こうでは、下弦の月が今にも消え入りそうな淡い光を落としていた。
鉛のように重い身体を持ち上げ、上体を起こす。
…ここに着いてから、どれくらい眠っていたんだろう?
隣に目を落とすと、まだ目を覚さない幼なじみが緩い呼吸を繰り返し眠っていた。古びてはいるが質の良い布団に寝かされた幼なじみは、途切れる前の最後の記憶よりも頬に幾分か赤みが戻っていた。
「…ジン。」
ポツリ、隣で眠る幼なじみの名を呼ぶ。
…返ってくる声はない。
「ごめんね。」
巻き込んで、ごめん。
抱え込んだ膝に顔を埋める。大きく息を吐き出すと、喉の奥が焼かれたように痛んだ。頭の奥がズキズキと脈を打つ。こんなに体調が悪いのも久しぶりだ。
…魔力がからっぽだからだ。
神様に魔力を奪われたせいなのか、それとも魔法契約を結ぶ時に全てを出し切ったせいなのか。普段なら少し寝ただけで体に貯まるはずの魔力が、今はまったく回復していなかった。
これじゃあ魔法を使うどころか、意識を保つことすら難しい。
もう一度息を吐き出す。ぐわん、目の前が大きく歪み、自分の手も古びた布団も、目の前の幼なじみの顔も、何もかもが溶けて混ざり合う。また頭の奥がズキリと鋭く痛んだ。
目の前が歪む頭痛にぐっと息をつめる。微かな月明かりすら目を焼くようで、固く目を瞑り、細く長く息を吐き出した。
少しでも魔力があれば、こんな頭痛すぐに治るのに…!
瞼を持ち上げるのすら億劫で、しかし暢気に寝ている場合ではないと、今にもどこかに飛んでいきそうな意識を必死に繋ぎ止める。
…だって、もうひとりの巻き込んでしまった幼なじみーーデュークの姿がどこにも見えない。
ジンが未だ目を覚ましそうになく、デュークも行方のわからない今、動けるのは私しかいないのだ。
誰かここに来たら、デュークのことを聞いて、ジンとデュークは巻き込まれただけだって話して、それから……。
ふわふわ、クラクラ、考える端から思考が揺らいでバラバラになっていく。どんなに集中しようとしても、だんだんひどくなる頭痛と不意に薄らぐ意識がそれを邪魔する。
……なんで。
顎の下を冷たいものが伝う。触れてみると、それは冷たくなった雫の一滴だった。
「……?」
ポロリ、またひとつ滴が落ちる。そこで初めて、自分が泣いているのだと気づいた。
「…あ。」
ポロリ、ポロリ。次々と涙がこぼれ落ちていく。
なんで。咄嗟に袖で拭う。それでも涙は溢れてきて、自分でもなんで泣いているのか意味がわからなかった。
意味がわからなくて、どうしようもなく溢れてきて止まらないから、抱え込んだ膝の間に隠すように顔を埋めた。
目の奥が熱い。熱くて、目ごと解けてしまいそうだ。
ポロポロ溢れる涙もそのままに膝を抱えていると。
ふと、カタリ、と。小さな音が、静かな部屋にやけに大きく響いたり。
「……エレン?」
続けて聞こえてきた声に、ヒュッと喉が鳴った。
そろそろと顔を上げると、晴れた空のように綺麗な碧い瞳と出会う。
「…でゅーく。」
「…!どうしたんだ、エレン!?」
思ったよりも元気そうな幼なじみは、私を認めた瞬間サッと青ざめ、転がるように駆け込んできた。
「どこか痛むのか?それとも何か言われたのか?!」
私の前にしゃがみこみ、あたふたする幼なじみを見て。あんなに止まらなかった涙が、不思議とピタリと止まった。
「…デューク。」
「待ってろ、今母さんを呼んでくるからな!」
「デューク、待って。」
ぐっと顔を顰め、今にも駆け出していきそうな幼なじみの袖を慌てて掴み引き止める。
ピタリ、幼なじみが動きを止める。虚をつかれたような顔をする幼なじみに、私は涙を拭い、嘘でもにっと笑って見せた。
「大丈夫だから。ほら、大丈夫でしょ?」
回らない頭で、大丈夫、と、ただその言葉だけを繰り返す。それしか言葉が思い浮かばない。
ただでさえ厄介ごとに巻き込んだ身だ。これ以上デュークに迷惑をかけたくはなかった。
「泣いている奴が大丈夫な訳ないだろ!」
デュークが泣きそうに顔を歪める。青空の瞳が今にも泣き出しそうに曇る。ぎゅうと握りしめられた拳は、小さく震えていた。
心配してくれる優しい弟分に、これ以上弱っているところは見せられない。
ひとつ息を吐き出し、今度こそちゃんと笑ってみせる。
「大丈夫だから。ね?」
いつも通りに見えるように、明るく笑ってみせる。
デュークがじい、と私を見つめる。青空の瞳は透明で、私の薄っぺらい嘘なんてすぐ見破ってしまいそうな不思議な力があった。
それでも、ここで見破られるわけにはいかない。
巻き込んだという罪悪感はもちろんある。しかしそれ以前に、私はふたりの幼なじみで、奇跡の力を操る魔法使いなのだ。
意地でも足手纏いになるつもりはない。心配されて守られるだけなんてまっぴらごめんだ。
デュークの目をじっと見つめ返す。
「私は大丈夫だから。それよりもデュークの話を聞かせて。デュークこそ、巫女様と一緒に行った後、大丈夫だった?」
弟分の顔を覗き込む。デュークの顔色は思っていたよりも悪くなく、青空の瞳は力強く輝いていた。
デュークがぐっと眉を寄せる。それからひとつ息を吐き、まっすぐに私と目を合わせた。
「ああ。母さんと、それから詰草さんとも話してきた。」
「…詰草さん?」
意外な名前が出てきたことに驚き、思わず聞き返す。するとデュークは花が綻ぶようにふわりと、心底嬉しそうに笑った。
「抜け道を教えてもらったんだ。」
「…!それって…!」
「ああ。母さんが許してくれたんだ。というわけで、逃げるぞ!エレン!」
デュークが手を差し出す。月明かりに照らされ、青空の瞳がまっすぐ私を見つめる。真剣な表情の幼なじみが、いつになく頼もしく見えた。
弟分だと思っていた幼なじみの手は、いつのまにか自分よりも大きくなっていた。
「…うん!」
デュークの手を取る。細く繊細そう見えて力強い手が、私の手を包み込む。
「ジンは僕がおぶっていく。エレンは他の巫に見つからないように見張っててくれ。」
「わかった、任せて!」
ひとつ頷き、不調に悲鳴をあげる体に鞭打って立ち上がる。
ーーぐわり。視界が回る。回る。歪む。
ともすれば意識を刈り取りかねないそれを、ひとつ息を吐き出し堪える。これ以上の不調をデュークに気取られないよう、震えそうになる足で地面を強く踏み締めた。
デュークがジンの背中に手を入れて上体を起こし、自分の背中に寄りかからせる。デュークが慣れない手つきでジンを背負おうとしているその間に、私はそうっと扉に近づき、古くなった木材の隙間から廊下を覗き込む。
見回したかぎり廊下に人影はなく、宵闇に沈んだ社は、まるで打ち捨てられた廃墟ようにしんと静まりかえっていた。
デュークがようやっとジンを背負い、扉の前まで戻ってくる。
「どうだ?」
低く問いかける幼なじみに、私は小さく首を振ってみせる。
「人はいないみたい。」
「わかった。それじゃあ扉を開けて、右に進んでくれ。3つ隣の扉が壊れた部屋の奥に秘密の抜け道があるんだ。」
「わかった。いこう。」
ひとつ頷き、そうっと扉を開ける。古びた扉は立て付けが悪いらしく、甲高い音が夜のしじまにキィと響いた。
ギクリと心臓が跳ねる。息を殺し、一度、二度廊下を見渡す。
…人の気配はない。
ほっと息を吐き出し、部屋の外に滑り出る。宵闇に目を凝らして人影がないことを確認し、デュークに手招きする。
デュークはまるで夜に紛れる黒猫のようにスルリと扉から出てきた。自分よりも背の高い幼なじみを背負っているというのに、デュークは足音ひとつ立てなかった。
さすが、たった数年で熟練の狩人達についていけるだけの成長を見せた身体能力の持ち主だ。
足音を忍ばせ、慎重に歩を進める。息を潜め進むうちに、気づけば目的の部屋まで到着していた。
幼なじみの言った通り、右に3つ進んだ部屋の扉は、壊れて開けっぱなしになっていた。部屋の中に体を滑り込ませ、チラリと後ろを振り返る。
デュークも問題なく部屋に入り込むと、そのまま格子の嵌った窓に近づいていく。
「ここに抜け道があるにらしい。エレン、窓の下に外れかかった板があるから、それを取ってくれないか?」
デュークの言葉にわかったと返し、窓の下を覗き込む。しっかり取り付けられているように見える木の壁を何度か押してみると、明らかに手応えが違う板があった。
ここだ…!
やけに手応えのない板にそうっと手をかける。両手で押してみると、板は簡単に外れた。
ひやりとした夜風が頬を撫でる。暗い夜の森のさざめきが、先ほどよりも近く聞こえた。
後ろを振り返る。デュークが大きくひとつ頷いてみせる。
「…いこう。」
子どもひとりが身を屈めてやっと通れるくらいの小さな抜け道をくぐり、夜の森へと躍り出る。
月が出ているとはいえ、細い月が降らせる光は淡く、闇に沈むような暗い夜だった。
いったん背中から下ろされたジンの脇を掴んで引っ張り出し、最後にデュークがジンを押し出しながら外に出てくる。
デュークがもう一度ジンを背負い直し、私たちが並んで立つ頃には、淡く光る月すらも雲に隠れてしまっていた。
私たちは静かに頷き合い、夜の闇に紛れて、慣れ親しんだ大好きな村から逃げ出したのだった。