彼の決意
「行こう!デュークくん!」
そう言って、当たり前のように手を差し出したあの子の声と笑顔を、今でもよく覚えている。
僕はいわゆる、“とくべつ”な子どもだった。
神様に愛された母さんのもとに生まれ、神様に仕える巫達の手で、社から一歩も外に出さず大切に大切に育てられてきた。
母さんと同じ鈍色の、“神の目”を持つ子ども。神様に仕え、祈りを捧げることしか知らない、人間未満の子。いつか神様に捧げられる、幸せな贄。それが社の中での僕、デューク・ルシファーだった。
だから、エレンやジンと出会ったあの日が。
生まれて初めて外の世界を知ったその日は、僕にとって何よりも特別な日になった。
「デューク様、お疲れさまでした。これでお祈りは終了でございます。夕暮れまでは自由時間に致しましょう。」
白い布で顔を隠したら年嵩の巫が僕を見下ろし、温度もなく告げる。彼の布で隠された僕を見る目は、ガラス玉みたいにひどく冷たく無機質であることをよく知っていた僕は、
「うん、わかった。」
と頷き、窓の外に視線を移した。
年嵩の巫は僕の返事を聞き終わる前に、
「それでは失礼します。」
と扉を閉めてしまった。
ガコン。扉の外で閂を閉める音がする。僕が部屋の外に出られないように閉じ込めたのだ。
「…はあ。」
今日は母さん、いつ来てくれるかな?
詰草さんも、また遊びに来てほしいなぁ。
忙しくても眠る時には必ず子守唄を歌ってくれる母と、秘密の差し入れだと甘いお菓子を持ってきてくれる詰草という巫の笑顔を思い浮かべる。
顔の布を外してまっすぐ僕を見て、温かい手で撫でてくれるふたりが、僕は大好きだった。
だからこそ、ふたりがいない部屋は暗く、寂しく感じた。
僕の背よりも高い位置にある窓の、木製の格子で区切られた向こう側から明るい日差しが差し込んでくる。視線を上げると、しましまの青空が遠く見えた。
「…おそとは、どんなところなんだろう?」
部屋の中に視線を戻すと、母さんたちが置いていってくれた絵本が目に入った。
ひとりぼっちの錬金術が仲間を見つけて幸せになっていくという物語の絵本だ。何度も読んで擦り切れた表紙には、仲間たちに囲まれて幸せそうに笑う錬金術が描かれていた。
「…おそとには、“れんきんじゅつし”って人もたくさんいるのかな?」
絵本の表紙をそっとなでる。
「あってみたいなぁ。」
ポツリ、小さく呟く。
不意に日差しが翳る。ただでさえ薄暗い部屋の中がさらに暗くなった気がして、小さく眉を顰めた。
曇ってきたのかな?
再び視線を上げる。そして、そこから覗く影に大きく目を見開いた。
「えっ?」
窓の外のその子と目が合う。キラキラ輝く森の色をした瞳が印象的な、僕よりも背の高そうな女の子。僕以外の、絵本以外で初めて見た子どもだった。
「男の子…?」
女の子が驚いたように目を丸くする。大きく目を見開きすぎて、綺麗な瞳が溢れちゃいそうだ。
その子は、まるで宙に浮いているのように、青空の中でふわふわと揺れていた。眩しい日差しが女の子の髪に反射して、キラキラきらめく。
驚いた様子のその子に、おずおずと半歩近づく。
「…あの。」
「ん?」
「きみは、だあれ?」
問いかけると、女の子はきょとんと目を丸くした。それから、あ、と呟いて、ちょっと照れたように笑った。
「わたしはエレノア。魔法使いアルバのまつえいの、エレノアだよ。」
エレノアと名乗ったその子は、魔法使いだと誇らしげに胸を張る。そして僕を見つめてただただ裏表なく純粋に、明るく微笑んだ。
「きみのなまえは?」
「ぼくは…。」
名乗ろうとして、言葉に詰まる。
神様に仕える巫女や巫にとって、名前はとても特別なものだという。詳しいことはまだ教えてもらっていないけれど、名前は神様に一番に捧げる大切な供物だから、軽々しく他人に教えてはいけないらしい。
いつも僕を禊やお祈りに連れていく巫が、耳にタコができるほど何度もそう繰り返していた。
勝手に名前を教えていいのかな?
僕はまだ母さんみたいに神様に仕えているわけではない。けれど、僕はいずれ、神様のモノになる。だから本当は、髪の一筋、視線のひとつすら“ただの人”にくれてやってはいけないのだと口を酸っぱく言われていた。
「うん?」
こてり、女の子が首を傾げる。その子は首を傾げたまま、僕の言葉の続きを待っているようだった。
巫たちはダメって言ってたけど…。
じいと僕を見つめる女の子へと視線を向ける。静かに僕の言葉を待ってくれているこの子になら、教えてもいい気がした。
「ぼくはデュークだよ。」
そう答えると、女の子はにぱっと太陽みたいに笑った。
「よろしくね、デュークくん!」
格子の間から手が差し出される。僕よりも少しだけ大きくて、けれど母さんよりもずっと小さい手だ。
恐る恐る手を伸ばすと、ぎゅっと握られた。びくりと肩を跳ねさせる僕に、女の子はいたずらっぽく笑う。
握りしめた手は、熱いくらいに温かかった。
同い年くらいの子とこんな風に手を繋ぐのも初めてで、胸までぽかぽかと温かくなる。笑顔の女の子につられて僕も笑うと、エレノアは綺麗な目をさらにキラキラ輝かせた。
「そうだ!ねえ、デュークくんもいっしょに遊ぼう!」
「いいの?」
「うん!かくれんぼはいっぱいいた方がたのしいもん!」
“かくれんぼ”がどんな遊びかは知らないけれど、エレノアが声を弾ませるから、きっと楽しいんだろうなと期待に胸を膨らませる。
「ほら、いこう!」
エレノアが何の気負いもなく手を差し出す。小さくても温かいその手を見つめ、そっと目線を上げると、にっと笑うエレノアと出会った。エレノアは、まるで薄暗いこの部屋も明るく照らすお日様みたいに笑っていた。
お日様みたいな笑顔と差し出された手が何よりも眩しく見えて、差し出された彼女の手に手を伸ばしたけれど。
「エレン!やっとみつけた!」
窓の外から知らない子の声が聞こえてきて、驚いた拍子につい手を引っ込めてしまった。
エレノアも驚いたように振り返り、差し出された手が離れてしまう。
「ジン?」
「ったく、ひとりでいなくなるんじゃねえ。」
不満げな声が聞こえ、サクサクと草を踏み締める音が近づいてくる。巫達の静かなそれとは違う、聞き覚えのない足音だ。
「それで、こんなとこで何してるんだ?」
問いかける声に、エレノアはチラリと僕を見ると、さっきと同じようにいたずらっぽくにっと笑った。
「じつはね、このまどのむこうに男の子をみつけたの!それで、いっしょに遊ぼうってさそってたんだ。」
エレノアが得意げに胸を張る。しかし相手は信じていないようで、
「ここ、森のおくだぞ。ひとなんて本当にいるのか?」
と怪訝そうに聞き返すのが聞こえた。
「本当だよ。ね、デュークくん!」
エレノアが僕の方を振り返り、にこっと笑いかける。彼女の笑顔につられて、僕はおずおずと頷いた。
「う、うん。」
恐る恐る窓の向こうを覗き込むと、鋭い金色と目があった。
まるで狼みたいな目だと思った。警戒の滲む鋭い目は、しかし僕を見つけると、驚いたように見開かれた。
「本当にいる…。」
「ね、いったでしょ!」
エレノアがにっと笑ってみせる。男の子は戸惑ったように小さく頷くと、再び僕の方へと視線を移した。
「おまえ、こんなところで何やってるんだ?まいごなら、村までおくってくぞ。」
詰草さんによく似た、優しい声だった。僕を“とくべつ”扱いしない、まるで当たり前みたいに優しさが言葉になったような声。それがなんだかすごく嬉しかった。
「ううん、だいじょうぶ。ここがぼくのへやなんだ。」
僕がそう言うと、ふたりは緑と金色の2対の目をきょとり、と瞬かせた。
「え?」
「ここが…?」
目を丸くするふたりに、僕はこくりと頷いてみせる。
「うん。だから、だいじょうぶだ。」
迷子じゃないぞと抗議の意味も込めて、しっかりそう告げる。しかし何か間違ってしまったのか、エレノアは眉を下げ、男の子の方はくしゃりと顔を歪めた。
「こんなところ、家じゃねえ。」
「…え?」
男の子の言葉に、僕はパチリと目を瞬かせる。
家じゃない?目を丸くする僕を見て、エレノアと男の子は真剣な顔で頷き合うと、窓の格子の隙間から手を差し出した。
「逃げよう!デュークくん!」
「おれたちが村につれてってやる!」
そう告げるふたりの表情は真剣そのもので。青空を背に、手を差し出すふたりが何よりも眩しく見えた。
…だから。
「うん!」
ふたりの手を掴むのに、躊躇うことなんて何もなかった。
エレノアの魔法ーー驚くことに彼女はずっと魔法で宙に浮いていたらしいーーが窓の格子を壊し、男の子ーージンに腕を引っ張り上げられて、初めて踏み締めた外の土は温かく、少し湿っていた。
「…まぶしい。」
見上げた空はどこまでも青く、太陽は想像よりもずっと力強く、明るく輝いていた。視線を下げると新緑の木々がさらさらとさざめき、優しい風が頬を撫でる。
「ほら、いこう!」
両手を引くふたりの手は泣きたくなるくらいに温かくて、胸がドキドキと高鳴った。
村に着いた僕らは、日が暮れるまで遊んで、エレノアの家でお夕飯を食べて、みんなで布団にくるまって眠った。そうして夜が明けて、エレノアやジンとまた遊びに行こうとした矢先。
僕を追いかけてきた巫たちに捕まった。
……すごく怖かった。
鬼の形相で追いかけてくる巫達も、僕を逃がそうとしたエレノアとジンを容赦なく傷つける巫達の神聖術も。
そして、連れ戻された僕を抱きしめる母さんの、静かな涙も。
「デューク、すまなかったね。ごめんね、デューク。」
ひどく、胸が痛かった。
そのまた翌日。僕は村の中にある詰草さんの家に引っ越すことになった。
詰草さんは村ではトリスさんと呼ばれているらしい。昔は母さんをこっそり社の外に連れ出しては怒られていたと笑いながら教えてくれた。
「社には秘密の抜け道が結構たくさんあるんだ。あいつに会いたくなったら、いつでも忍び込めばいい。」
「しのびこむって…、ほんとうにいいの?」
首を傾げると、詰草さんは見たこともないくらいとびっきり悪い顔で笑った。
「当たり前だ。だってお前は“リディ”の子どもなんだから。」
と、僕と母さんしか知らないはずの、母さんの本当の名前を呼びながら。
ーーそして。
「こんにちはー!」
「デューク、あそぼうぜ!」
あの日から、エレノア改めエレンとジンは毎日僕を訪ねてくるようになった。
「行こう!デューク!」
エレンたちはあの日から変わらず、いつでも笑顔で手を差し出してくれるから。
「うん!」
だから僕は、僕を連れ出してくれたふたりの力になりたいと、いつでも思っている。エレンとジンには秘密の、僕のもうひとつの願いであり、誰にも譲れない決意だ。
ーー例えそれが、仕えるべき神様に逆らうことになるとしても。
社の奥に坐する母さんの、厳しい色を宿した鈍色の瞳が僕を見る。神様に愛された証だというその目を見据え、僕は深く頭を下げた。
「頼みがあるんだ、母さん。」
重い沈黙を押し退け、続きの言葉を紡ぐ。
「僕たちを……。」