魔法契約
「僕が絶対“ふたり”を助ける。だから、僕たちにエレノアの名前をくれないか?」
真剣な目をしたデュークの言葉に、私は大きく目を見開く。
名前はこの世で1番短く、何よりも特別な魔力が宿る、その人だけの魔法の呪文だ。
特に魔法使いにとって名前は、己の存在証明ともなり得る、命にも等しい大切なもの。おいそれと他人に明け渡せるようなものではない。
……だけど。
「信じていいんだよね?」
デュークの目をしかと見つめる。デュークは私の視線に応え、迷いなく頷いた。
「ああ。僕に任せてくれ。」
彼は澄んだ鈍色の目でそう言い切る。
デュークはちょっと抜けているところもあるけれど、誰よりもまっすぐで、絶対に仲間を見捨てたりしない。いざという時にこそ頼りになる幼なじみだ。
だからこそ、信頼する我が幼なじみが私の名前が必要だというのなら。私に断る理由はない。
「…わかった。いいよ。私の名前、デュークにあげる。」
それが魔法使いの禁忌だったとしても構うもんか。今は緊急事態なのだから。
「“其れは、我が生最初の呪いにして祝福の言葉。”」
胸に緑の光がぽうと灯る。魂から溢れた魔力の光だ。
その光をそっと手で掬い上げ、魔法の力を宿した言葉を吹き込む。
「“我が友、親愛なるデューク・ルシファー。魔法契約のもと、貴方に我がエレノアの名を捧げよう。”」
ぶわり。光が一気に広がり、魔法文字を浮かばせる。それは魂に刻まれていた私の名前だ。
これをデュークに渡せば、私の名前は幼なじみのものになる。つまりそれは、名前に宿る特別な魔法もデュークのものになり、私はまともな魔法使いではなくなるということを意味する。
私の名前を象る魔力の光を一度だけしっかりと両手で包みこんでキスをし、デュークの前に差し出した。
「受け取って、デューク。」
鈍色の目が大きく見開かれる。それからデュークはぐっと顔を引き締めて、ひとつ深く頷いた。
「ありがとう、エレノア。」
返事はせず、小さく笑って返す。
デュークが魔法文字にそっと手を伸ばす。その指先が鮮やかな緑に輝く私の名前に触れた。
ぶわり、魔力が膨らんで風が巻き起こる。
「…!」
デュークがはっと目を丸くする。その鈍色の目に緑の輝きが映り込む。溢れ出した緑の光がパチパチと火花を散らしながら大きく渦巻き、少しずつ幼なじみの手のひらに収まっていく。
同時に、胸の中が空っぽになっていくような虚脱感が襲ってくる。
…きっと、名前を失ったせいだ。
無意識に息を吐き出し、胸元をぎゅうと握りしめる。そうしないと、今にも自分が消えてしまいそうな気がした。
デュークが私の名が宿る光を両手で受け止め、大事そうにしっかり握りしめる。
「ありがとう、エレン。絶対助けて見せるからな!」
「…ん。信じてるよ。」
重怠い頭を上げ、デュークを見上げる。両手で緑の光を包むように握りしめ、私たちをまっすぐ見つめる鈍色の目は覚悟を宿して輝いて見えた。
「“僕、デューク・ルシファーは、エレノア・アルバ、及びジン・ルーキスと苦楽を共にし助け合い、魂を共有することを誓う。僕らの魂の絆は誰であろうと断つことはできない”!」
デュークの鈍色の瞳が、神様の光を彷彿とさせる銀色に底光りする。神の威をその目に宿し、声高に宣言した言葉は、神聖な誓いというよりもデュークらしい決意表明に聞こえた。
白銀の風が頬を撫でる。星のようにきらめく、見慣れたデュークの神聖術の光だ。
しかしそれを綺麗だと思うより先に。恐ろしい神様の光が脳裏をよぎり、ひくりと喉が鳴る。ジンを抱きしめる腕に、自然と力がこもる。
顔をこわばらせる私に、デュークが悲しそうに、悔しそうに眉を寄せる。
銀の光が強くなっていく。光が増すのに比例して、身体が勝手に震え出す。
…怖い。デュークの神聖術をそう思ったのは、初めてだった。
地面を座り込んだまま、デュークを見上げる。神聖な光の中で、デュークは悔しそうに歯を食いしばっていた。
「エレン、大丈夫だ。ジンと一緒に僕の手をとってくれ!」
誰よりも信頼できる幼なじみが切実に叫ぶ。その瞳の色は、白銀。神様の、あの温度のない光と同じ色だった。
指先が震える。差し出された手に、びくりと肩が跳ねた。
…助けてって言ったのは私なのに。怖いと感じてしまうのが悔しくて、下唇を噛み締める。顔を俯けると、蒼い顔をしたジンが目に入った。
ぐったりと脱力し、ピクリとも動かない幼なじみ。その肩にこびりついた赤黒い血と、鉄錆に似た鼻にツンとくる匂い。
私のせいで傷ついた幼なじみを見て、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。
このままじゃジンは助からない。手を貸してくれたデュークに、早く応えないと…。
震える手をぎゅっと握りしめ、差し出された手を見つめる。恐る恐る手を伸ばすと、力強く握り返された。温かい、よく知る幼なじみの手が私の手を包み込む。
はっと顔を上げると、デュークの銀色の目と出会った。デュークが真剣な表情で頷く。
「僕と契約しよう、エレン!」
「…うん。“いいよ”。」
頭の中にふと文言が浮かぶ。それをなぞるように、口から呪文が零れ落ちる。
「“我が名はデューク・ルシファーに。我が魔法はジン・ルーキスに。我が魂は彼ら共に!”」
魔法契約を宣誓した、その瞬間。
『その誓い、聞き届けた!』
誰かの知らない、けれど懐かしい気がする不思議な声が頭の中に響いた。
「…え?」
目を瞬いたのとほぼ同時。ぶわり、祭壇から金色の光が溢れ出す。
「え?」
「な、なんだ?!」
金色の光の奔流が、銀の神聖力の光を飲み込んでいく。
その光には見覚えがあった。
もしかして、祭壇から感じた魔力…!?
温かい光が頬を撫で、髪を優しくかき混ぜる。まるでお父さんに頭を撫でてもらっているみたいだ。
ぽっかり空いた胸が満たされるような、力が漲ってくるような。そんな不思議な魔力が、いつのまにか私たちを包み込んでいた。
金色の光の中で、使い切ったはずの魔力が戻ってくるのがわかる。これなら魔法契約も問題なく結べる!
片手でジンを抱え直し、デュークの手をぎゅっと固く握る。震えはもう治まっていた。
大きく目を見開くデュークに、もう大丈夫だと、いつもみたいににっと笑って見せる。
「いくよ!」
体の中の魔力を練り上げる。身体の中心、胸の辺りに集めた魔力を、腕を通してデュークとジンの身体に流し込む。
「…っ!」
びくり、デュークが驚いたように肩を跳ねさせる。しかしすぐに持ち直し、睨みつけるように私を見据える。
「ああ。いつでもこい!」
ぎゅっと固く私の手を握りしめる。デュークの言葉に頷いて答え、大きく息を吸い込む。
「…“契約”!」
魔力を込めて最後の呪文を告げる。
パチリ、緑の光が弾ける。火花のように弾けた光が、デュークとジンに吸い込まれていく。同時に、身体中に張り巡らされた魔力回路ーー身体中に魔力を運ぶ血管のようなものに、ジンとデュークの魔力が流れ込んでくる。
「…う。」
契約で繋いだとはいえ、自分以外の魔力が流れ込む感覚にゾワリと肌が粟立つ。ふたりの魔力が流れ込んできた場所から身体中にビリビリと痺れが走り、目の前がぐわりと歪んだ。
「これは、なんというか…。変な感じだな?」
デュークの声がぐわんぐわん揺れて聞こえる。
「うぅ…、その感想で済む、デュークが羨ましい…。」
呻くように呟き、息を吐き出す。強い痺れが身体中を駆け巡り、微かな違和感を残して消えていく。デュークと繋いだ手の指先が、まだピリピリと痺れているような気がした。
ぐたりと脱力し、首を垂れる。俯いた視界で真っ先に目に入ったのは、服や手に広がる赤で…。
「…って、そうだ!ジンは?!」
はっと我にかえり、ジンの容態を確認する。ざっくり切れていた肩の傷は綺麗に塞がり、傷跡すら残っていない。よく見ると顔色も少しだけ良くなっているようだ。
「治ってる!」
「…!本当か?!」
デュークがジンの顔を覗き込む。そして血で汚れたままの肩をじっと凝視し、目を丸くした。
「…本当だ。治ってる…!」
「よ、よかったぁあ!」
ほっと肩から力が抜ける。気が抜けるのと同時に、疲れがどっと押し寄せてきた。
「デューク、ほんとありがとう!」
「いや、僕だけの力じゃない。エレンが魔法で手伝ってくれたおかげだ。それに、エレンが頼ってくれて僕は嬉しかったぞ!」
デュークがパッと笑顔になる。花が咲くような笑顔に、私も笑みを返す。
「それでもデュークのおかげだよ。」
もう一度、ありがとうと口にする。デュークは“青空色”の目を細め、照れくさそうに笑った。
「…あれ?」
はつり、目を瞬かせる。デュークの目はそんな色をしていただろうか。
金色の光が星のようなきらめきを残して、空に溶けるように消えていく。代わりに、暗くなった空からぽつり、ぽつりと雨粒が落ちてくる。
しかし私は、嬉しそうに微笑む幼なじみの異変から目を逸らせなかった。
「デューク、その目…。」
どうしたの?そう問いかけるより前に。
「デューク・ルシファー。ジン・ルーキス。そして、エレノア・アルバ」
私の言葉を遮り、凛とした、感情を感じさせない声が森に響いた。
「君たちは自分が何をしでかしたのか、わかっておいでかい?」
振り返った先で。険しい顔をした巫女様が、静かに私たちを睨み下ろしていた。
「…母さん。」
デュークが巫女様を見上げ、パチリと目を瞬かせる。
厳しい鈍色と、透き通った青空色の視線が交差する。巫女様がデュークの目を見て、僅かに目を見開いた。
「その目は……!」
巫女様の驚愕に満ちた呟きが耳に届く。
「目?」
幼なじみがきょとりと目を瞬かせる。
デュークは気づいてないの?
幼なじみの魔法契約前と明らかに変わってしまった瞳の色に、今さらながら冷や汗が止まらない。
…まさか、魔法契約のせいでデュークに悪い影響が出たとか、そんなわけない、よね?
魔法契約の弊害の可能性を思い当たり、サアッと血の気が引いていく。
ジンを助けたくて咄嗟にデュークに声をかけたけど、もしかしてそのせいで…?
恐る恐る巫女様を見上げる。巫女様はデュークを見下ろしたまま、静かに目を細めた。目元を和らげたようにも見えたが、見上げた凪いだ鈍色の瞳からは何の感情を読み取ることもできなかった。
「…詰草。」
巫女様が、いつのまにかそばに来ていた巫の字名を呼ぶ。
「エレン・アルバとジン・ルーキスを森の社へ。怪我の手当てはしておやり。デュークは私が連れて帰る。」
巫女様の言葉に、私たちは目を見開く。
「森の社って…。」
そこは、村で悪さをした罪人が連れて行かれる場所じゃない!予想外の言葉に頭が真っ白になる。
「待ってくれ!エレンとジンがなんで…!?」
デュークが叫ぶように問いかける。しかし巫女様はもう、目線のひとつもくれなかった。
「お前たちは神の意向に逆らった。いくら我が子だろうと、その友であろうと、神に背いた者にかける慈悲はないよ。」
巫女様の言葉が右から左に流れていく。理解することは、できなかった。
「詰草。」
巫女様が再び巫を呼ぶ。白い布で顔を隠した巫は小さく頷いて答え、私たちの前に音もなく進み出る。
巫が私たちの前で身をかがめ、手を差し伸べる。
「…行こうか。」
かけられた声は、相変わらず無機質で感情の読めないものだった。
隣のデュークがぐしゃりと顔を歪める。
巫は座り込んだ私を立たせると、幼なじみたちの中でも群を抜いて背が高いジンを軽々と抱え上げた。
「君は歩けるか?」
「…はい。」
巫の言葉に小さく返事を返す。私の返事を聞き、巫はそれならいいとひとつ頷いた。
「着いてきてくれ。」
巫が祭壇に背を向けて歩き出す。私もぎゅっとキートンのスカートを握りしめ、一歩踏み出した。
「…エレン。」
ふと、後ろから呼びかけられる。振り返ると、悔しそうに私を見つめるデュークがいた。青空色の目が曇り、小さく揺れている。
「…大丈夫。」
気づくとそう口に出していた。
「大丈夫だよ。」
にっと、自信ありげに笑ってみせる。
「それじゃあ、行ってくるね!」
ひらりと手を振って歩き出す。デュークは、返事をくれなかった。
前を向くと、先にお祈りを終えていたリリィちゃんとカミルくんと目があった。ふたりはオロオロと巫女様と私たちを見比べ、困ったように眉を下げていた。
「…エレンちゃん。」
恐る恐る手を伸ばすリリィちゃんに、私はもう一度笑ってみせる。
「大丈夫だよ。ちょっと行ってくるね。」
リリィちゃんの手を握り、すぐに離す。そして今度こそ巫の背中を追って、雨の森へと歩き出したのだった。