お父さん
昔々あるところに、ひとりぼっちの神様がいました。
神様には、家族も友だちもいませんでした。けれど、神様は家族や友だちと同じくらい大切な宝物を持っていました。
神様が宝物を大事に抱きしめると、光と闇が生まれました。
神様が宝物に優しく語りかけると、焼けた大地に雨が降り、海ができ、穏やかな風が吹き始めました。
神様が宝物のために歌えば、木が育ち、花が咲き、やがて小さな生命が産声をあげました。
神様が宝物を大切に大切に愛するうちに、太陽と月が交互に巡り、緑は溢れ、たくさんの生命が生まれました。
その宝物こそ、神様が創ったこの世界でした。
そうして神様は、今日も愛する世界を見守っているのです。
やさしい神話『かみさまとせかい』より
◆◇◆◇◆◇◆
夏至のお祭りではお祈りをする子どもはみんな、キートンとよばれる真っ白な衣と花を身に纏うのが慣例だ。
衣装自体は簡単に着れるのだけれど、花飾りをつけたり、髪を複雑に結い上げたり、薄く化粧を乗せたりと、細々とした仕上げに時間がかかる。そのため本来ならば、〈宵闇の泉〉での水浴びが終わったらすぐに着替えにかからなければならない。
しかし現在、私は過保護すぎる幼なじみと事情を聞いたお母さんによって、ベッドに押し込められていた。
「…別に、もう平気なんだけどなぁ。」
森を出てしばらく、カラリと晴れた青空の下を歩くうちに、身体は本調子に戻っていた。なんなら旗取り合戦もでできそうなくらいには絶好調だ。
それなのにジンもお母さんも休めっていうんだもん。信用がなさすぎて泣いちゃいそうだ。
実際、走り回れるくらい元気なのに眠れるはずもなく、ぼんやりと窓の外を眺める。
さんさんと太陽が輝く青空の向こう、西の空には暗く重たそうな雲が見えた。今日は夕方から雨が降りそうだ。
…せっかくのお祭りなのになぁ。
今日のためにと両親が用意してくれた衣装が頭をよぎる。真っ白な衣装に、私の好きな色だからと綺麗に染まった緑の糸で刺繍してくれた、私だけの正装だ。花飾りだって、おじいちゃんが種から大事に育てた花におばあちゃんが魔法をかけて作ったのだと聞いている。
…着るの、楽しみにしていたのに。
なんだかお預けを食らった気分で、ごろりと寝返りを打つ。唇を尖らせて扉を睨んでいると、コンコンコンと扉を叩く音が聞こえてきた。
「エレン、起きてるか?」
お父さんの声だ。
「…うん、起きてるよ。」
「ちょっと入るぞ。」
短く断りを入れて、お父さんが部屋に入って来る。
「具合はどうだ?」
「…すっごく元気だよ。」
「ははっ、そうだろうなぁ。」
お父さんはひょいと肩をすくめて、おかしそうに笑った。
「魔法使いは体調を崩しやすい。けれど普通の病気とは違って、原因の魔力から離れればコロッと楽になるからなぁ。」
そう言って、お父さんは手近な椅子に腰掛ける。
お父さんは、私と同じ魔法使いだ。土と水の魔法が得意で、魔法を活かして家の建築や道の整備を生業にしている。
それに魔法や魔法使いについての知識も豊富で、私にいろんな魔法を教えてくれたり、やって見せてくれたりすることもある。
お父さんの魔法は目を引く派手さはないけれも、どれもキラキラしていて、みんなを笑顔にしてくれる。魔法を使っている時のお父さんは、すごくかっこいいのだ。
それに、お父さんは私と同じ魔法使いなのに、滅多に体調を崩さない。それがとても不思議で、
「お父さんはなんでみんなみたいに、いつも元気なの?」
と首を傾げた。
私の視線を受けて、お父さんはふと微笑むと、ちょっと自慢げに胸を張った。
「ちょっとしたコツがあるんだよ。こうやって、自分の体の周りを魔力で薄く覆って、自分のもの以外の魔力を弾くんだ。」
お父さんが何もない空中をスッと撫でる。するとシャボン玉みたいに淡く輝く光の膜が、お父さんを包み込んで揺らめいた。
「わあ!これ、私もできる?」
「うん。魔力操作の応用だから、エレンも練習すればできるようになると思うよ。」
触ろうとすると、ふわり、光が淡く解けて、何もないかのように指が通り抜けた。
「…触れない。」
「魔力だからね。」
お父さんが戯けたように笑うから、私もつられて小さく笑う。
「また宿題が増えちゃった。」
もう一度光の膜をつつくと、パチリと弾けて消えてしまった。お父さんが魔法を解いたらしい。
やっぱりシャボン玉みたいだ。
ふとお父さんの方を見ると、静かに凪いだ緑の瞳が私をじいと見つめていた。
「…エレノア。」
普段とは違う、低く潜められた声音に、何より愛称ではなく本当の名前で呼ばれたことに、自然と背筋が伸びる。
「……なぁに?お父さん。」
名前はこの世で一番短く、何よりも特別な魔力が宿る、その人だけの魔法の呪文だ。
特に魔法使いは名前を媒介にすることで使い魔と契約したり、強力な魔法を使ったり、誰かを呪ったりすることもできてしまう。魔法を使っている途中で名前を呼ばれてしまったが故に、周りを巻き込んで世界からその存在ごと消え去ってしまうことだってあるのだ。
そのため魔法使いは名前をことさら大事にするのと同時に、よほどのことではない限り、本当の名を他人に呼ばれることを嫌う。
それは例え、家族や友だちであったとしても同じだ。
だから家族もジンやデュークたちも、村の他の人たちも、私の本当の名前ーーエレノアではなく、あだ名でエレンと呼ぶ。
つまり、魔法使いであるお父さんが同じ魔法使いの私を本当の名前で呼ぶというのは、とても重い意味を持つのだ。
凪いだ緑の瞳が深い叡智を宿して、静かに私を見据える。その泰然とした佇まいには、世界の理を知り奇跡を起こす、魔法使いらしい矜持と威厳があった。
「運命の星に守られた愛し子に、祝福と忠告を。」
お父さんが私の手を取り、何事かを呟く。
パチリ、光が弾ける。キラキラ輝く光の中から現れたのは、美しく編み込まれた一本の組紐だった。
「わぁ…!」
シュルリ、ひとりでに私の手首に巻きついてブレスレットになった組紐を目の前に掲げてみる。
それはとても美しく、丈夫に編み込まれた組紐だった。
太陽の花に月見草、星雲花。綺麗に染まった緑や白、金色の糸を用いて編み込まれているのは、どれも魔除けのモチーフとして有名な草花だ。
「夏至の儀式を迎える君への餞だよ。エレン、どうか君が健やかに、自分の手で幸運を掴めますように。」
お父さんの穏やかな声が部屋にやわらかく響く。視線を移すと、優しく微笑むお父さんと目があった。
ふわり、胸が温かくなる。自分の好きな色で作ってくれたらしいプレゼントはもちろん、自分の幸せを願ってくれるお父さんの言葉が一番嬉しかった。
「ありがとう、お父さん。」
「おう。」
照れくさいのか、返ってきた返事は少しだけぶっきらぼうなものだった。それでもやわらかく笑っていたお父さんは、不意に表情を引き締めると居住まいを正し、
「それからもうひとつ。エレンに伝えておかなければならないことがある。」
と口火を切った。
小鳥のさえずりや窓の外の騒めきがにわかに遠ざかる。向かい合ったお父さんは、いつになく真剣な表情をしていた。
空気が引き締まったのを感じ、ここからが本題なのだろうと、私も背筋を伸ばした。
「伝えておかなければならないこと?」
訊き返すと、お父さんは静かにひとつ頷いた。
「カミサマのことだ。」
凪いだ緑の瞳がまっすぐ私を見つめる。
「魔法使いは、カミサマに嫌われている。」
温度のない淡々とした言葉が、しんと静まり返った部屋にいやに響いた。
魔法使いが、神様に嫌われている…?
「…え?」
理解が追いつかず、間抜けな声が漏れる。
神様とは、かつてこの世界を創った創世主にして、今も世界を愛し護ってくれていると言い伝えられている夜神様のことだ。
夜神様は世界の全てを愛してくれている。
村の子どもたちは、物心がつく前からそう聞かされて育つ。村の神事を司る巫女様をはじめとして村の誰もがそう語って聞かせるから、どんなひねくれ者でも、神様のことを疑う人などいやしないとみんな笑っていたのに。
目を丸くする私に、お父さんは一瞬悲しそうに眉を下げる。しかしすぐに表情を引き締めると、淡々と言葉を続けた。
「カミサマには気をつけて。何があっても、自分を繋ぎ止めてくれる絆を大切にしなさい。」
厳しい口調で紡がれた言葉は、わかるようで完璧に理解しきることはできない。
絆を大切にというのはわかる。家族や友だちを大切にするのは当たり前だ。
けれど、神様に気をつけてっていうのはどういうこと?
絆を大切にというのも、当たり前のことだからこそ、改めて言われるとなんだか違和感を覚える。
胸の底がざらつくような違和感に眉を顰める。
魔法使いであるお父さんが、わざわざ同じ魔法使いの私を本当の名前で呼んでまでした忠告だ。きっと深い意味があるのだろうけれど。
お父さんの真意が掴めない。意図を掴みきれないもどかしさに胸がモヤモヤする。
「お父さん、今のってどういう…?」
そう聞き返そうとした時だった。コンコンコンと部屋の扉をノックする乾いた音が、部屋に大きく響いた。
「エレン、起きてる?そろそろ着付けしたいんだけれど、体調はどうかしら?」
部屋の外から聞こえてきたお母さんの声に、ぱちり、目を瞬かせる。
遠くで鐘の音がカーン、カーンと鳴り響く。9つの鐘の音だ。
「そろそろ時間だね。」
お父さんはふと息を吐き出すと、椅子から立ち上がる。そして私の方を振り向くと、いつものお父さんの顔で優しく笑った。
「お母さんと交代だな。お父さんは外で待っているよ。」
そう言い置いて、お父さんは部屋から出て行った。入れ替わりにキートンや花飾りを持ったお母さんが部屋に入ってくる。
「エレン、少しは休めた?そろそろ着付けしないと間に合わないんだけれど、起きれそう?」
「う、うん。」
忙しなく問いかけてくるお母さんの勢いに負け、慌ててこくこくと頷く。お母さんは心配そうに私を見ていたが、ひとつ息を吐き出すと、
「それなら早く起きて。せっかくのお祭りなんだから、しっかりお洒落しないとね!」
と張り切ったように笑った。
いつのまにか、祭りの騒がしさはすぐそこまで戻ってきていた。