〈宵闇の森〉
「ううん、ねむい……。」
ふわりとあくびをひとつ。重たい瞼を擦って、寝ぼけ眼で髪を梳いていく。去年から伸ばし始めた髪が、肩口でサラリと揺れた。
「エレン、準備できた?」
台所からお母さんが顔を覗かせる。振り返ると、優しいヘーゼル色の瞳と目があった。
「んー、あと少し。」
「あんまりのんびりやってると遅れるわよ。さっさとやって、朝ごはん食べちゃって!」
「はあい。」
返事すると、お母さんはやれやれといったように首を振り、台所に引っ込んでいった。
パンが焼ける香ばしくて少し甘い匂いが台所から漂ってくる。お母さん特製のパンの匂いだ。
パン屋さんみたいにいろんな具が挟まっていたり、いつ食べてもふわふわだったりはしないけれど。お母さんが作るパンって、ほんのり甘くて、焼きたての匂いがして、大好きなんだよねぇ。
髪に寝癖が残っていないことを確認し、鏡の中の小さな自分ににこっと笑いかける。
「…よし。」
今日もバッチリ百点満点だ。ひとつ頷き鏡を置く。
「お母さーん!終わったよー!」
呼びかけると、
「パン焼けてるから取りに来て!」
と返事が返ってきた。台所に顔を覗かせると、ちょうど籠にパンを盛り付けていたお母さんがちょいちょいと手招きした。
「はいこれ。ミルクとバターはいつものところにあるからね。」
「うん、ありがとう!」
籠を受け取り、居間のテーブルに運んでいつもの席に座る。
食べ物に恵まれたことへの感謝の礼を手短に済ませ、焼き立てほかほかのパンにかじりつく。ふわり、小麦粉のほんのり甘い香りが口の中いっぱいに広がる。
うん、美味しい!やっぱりお母さんのパンが一番だ。口元を綻ばせ、次の一口を頬張る。
今日は待ちに待った夏至の日。この日お祈りをする子どもたちたちの準備は、想像していたよりもずっと忙しい。
まず身だしなみを整えて村の外れにある泉に行き、冷たい湧水を浴びて身体を清める。
それからシーツのように真っ白な布を体に巻き付けて着崩れないように帯をぎゅっと締め、髪を綺麗に結い上げて花を飾る。
そして鐘が10回鳴ったら村の巫女様と一緒に森の祭壇に向かうのだ。
居間のテーブルのいつもの席に座り、足をぶらぶらさせる。
デュークはもう泉に向かってるかな?誰よりも気合入っていたもんなぁ。
人一倍張り切っていた幼なじみを思い浮かべ、小さく笑みをこぼす。
ジンも真面目だし、デュークと早めに行ってるかも。
今年お祈りをする子どもは、私を含めて5人。他の子たちはのんびりした子が多いから、きっとデュークかジンが一番乗りだろう。
でも、初夏とはいえ朝はまだ涼しく、泉の冷たい湧水を浴びるには寒いくらいだし。私ものんびり行こうかな。
ひとつめを食べ切り、ふたつめのパンに手を伸ばす。まだほんのり温かいパンを手に取り、思い切り頬張る。ほんのりとした甘さと焼き立ての香ばしい香りが最高に美味しくて、いくらでも食べられちゃいそうだ。
お母さん特製パンをのんびり味わっていると、にわかに、トントントンと玄関の扉を叩く音が聞こえてきた。続けて聴き慣れた幼なじみの、
「エレン、起きているか?」
という声が聞こえてくる。
ゴクリ、パンを飲み込み、玄関の方を振り返る。
「んえ?ジン?」
「あら、お迎えが来ちゃったわね。」
いつのまにか居間に出てきていたらしいお母さんが、玄関の方を見てクスクスと笑う。
「ほら、早く行ってあげなさい。パンは後でたくさん食べればいいから。」
「んー、じゃあこれだけ!」
食べかけのパンを口の中に放り込み、ごちそうさまでしたと早口で告げて席を立つ。
「それじゃいってきます!」
「いってらっしゃい!着付けがあるからまっすぐ帰るのよー!」
「はーい!」
お母さんに手を振って玄関へと駆け出す。扉を開けると、腕を組んで待つ幼なじみがいた。
「おはよ、ジン。」
「おう。おはよう。」
ジンが組んでいた腕を解きにっと笑う。さも当然のように迎えにきた幼なじみを見上げ、パチリ、目を瞬かせる。
「迎えに来るなんて珍しいね。何かあった?」
いつもなら迎えに来ることなんてないのに。
どうしたのと首を傾げると、ジンから呆れたような目を向けられた。
「お前な…。今日は魔法が使えねえんだから、当たり前だろ。」
幼なじみにため息混じりにそう言われ、ああ、そういえばそうだったと思い出す。
村の外れにある泉ーー通称〈宵闇の泉〉の水は、魔法を封じる力がある。
詳しい理由はわからないけれど、〈宵闇の泉〉の水に触れるだけで数時間は魔法が使えなくなってしまうという。さらに〈宵闇の泉〉の水を飲むと丸一日は魔法が使えないと言われていて、別名魔法封じの水とも呼ばれている。
そんな〈宵闇の泉〉の水を全身に浴びるわけだから、私も今日一日は魔法が使えない。つまり、道中で何かあっても対処できないのだ。
それでジンは魔法の使えない私を心配して来てくれたのだろう。
「あはは、そうだったね。ありがと、ジン。」
「おう。ほら、行くぞ。」
「うん!」
大きく頷き、ジンと泉がある方へと歩き出した。
〈宵闇の泉〉がある村の外れは、泉を守るためにちょっとした森になっている。
〈宵闇の森〉と呼ばれるその森は、泉の不思議な力が影響しているのか普通の森と比べて危険な魔獣も多く、普段はよっぽどのことがない限り立ち入ることもないような場所だ。
そのため夏至の祭りのような神事などで泉に向かう時は、村から木々の合間を縫うようにして作られた、魔獣除けのある小道を辿っていくのが暗黙の了解となっている。
当然、私たちも安全に泉にたどり着くため、魔獣避けが施された小道から外れないように慎重に進んでいく。
泉まで細く長く伸びる小道は、生い茂る青葉が陽の光を遮って少し薄暗く、ひんやりとしていた。小道の脇にそびえ立つ木々はどっしりと地面に太い根を下ろし、その太く立派な枝葉は陽の光を隠すように頭上を塞いでいる。
幹が太く、立派な大樹が並び立つ森は荘厳で美しく、近寄り難い神々しさすら感じた。
これが神様の力を宿す森かぁ…。
森全体が醸し出す、気圧されるような神聖な雰囲気は、こういった神聖な場に慣れていない私には重たく、息苦しく感じた。
いつも遊んでいる木漏れ日の森とは大違いだな。
ひとつ息を吐き出し、道の先を見つめる。道の先にあるはずの泉は、薄闇に覆われて見通すことはできなかった。
「…なんだか息苦しい場所だね。」
「ああ。こう言っちゃ悪いが、あんまり長居したくはねえ場所だな。」
ジンも眉を寄せ、苦い顔をする。
よかった、私だけじゃなかった。ジンも私と同じらしいとわかり、ちょっとだけほっとする。
「早く行こう。」
知らず知らずのうちに握っていたジンの袖を引っ張る。ジンはひとつ頷くと、袖を握っていた私の手を掴んだ。
そしてしっかりと手を繋ぎ、
「ちゃんと着いてこいよ。」
と言って歩き出す。前を歩く幼なじみの背中は が、いつもよりずっと頼もしく見えた。
「ん、ありがと。」
ジンとふたり手を繋いで、大樹の合間に作られた細い小道を足早に進んでいく。
小道を進むごとに木々はさらに生い茂り、枝葉が複雑に絡み合って陽の光を奪っていく。少しずつ重く、暗くなっていく森に気圧されて、足がすくんでしまいそうだ。
ふう、とひとつ息を吐く。ぼんやりと道の先を見つめていると、足を止めて振り向いた幼なじみと目があった。
心配の色を乗せた金色の瞳が私を映す。
「エレン、大丈夫か?」
「…んー、ちょっと疲れちゃったかも。でも、まだ大丈夫だよ。」
誤魔化すように曖昧に笑って、ひらひらと手を振ってみせる。
しかし生まれた時から一緒の幼なじみは簡単には誤魔化されてくれないようで、
「辛いなら早めに言ってくれ。ただでさえお前は体力ねえんだから。」
と真剣な表情で言われてしまった。
ほんと、ジンは鋭いなぁ。思わず肩をすくめる。
確かにジンの気遣いはすごく嬉しい。体力がないのは本当だし、長時間歩くのも苦手だ。ため息の理由が歩き疲れたってだけなら、ちょっと休みたいと笑うこともできたのだけれど。
……それでもだ。
森の雰囲気が重苦しいから進みたくないなんて、さすがにジン相手でも言えないな…。
なんてったって、これは大事な儀式の一環なのだ。せっかくジンも楽しみにしていたお祭りなのに、私の我儘に付き合わせるわけにはいかない。
だから、〈宵闇の森〉に入ってから誤魔化しきれないくらいひどくなってきた足の震えも、息苦しさも全部笑顔の裏に押し込めて、平気なふりをした。
「あーもう、ほんとに平気だってば!ほら、早く行こう!」
「あ、おい、待て!手を繋いだまま走るな!」
「走ってないもーん!」
繋いだジンの手を引っ張って、ずんずんと前へと進んでいく。
こんなんじゃダメだ。今日は特別な日なんだから、しっかりしなくちゃ!
ジンと繋いだ手をぎゅっと握り込む。小さな頃から慣れ親しんだ温もりが、今は何よりも心強く感じた。
足速に森の中を進んでいくと、薄暗い森に、不意に光が差した。陽の光さえも届かない森のトンネルが途切れ、突如として、透明にきらめきく泉が目の前に現れる。
「…!」
「ここが…。」
息を飲む。
澄んだ水をたたえた泉は、ただ静かにそこにあった。
空の青さをそのまま映し取ったような深い蒼の水面に、白い光が降り注ぐ。水面に反射した光が弾け、夜空の星のようにキラキラときらめいていた。
どこまでも透明で、美しい泉だった。
泉を守るように立つ白い木々は風もないのに葉を揺らして、私たちを拒んでいるようにも、誘っているように見えた。
綺麗だと思った。けれど同時に、言いようのない寒気を感じて、体をこわばらせる。
…ここに、いたくない。勝手に体が震えて、息苦しくて、思わず胸を手で抑える。
なんで。すごく綺麗な場所なのに…。
神聖な場所だと言われているこの場所が。…なんで、すごく、“怖い”の?
「…レン、エレン!」
ふと、自分を呼ぶ声が耳に入る。顔を上げると、血相を変えた幼なじみの、焦りが滲んだ金色と目があった。
「エレン、大丈夫か?!」
「……え、あ。」
はっと目を見開く。…まずい、気づかれた!
「いや、なんでも…。」
「顔真っ青にして何でもないわけねえだろ。どこが辛いんだ?」
真剣な目をした幼なじみが、私の肩を掴み、静かに問いかけてくる。幼なじみの金色の瞳に映り込んだ私は、自分でもぎょっとするくらいひどい顔をしていた。
…これじゃ、調子が悪いのもばれるはずだ。
幼なじみにこれ以上情けない顔を見せたくなくて、顔を俯かせる。
「……ちょっと、めまいがして。でも、ちょっと休憩すれば大丈夫だから!」
できるだけ明るい調子で、声を張り上げる。それからへらりと笑えば、大抵の人は騙されてくれるんだけれど。
さっきから私の不調を察していた幼なじみがそう簡単に誤魔化されてくれるはずもなく。鋭い目でジロリと睨まれてしまった。
「具合が悪いなら隠すんじゃねえ。無理して倒れたらどうするんだ。」
「…う。」
ジンの言葉はごもっともだ。
魔法使いは、魔法が使える代わりに身体が弱い。
これは、魔法使いが保有する魔力が原因だといわれている。
魔力とは体力と同じで、生きていれば誰でも持っている生命エネルギーの一種だ。外界の危機ーー特に、魔力によって引き起こされる現象から身を守るために備わった生まれつきの能力であり、私たちは魔力的危機に晒されると、無意識に魔力を使用しているといわれている。
つまり、魔力は生体防御機能を担うエネルギーのひとつというわけだ。
魔力は個々人が持つ魂から作られるともいわれており、その性質や特徴、保有量などは、ひとりひとり異なってくる。
そして魔法使いの場合、この魔力が必要以上に強く、保有量が多すぎるといわれている。
そのおかげで、世界の理や法則に干渉して奇跡を起こす技術ーー魔法を使えるわけなのだけれど。
同時に、強く、多すぎる魔力は、世界に満ちた誰のものでもない魔力との不和を生じやすい。
ここら辺の知識は魔法を教えてくれたお父さんにふわっと聞いただけだから、曖昧な部分もあるが。確か、魔法使いの魔力は、自然に摂取するはずの微量な魔力ですら過剰に防御してしまうと言っていたっけ。
そのせいで何かを食べたり、息をするだけでも、世界に満ちた魔力を過剰に防御してしまい、拒絶反応に似た現象が起こるらしい。
それが魔法使いの身体にとって大きな負担となり、結果として身体が弱ってしまうのだ。
私も魔法使いだから、当たり前だけれど、周りの人より強い魔力を持っている。それは魔法使いとしては良いことだけれど、同時に、他の人よりもずっと身体が弱いってことでもある。
だから私は村の他の子たちよりも体力がないし、風邪だって引きやすい。ジンの心配は杞憂ではなく、実際に起こり得ることなのだ。
「……ごめん。」
呟き、視線を落とす。
思い返せば、森に入った時から息苦しさはあったのだ。最初は微かな違和感だったそれを、森の雰囲気に圧倒されたからだと思い込んで、大丈夫だって意地張って、無理をしていた自覚はある。
きっといつもなら、こうなる前に辛いって言って家に帰っていた。
けれど、今日は。今日だけは、特別なお祭りの日だから。
「夏至のお祈り、ジンたちと一緒にしたかったの。」
我儘だってことはよくわかってる。だから無理してでも隠していたのに…。
結局隠しきれず、心配されてしまったのが情けなくて下を向いていると、前から大きなため息が聞こえた。
「……帰るぞ。」
繋いだ手が、軽く引っ張られる。顔を上げると、真剣な顔をした幼なじみと目があった。
「辛いならおぶってやる。今から休めば、お祈りする頃には少しは楽になってるだろ。」
「え?でも…!」
まだ〈宵闇の泉〉の水に触ってもいないのに。泉の方を振り返ろうとすると、また手を引っ張られた。
「泉の水は夏でも冷たいんだ。水浴びして体冷やしたせいで倒れたりなんかしたら、元も子もねえだろ。」
「それは、そうだけど…。」
「とにかく帰るぞ。ほら。」
「わ!ちょっと待って!」
有無を言わせず手を引かれ、引きずられるように歩き出す。歩くと言うより走っているのに近い速さなのに、不思議と息苦しさは感じなかった。
むしろ、久しぶりに思い切り息ができたような…。
一歩ずつ泉から離れるごとに、息苦しさが和らいでいく。
もしかして、〈宵闇の泉〉の不思議な力のせい?
〈宵闇の泉〉には、魔法を封じる力がある。私は魔法使いだから、その不思議な力が変な風に作用してしまったのかもしれない。
いつのまにか走り出していたジンに引っ張られて、〈宵闇の泉〉から逃げるように駆けていく。長い長い一本道を抜けると、やっと出口が見えてきた。
やっとここから出られる…!森へと差し込む眩しい初夏の日差しにほっと息をつく。
もう少しと鉛のような身体を奮い立たせたところで、不意に光に満ちた出口の方から、
「おーい!ジン、エレンー!」
とよく知る声が聞こえてきた。
「…デューク?」
「ああ、おはよう!ふたりとも早いな。」
森の中へと駆けてきたデュークが、明るい日差しを背ににっと笑う。
「おはよう。」
「おう、おはよう。デュークは今からか?」
「ああ。リリィとカミルの護衛を兼ねてな。」
デュークがチラリと後ろを振り返る。視線の先には私たちと同い年の、よく見知った子ふたりが並んで立っていた。
「よう、ふたりとも!良い朝だな。」
「おはよう、ジンくん、エレンちゃん。調子はどうかしら?」
カミルくんは元気いっぱいに、リリィちゃんはおっとりと手を振る。
カミルくんとリリィちゃんもまた、私たちと同じ星守村で生まれ育った幼なじみだ。ジンやデュークみたいに一緒に森を駆け回ることはないけれど、お弁当を持ち寄って一緒に食べたり、お気に入りの本を貸し借りしたりするくらいには仲が良い。
特にリリィちゃんとは本の好みが似ていて、オススメの本の感想を言い合える貴重な読書仲間だ。
そんなふたりの幼なじみに向かって、だいぶマシになったとは言えまだ微かに残る息苦しさと気怠さを隠して、にっこり笑ってみせた。
「おはよう。うん、今日も絶好調だよ!」
あえて明るく元気な声を装って答えると、隣から小さくため息をつく音が聞こえてきた。振り返ると、幼なじみの呆れを宿した金色と目がう。
「嘘つけ。まだふらついてるだろ。」
「もう大丈夫だもん。ほら!」
ジンの顔を覗き込み、ニカッと笑ってみせる。
もう息ができないくらい苦しいわけでも、動けないくらい重怠いわけでもない。嘘でもなんでもなく、本当に大丈夫なのだ。
だというのに、幼なじみたちは私本人よりもジンの言葉を信じるようで、
「エレン、また体調悪いのか?」
「あらあら、無理しちゃダメよ。」
「そうだぜ。無理してちゃ、せっかくのお祭りも楽しめないぞ。」
と、皆一様に心配の言葉を口にした。
「うぅ、本当に大丈夫なのに…!」
「前科がありすぎるんだ。この前もそう言って結局熱出してただろ。ほら、帰るぞ。」
「むぅう…!」
再びジンに手を引かれ、引きずられるように歩き出す。森を抜けると、目も眩むような明るい日差しに包まれた。
「ジン、エレンを頼んだぞ!」
森の外まで見送りに来てくれたデュークが大きく手を振る。
「エレンちゃん、また後で会いましょうね!」
「ジンもまたなー!」
入れ違いに森に入ったリリィやカミルたちにも見送られ、ジンに引っ張られる形で、私は家路につくのだった。