母
森にひっそりと隠すようにして建てられた社の薄暗い廊下を、我が子と共に連れ立って歩く。
この場には私しかいないのだが、我が子は祭壇から連れ出してから一度も口を開かず、私の半歩後ろを黙々と着いてくる。息子は始終伏せ目がちで、何を思っているのか読み取ることはできなかった。
重い扉をいくつもくぐり、社で一番奥の部屋にたどり着く。明りとりのために取り付けられた天窓以外は一切の光が届かない、地面を掘って造られた半地下室。土と埃の匂いに満ちた重苦しいその部屋は、私たち以外の人の気配を感じさせない。
老獪な巫どもも近寄ろうとしないこの薄汚い部屋こそ、私と現在の社の制度に不満を持つ者達が密かに集まる隠れ家のような部屋である。
暗いこの部屋も何度も訪れれば慣れるもので、浄化の術で多少の土埃を簡単に払い、奥にひっそりと置かれた椅子に深く腰掛ける。
「さあ、デューク。こちらにおかけ。」
近くの椅子を指して、突っ立ったままの息子を手招きする。
しかしデュークはそこに佇んだまま、静かに首を横に振った。
「…母さん、すまない。」
息子の強張った声に、はつり、目を瞬かせる。デュークは相変わらずその場に突っ立ったまま、顔を俯けていた。
「……何のことだい?」
己の問いかける声が暗く沈んだ部屋にいやに響く。普段ならば気にならない静寂がひたひたと忍び寄ってくるような嫌な感覚に襲われ、ぐっと眉を寄せる。
我が子が不意に俯けた顔を上げる。ようやっとこちらを向いた息子は、ひどく思い詰めたような顔をしていた。
「僕の目の色、もう神様の色じゃないんだろう?」
息子の言葉に、ハッと息を飲む。
…気づいていたのか。驚く僕と詰草を見て、デュークは申し訳なさそうにへにゃりと眉を下げた。
「僕はもう、母さんの跡を継げない。だから、ごめんなさい。」
そう言って目を伏せる我が子に、私は小さく首を振った。
違う、そうじゃない。私はそんなつもりで子どもを、何より大切なお前を育てていた訳じゃない。
「デューク、私は……。」
まるで叱られた小さな子どものように肩を落とす我が子に、手を伸ばす。小さく震えるその肩を、今すぐ抱きしめてやりたかった。
しかし私の手が届くより先に、デュークは私に向かって、勢いよく頭を下げた。
「我儘だとはわかっている。でも、頼みがあるんだ、母さん。」
我が子の決意に満ちた声が、部屋に凛と響く。
「僕たちを、村から追放してください!」
その言葉にぎょっと目を見開く。
村からの追放は、重罪人に課せられる最も重い罰のひとつだ。
追い出された者は二度と村の土を踏むことを許されず、村を囲む〈夕闇の森〉の外で生きなくてはならない。当然、一生涯において村の親族や友人に会うことも許されない。
家族や友人、村人同士の絆を重んじるこの〈星守の村〉から追放されるということは、生きる術を奪われるのと同然の意味を持つのだ。
「…言葉の意味を、わかって言っているのかい?」
思わずそう問いかける。
神様への叛逆は本来許されざる罪であり、それは子どもと言えども変わらない。デュークの言う通り、村からの追放あるいは死罪が妥当だろう。村の巫たちを取りまとめる長として、厳格に、公正に判断を下さなければならない。
我が子が潔く罪を認め、罰を受け入れるというのならば、その言葉をしかと聞き届け、厳罰に処するのが巫女長の役目だ。
そう、わかってはいるのだが。
それでも、どうしても、我が子を死に追いやるであろう一言を口にすることはできなかった。
息子が、ひとつ息を吐き出す。
「わかっている。…もう二度とこの村に帰ってこれないことも。」
「それなら…。」
「でも!」
息子が私の言葉を遮って声を張り上げる。やっとこちらを向いた瞳はハッとするほど美しく、強い決意を宿して輝いていた。
「ここにいたら、古い巫たちはエレンたちを神様に捧げようとする。それじゃあダメなんだ。僕は、エレンとジンを守りたい!」
その言葉は我が子の心からの願いであり、覚悟だった。
追放されてでも友を守るという、いっそ羨ましいほどに眩しい思いに目を細め、息子を眺める。
いつのまに、こんなに成長したのか。体はまだ小さくとも、その心はもう一人前と認めても良いとさえ思えた。
それに、デュークの予想は的を射ている。
長く神に仕える巫たちは、神様へと信仰こそが至上の喜びであり、人々の義務としている。神様の光ーー社では神の手と呼ばれている白銀の光を拒んだとなれば、その者を異端者としてひどく折檻した後、改めて神に捧げようとするだろう。
そうなれば最後、齢10歳を数えたばかりの子どもなど、神の手に召されるよりも先に息絶えてしまうだろう。
ひとつ息を吐き出し、静かに瞑目する。
どちらにしろ、私はこの子を手放さなければならないのだ。
……ならば、せめて。せめて、この子が少しでも生き残れるよう、道を整えてあげよう。茨の道を歩むことになるこの子の明日が、少しでも優しいものになることを願って。
巫女長として相応しくないことは重々承知ではあるが、私とて母親なのだ。我が子の明日を望むことくらいは許されるはずだ。
「…そうかい。その言葉に二言はないね?」
己を見上げる子の顔をしかと見つめる。臆することなく私を見据える我が子は、いつもよりもずっと大きく、凛々しく見えた。
あんなに小さかったあの子が、立派になったものだ。
……詰草、いいや、トリスには感謝しなければならないね。
何せ、こんな私に宝物を授けてくれただけでなく、ここまで立派に育ててくれたのだから。
息子が大きく頷く。まっすぐな青空の瞳に宿る光は、一度も揺らぐことはなかった。
「わかった。……では、神に仕える巫女の長として告ぐ。」
成長した我が子をしかと見つめ、目に焼き付ける。まだ幼いこの子を抱きしめて守ることは、もうできない。
私は、母親らしいことは何もしてあげられなかった。
それでも、この選択がこの子の明日に繋がると言うのならば、我が心を殺してでも罰を下そう。
「神に叛し罪人、デューク・ルシファー及びエレノア・アルバ、ジン・ルーキスを追放とする。以後、其方らが〈星守り〉を名乗ることを禁ずる。」
どうか、神の手が届くこの森から逃げて延びておくれ。
「はい、巫女長。」
デュークがほっとしたように笑う。大人びた表情なのに、何故かこの子が幼い頃の、大泣きする前の大きく息を吸い込んでぐっと堪えた顔と面影が重なって見えた。
思わず息子の頬へと手を伸ばす。…しかし、そのまろい頬に手が届くことはなかった。
伸ばしかけた手を握り込む。握りしめた拳は、小さく震えていた。
「さあ、お行き。二度と帰ってきてはいけないよ。」
喉の奥から込み上げる熱さを堪え、微笑んでみせる。これから飛び立つ我が子に、母が涙を見せるわけにはいかない。せめて笑顔で送り出してやりたかった。
デュークが私を見てにっと笑う。
「…うん。ありがとう、母さん!」
昔から変わらない、周りをぱっと明るくするような笑顔だった。
息子がくるりと踵を返す。部屋の外へと駆けて行くその小さな背中が見えなくなるまで、私は我が子の姿を見つめていた。
やがてデュークの賑やかな足音も遠ざかり、誰もいなくなった暗い部屋に、重苦しいほどの静寂が戻ってくる。
この場にはもう、私以外は、誰もいない。
膝から力が抜けて、ふらふらとその場に座り込む。土が剥き出しの床から冷たいものが這い上がってきて、体を支配する。
ポロリ、頬を伝う涙だけがひどく熱く感じられた。
…どうか。
ぼんやりと天井を仰ぎ、目を閉じる。
私の神様、一番星の英雄よ。どうかあの子とその友の行く末を見守ってください。
静寂が支配する暗い部屋で、私は久しぶりに声を上げて泣いた。