09 貴公子と罪
09 美化委員とプール掃除
土曜日にも拘らず学校に招集された寛人はカンカン照りの太陽を睨みながらゾンビのような足取りでグランドを進む。起きたばかりで眠気が醒めず、暑さに気力が奪われてグランドの端まで歩くのも一苦労だ。やっとの思いでプールの入り口まで辿り着き、その扉を開こうとして、自分の腕に確かな抵抗が返ってきた。
「……鍵取ってくんの忘れたな」
更衣室の扉は当たり前に施錠されている。
鍵を取りにいく必要があるが、そもそも何処の職員室に管理されているのかを寛人は知らないから誰かが来るのを待つしかない。何よりもまた広いグランドを横断して校舎まで戻るのはこの上なく億劫だった。
周囲に日陰と呼べそうな場所はなく、尻に敷いたコンクリートの階段からは焼けるような熱が臀部を通して全身に広がり、灼熱の太陽も相まって既に意識は遠退きかけていた。
気力もなしに校舎の方を眺めていると、やたらと爽やかな男の姿を発見する。
この暑さの中、その周辺だけはどういう理屈か清涼感すら漂っていた。
学園の貴公子。御白享がこちらに手を振りながら歩いてくる。
「おはよ」
「おう。こんな学校の端に何か用か?」
「えっ。聞いてない? 僕も今日プール掃除を手伝うことになったんだけど」
「……は? 聞いてないぞ」
用事もなくこんな場所に現れるのは変だと思っていたら、まさかの目的が一緒だったらしい。享は小さく笑うと「奥島先生に頼まれてね」と付け足した。
「部活は大丈夫なのか?」
「ああ。今日は顧問に用事があるみたいで休みになってね」
「休みならちゃんと休んどけ」
寛人も被害を被っている側ではあるが、委員会に関係のない享がたまの休日を潰されて駆り出されている事に少なからず罪悪感を感じてしまう。
文句は全てこの仕事を持ってきた浩二に言って欲しい。
「ははは。いいじゃないか。プール掃除ってしたことないから楽しみだよ」
「随分ポジティブな考え方だな」
「経験しておくことに損はない。それがきっと自分を成長させてくれる筈さ」
「……よしてくれ。暑苦しい」
「僕はまだまだ半人前。だから、いろんなことをしてみたい。許されるなら部活もいくつか掛け持ちしたいぐらいだ」
「すればいいだろ。駄目なのか?」
「顧問に止められててね。頼むからバトだけに専念してほしいって」
「一年の癖に期待されすぎだろ」
優秀なのも困りものだ。
「まぁ。自分のやりたいようにすればいいだろ。おまえの人生なんだし」
酷く投げやりにそう言うと、享が声を上げて笑った。
「ははは。変わらないな宍戸は」
「いきなりなんだ。おまえに語られる筋合いはない」
「いや、語らせてくれ」
はっきりとした口調で言い切る享。
抗議の視線を向けても彼はたじろぐ様子もなく、神妙な面持ちで口を開く。
「僕を助けてくれた。あの時の宍戸らしい」
「……助けた覚えはないって何回も言わせんな」
「不愛想で飄々としていて、かと思えば義理堅い。分かり辛いよ。本当に」
何度目かになる問答。寛人にとって退屈な話を享が掘り起こす。
それは入学式の日。享はただ通学している段階で上級生から芸能人顔負けのイケメンが入学してきたと囃し立てられており、その日の放課後には上級生の女子に囲まれていて、良くも悪くも目立っていた。
それに嫉妬した上級生達が度々寛人のクラスに現れては享を挑発するようになり、とにかく彼を格下扱いしようと幼稚な承認欲求を爆発させていたのが記憶に新しい。
自分よりも下だというレッテルを張りつけて周囲に拡散することで自分の立場を守りたかったのだろう。そんなことがしばらく続いていたが、今はもうその光景は何処にもなかった。それを享は寛人のおかげだと口にし、同時に謝罪する。
「本当に申し訳ないと思ってる」
「視界に入ってくるのが鬱陶しかっただけだ。おまえのためじゃない」
誰も止めに入ろうとはしなかった。相手は年上だったし、いつも何人かの仲間を引き連れていたから。関わってしまえば自分も同じ目に合うかもしれない状況で、勇気を振り絞れる人間なんてそうはいない。
寛人も勇気を振り絞った訳ではなく、ただ、それを怖いと思わなかっただけだ。
「だとしても攻撃の対象は君に移ってしまった」
享への嫌がらせは鳴りを潜めたが、寛人の雑な介入で丸く収まる筈もなく、彼らの報復が始まる。それは直接的な暴力ではなくて、悪質な噂を拡散させること。
寛人の髪の色とか、目つきとか、纏っている排他的な空気とか。他人に悪く見られがちな部分を抽出して、吹聴する。不良と仕立て上げるのに寛人程簡単な人間はいないだろう。
彼らの撒いた種は見事に発芽し、現在の寛人を取り巻く環境が作られた。
「僕は君の誤解を解きたい」
「余計なお世話だ」
享は熱心に語るが、寛人の心は冷ややかだった。
確かに陰湿なやり方で作られた状況ではあるけれど、それがあろうがなかろうが寛人の態度は変わらない。いずれこうなることは決まっていて、ただそれが早まっただけだ。他人と関わない。その考え方を譲るつもりはないのだから。
「なに話してんの?」
そんなちぐはぐな温度感に割り込んできたのは悠里だった。
右手には鍵が握られている。どこぞの職員室から拝借してきたようだ。
「鍵を待ってた」
「自分で取りにいけ」
「場所が分からん」
「分からないなら事前に聞いておくべきよね?」
「……今回は分が悪そうだな」
まぁ、鍵の在処を知っていたら知っていたで勝手に作業を始めていただろうから、どの道悠里には怒られている。
「おはよう。彩木さん。久しぶりだね」
「そうね。久しぶり」
「おまえら知り合いか?」
「ああ。中学が一緒なんだ。三年生の時は同じクラスだったんだよ」
「御白がいるとクラスの女子が騒がしくて厄介だったわ」
当時の様子を思い出したらしい悠里が辟易と項垂れている。
寛人も現在享と同じクラスなのでその光景は易々と想像できた。
「今もそうだぞ」
「ご愁傷様」
「二人とも酷くないかい?」
二人から厄介者扱いをされてちょっぴり悲しそうな顔をしている享。
彼自身も女子達の度を越した態度には敬遠していているようで、対応に喘いでいるのをよく見かける。男女関係のいざこざはそれこそ洒落にならなさそうだ。
「僕も困ってるのになぁ」
「だって、宍戸。なにか解決策は?」
まるで興味がなさそうにパスを回してくる悠里。
寛人も一切興味がないので、口が動くままに適当に答える。
「罵詈雑言を浴びせる」
「……それは解決じゃなくて、新しい火種だよね?」
「あんたも馬鹿ね。宍戸に聞くのが間違いよ」
「聞いたのはおまえだろうが」
口寂しさを紛らわせるぐらいの感覚で喋っている真剣さの欠片もない二人に相談相手を間違えたと享が大きなため息を吐く。それに気付けたのならばこれ以上の雑談は不要だ。だらだらと話しを続けていても仕事は終わらないので、寛人も重い腰を上げたのだが、悠里は何かを気にしたようにグラウンドの方を振り返る。
「あともう一人呼ばれてるはずなんだけど」
「まだ声かけてるのか。でも、もう時間的にこないんじゃないか?」
集合時間はとうに過ぎている。折角の休日だ。三十度を超える気温の中で何のメリットもない雑用だけに学校まで出向く方がどうかしている。しかも、その人物は水泳部でもなければ、美化委員でもないだろう。完全な他人事に巻き込まれているのだからサボりだろうと寛人に責めるつもりはない。
「あの人なら来ると思うけどね」
しかし、享は助っ人が誰かを知っているらしく訳知り顔を見せた。
なんでおまえが知っているんだと寛人が目を瞬かせる。
「あ。ほら、来たみたいだよ」
享の視線に促され、校舎の方を見やると全力疾走で駆けてくる人影があった。
それは見紛うこともない隣りの部屋に住む隣人だ。
「……なるほどな」
思わず言葉が洩れる。確かに彼女なら頼まれ事に二つ返事で頷きかねない。
「ごめーん!」
まだグランド半分くらいの所で絶叫している雛乃。
100メートルを超えるグランドを失速せずに走り切った彼女は肩で息をしながら必死に呼吸を整えている。
「朝から随分元気ね」
状況が呑み込めていないのは寛人ぐらいのもので、悠里は呆れたように、享は微笑ましい物を見るような顔つきで雛乃を迎え入れた。
「ごめんなさい。ご飯作ってたら時間かかちゃって」
そう言って何度も頭を下げる雛乃の腕の中には大きめのクーラーボックスが抱えられている。これを持って全速力で走っていたのだから彼女のタフネスは相当だ。
「別に良いけど。その量は一人で食べられないでしょ」
遅刻や不忠勤には厳しい悠里だが、今回雛乃は助っ人という形なのでお咎めはないらしい。遅刻したのが寛人だったらこっ酷く怒られていたことだろう。
「うん。疲れた時に皆で一緒に食べようと思って」
「え。気を遣わなくてよかったのに。朝から大変だったんじゃない?」
「大丈夫。私がどうして作っていきたくて……。あ! 遅刻してごめんなさい」
「それは別にいいわよ。巻き込んじゃって悪いわね」
「ありがとう。えっと……」
「彩木悠里よ。今日はよろしく」
「う、うん。日向雛乃です。よろしくね」
この四人の中で雛乃と悠里だけはあまり面識がないようだ。
どことなく会話がぎこちない。
「さぁ。これで全員揃ったわね。プール掃除。始めましょうか」
「はい! 頑張りますっ!」
鍵を持っている悠里が先行して階段を登り、鍵を開ける。
開け放った扉の奥には一年間熟成された陰鬱な熱気がどんよりと重たく沈んでいて、ただの一つもやる気が湧いてこない。
「はぁ……。とりあえず換気ね」
うんざりした表情で施設内に入っていく悠里の後ろに雛乃が続き、寛人も中に入ろうと階段に足をかけて、享に名前を呼ばれた。肩越しで振り返ると、さっき程まで穏やかだった表情は何処かに消えて、真剣な面持ちで寛人を見据える。
「さっきの話。僕は本気だから」
「……まだ言ってんのか。鬱陶しいぞ」
「君はきちんとした評価を受けるべきだよ」
「誰が決めてくれんだよ。それ」
「見てれば分かるよ。君は真面目で誠実な人間だ」
「はっ」
思わず鼻で笑ってしまった。
それはあまりに表層的で実際の自分とかけ離れている。
「御白。お前の人の見る目は駄目だな。もっと養った方がいい」
美化委員として仕事をサボらず真面目に取り組む姿が。人助けをしてもそれを驕らぬ立ち振る舞いが。彼の目には美徳として写った。称賛されるべき行いだと。だが、そんな善良な思考は持ち合わせていない。
寛人は正面に向き直って、階段を進む。
話は終わりだと言外に示したつもりだったが、享はそれでも食い下がる。
「どうして認めてくれないんだ」
彼が寛人を評価している理由は寛人の行動が偶然、享の利益になったから。
そこに善意があったかどうかなんて当人にしか分かりようがないのに。
お人好しの性質が都合の良いように解釈して、寛人を善人だと決めつける。
「はぁ、わかった」
誰にも伝えるつもりはなかった。だが、不快な誤解を生むくらいなら。
「御白。よく覚えとけ。俺がやってるのは全部贖罪だ」
罪の償い。罪滅ぼし。美化委員の活動も。海外への募金も。
捨て猫を拾った事でさえ、その根底にあるのは酷く薄汚れた感情だ。
かつて起こした罪を。いや、今も犯し続けている大罪を。寛人は他者への行動で紛らわしているだけに過ぎない。それは偽善にも満たないおためごかしで、それを是とすれば、全ては淀み、腐り果てていく。
「俺は、人を殴ったことがある。怒りに任せてな。まともな人間じゃないんだ」