08 美化委員の怒り
08 美化委員の怒り
期末試験は滞りなく終了した。自己採点でもそれなりの点数が期待できたので後はケアレスミスがないことを祈るばかりだ。
期末試験が終わると二週間ほどして夏休みに入る。授業もテストの返却やその解説が主になるので、一学期の過程はほとんど終了したと言っても差し支えない。
そのため教室の空気は弛緩しきっていて、夏休みは何処に行くか、何をするかの話し合いで大いに盛り上がっている。それだけ学生にとって意味のある長期休暇になる訳だが、寛人にはこれと言った予定がないので暇を持て余してしまいそうだ。
放課後になって、美化委員の活動のため噴水庭園に向かう。
ガーデンアーチを抜けて、美化委員のみ入れる準備室の鍵を開ける。
ベンチに荷物を置いて、小さな倉庫からツールラックを引っ張り出す。
土いじりをするので制服が汚れないようにスラックスを捲って軍手を履いた。
まずは雑草抜きをするために花壇の島の一つにしゃがみ込む。
少し前に蒔いた種が芽を出し始めている。それを傷つけてしまわないように気を付けながら、周りの雑草を引っこ抜いていく。
「ちょっと。いつも待ってなさいって言ってるでしょ」
しばらく無心で作業を進めていると背後から不機嫌そうな声が聞こえてきた。振り返らなくても声の主が誰で、どんな表情をしているかも予想がつくのでそのまま作業を続行する。
「なんで待ってないといけないのか分からんからな」
寛人は悠里を待っている時間が無駄だと思っているから、毎回先に作業を開始しているのだが、悠里はそれが気に食わないらしい。再三注意されているが、寛人は寛人で問題に感じていないため全く意に介していない。
「あたしの仕事が減るでしょうが」
「いつからそんな社畜になったんだ」
度がつくほどの真面目だとは思っていたが、そこまでとは知らなかった。
「誰が社畜よ」
「今自分で言ってたぞ」
「あたしの仕事が減るってことはあんたの仕事が増えるってことでしょ」
「その気遣いほんとに分かり辛いな……」
寛人にばかり過重をかけるのは申し訳ないという事なのか。だとしたら彼女の物言いは非常に難解であるため、もっと分かり易い発言を心がけて欲しい。
「仕事は早めに終わらせるに限る」
「協調性って言葉知ってる?」
「言葉はな」
「意味も理解した方がいいわよ。現国のテストは絶望的かもしれないわね」
「俺の一番得意な教科が現国なんだが」
小馬鹿にされたので何気なく言い返すと、隣で作業を始めた悠里の手が止まる。
「噓、でしょっ……!?」
「なんだその反応は」
「人との親和性が皆無のあんたが?」
「現国にコミュ力は必要のない」
「学校生活には必要だけどね」
テストの枠を飛び越えるのならば、確かに必須技能だ。
悠里から見て寛人にその能力があるようには見えないだろう。しかしながら、彼は何処にいても仏頂面をしている訳ではない。
「言っておくが、バイト先では上手くやれてるからな」
彼はバイトで自分よりも年上の人と関わっている。仕事上、接客を任されることも多いが、今のところ愛想が悪いという苦情が届いたことは一度もないのだ。
「だったら、ここでもそうしたらいいじゃない」
「学生と社会人じゃ精神構造が異なるんだよ」
悠里は簡単そうに言うが、学生と社会人では他人の受け入れ方が違うと感じる。
同調を求め、異物を排斥したがる学生の小さな社会では寛人は受け入れられ辛いけれど、広い視野で見れば髪の色が違ったところで特別可笑しなことはない。
そんな人間は世の中に溢れているのだから。
それを知らずに自分の見えている範囲だけで価値観を決めつけてしまう。
経験の浅さ故、それは仕方のないことかもしれないが、こればかりはきっかけがないと変わらない。寛人もバイトを始め、自分よりも考え方が豊かな社会人と関わる機会が増えたから知ることができたのだと思う。
「そうかもね。学校が全てだと思ってる人って多いから」
お互いの評価を顔や運動神経で決めて、それが世界の全てを構成する。
友達が多いことが正義で、孤立しないように友達が嫌いだと言った相手を自分も嫌いになって、友達が好きだといった物を好きになる。
数が多ければ多い程自分が正しい気になって、平気で他人を傷つける。
自己本位の世界。
マイノリティな人間にはあまりにも生きづらい。
そんな高校生活をまだ二年半以上残しているのだと思うと気が滅入ってしまう。
憂鬱な溜息を吐くと、悠里がそういえばと口を開いた。
「あんたが孤立してる理由ってなんだっけ?」
「いきなりどうした」
「入学早々、上級生と揉めたって話は聞いたけど、詳しいことは知らないのよね。周りから聞かされる話は明らかにおかしな話ばっかりだったし」
「……覚えてないな」
「は? 記憶力大丈夫?」
全く思いやりが感じられない大丈夫だ。
「まさか。ほんとに殴ったの?」
「手は出してねぇよ」
まさかというのはそういう噂が流れているという事なのか。
「覚えてるじゃない。本当のことを話しなさいよ」
「いい。遠慮する」
「あんたね。そうやって何も言わないから後ろめたい事があるって思われるのよ」
「別にそれで不都合ない」
頑なに口を割らない寛人に対して悠里が小さく溜息を吐いている。
「はぁ。他に何人か関わってる奴がいそうね」
「なんだそれ。どういう理屈だ」
「どうせ。誰かしら庇ってるから話せないんでしょ」
「そんなんじゃねぇ」
鋭い視線を持って、指摘してくる悠里は非常に厄介だ。このまま寛人が口を割るまで責め立ててくる恐れがあるので、話を変えるために寛人からも問いかける。
「おまえも人当たりが良さそうには見えないんだが。ちゃんと友達いるのか?」
若干の挑発も孕ませて伝えれば、いとも簡単に食い付いてくれた。
「その言い方腹立つわね。あたしにだって友達の一人や二人くらいはいるわよ」
「あぁ。なるほど。多くても二人しかいないってことか」
「殴るわよ」
言葉よりも早く肩に鈍い痛みが走る。
「殴るな。痛い」
「友達なんて一人いたら充分なのよ」
「鯖読んでるじゃねぇか……」
「うるさいっ」
悠里の自尊心を傷つけてしまったらしい。
若干涙目になっていたが、すぐに嫌味な笑みを浮かべると手元に口を当てて、ぷぷぷと分かり易く小ばかにしたように笑った。
「あ、もしかして一人も友達いないから嫉妬?」
「友達一人の奴がマウント取ってくんな。俺と一緒だおまえは」
「はぁ? ゼロと一は全然違うから。あたしが月であんたがすっぽんね」
「すっぽん舐めんな」
「どういう反論よ……。まぁ、一人の方が気が楽って言うのは分かるけど」
だけど、と悠里は続けて、
「愚痴とか言いたい時どうしてんの?」
素朴な疑問といった様子で悠里が尋ねてくる。
「誰かに聞いてもらいたい時とかあるでしょ?」
「自分の中で処理するだけだ」
「それでも我慢出来ない時よ。特にあんたは言いたい放題言われてるし」
確かに噂の中には寛人の尊厳を無視した心無い言葉も多い。けれど、本当になんてことはなかった。あの頃と比べれば。
それこそ喉が千切れるぐらいに叫んでも足りなかった。
そうして心が麻痺してしまったのかもしれない。
「少なくとも今はないな」
「……あっそ」
話しながらも作業は進み、水やりのためにホースリールを水道の蛇口に繋げていたら、随分と荒い物音発てて準備室の扉が開かれた。
「おぉ。ここにいたか」
入ってきたのは美化委員の指導を担当している掛田浩二。
中肉中背の男性で歳は四十代。
いつも微妙に口角が上がっていて常に胡散臭い雰囲気が漂っている。美化委員会の担当教師とは名ばかりで、全く様子を見に来ないから良い印象はまるでない。
「何か用ですか?」
立ち上がって浩二と向かい合う悠里。
しかめっ面の悠里は分かり易く浩二の訪問に警戒しているが、浩二はそんな様子に一切気付くことはなく、薄ら笑いを浮かべながら要件を語り始めた。
「お前らに頼みたいことがあってなぁ」
嫌な予感しかしない。
彼が作業中に現れて良い事があった試しなど一度もないのだ。
「今週の土曜日にプール掃除をしてほしいんだよ」
「はい? この学校のプールですか? 水泳の授業はなかった筈ですけど」
あと二週間で夏休みに入るこの時期に体育の授業が突然水泳に変わる訳がない。
そもそも学校説明会の時に水泳の授業はないと言っていた筈なので、掃除する必要性があるとは到底思えなかったが、浩二は何故か得意げな顔をしている。
「違う違う。使うのは水泳部だ。いつもは校外で練習をしてるらしいんだが、夏休みで利用者が増えるってんでこの時期は学校のプールを使ってるらしいんだよ」
「はぁ……。それなら水泳部の人が掃除すればいいんじゃないですか?」
水泳部が使用するのだから掃除するのだって水泳部が行うべきだろう。
至極真っ当な意見だ。しかし、浩二は何食わぬ顔であっけらかんと言い放つ。
「水泳部の連中は部活で忙しいじゃないか。おまえらは部活にも入っていないし。暇だろ?」
「……は? あたし達にも予定はありますけど?」
部活動に所属していない人間は暇を持て余している。その決めつけに悠里が底冷えする程の低い声を放つ。寛人は聞いているだけで背中が冷たくなったが、浩二はやはり気付かない。
「どうせ遊びの予定だろう。プール掃除も立派な美化委員の活動の一環だぞ」
「……」
完全に汚物を見る目をしている悠里が寛人に視線を向けてきた。
どうやらお前も何か言えという事らしい。
浩二の理不尽な理屈は理解し難く、こんな人間本当にいるんだなー、くらいの気持ちで見ていないとストレスを溜めるばかりなので出来れば関わりたくない。
「それは勿論掛田先生も手伝ってくれるんですよね」
「俺か? 俺は忙しいんだよ。三年の担任を持ってるとどうしてもなぁ」
「プール掃除なんてやった事ないんで監督がいないと俺らだけでできないですよ。それこそ水泳部の顧問の方が詳しいだろうし、俺らが出しゃばる事じゃない」
「いや。まぁ、そう言うな。久須美先生からの頼まれ事を無碍にはできんだろう」
聞き慣れない教師の名前に視線で悠里に尋ねる。
「その人が水泳部の顧問。若くて、綺麗な女の先生よ」
「あぁ。そういう……」
それを聞いて合点が行く。
何故、いきなり寛人達にプール掃除の仕事が回ってきたのか。
浩二が若い女性教諭に良いところを見せたい。それだけだ。
作業は寛人達に丸投げするつもりのようだが、手柄は浩二の物となる。
「どうしよもないわね。こいつ」
悠里が寛人にだけ聞こえる声でぼやく。
寛人も同意見だが、呆れ返って言葉がでない。
「そうだなぁ。監督は奥島先生に頼むか」
奥島真理子は美化委員会の副担当教師。
浩二とは違って、度々様子を見に来ては手入れを手伝ってくれる。三十代の女性教師だ。浩二に監督されるよりかは真理子の方が圧倒的に良いが、勝手に予定を決められていて同情してしまう。だが、今ここで寛人が指摘しても意味はなさそうだ。当人同士で話し合ってもらった方がいい。こちらが疲弊するだけだ。
聞く耳を持たないという言葉は彼にこそ相応しい言葉なのだから。
「彩木」
「なに?」
「諦めろ」
「はぁ……」
諦めの境地に立ち、あとは教師同士で決めてくれと投げて、浩二を帰らせる。
「愚痴。あるか?」
「当たり前でしょ」
それから申し訳なさそうな真理子が現れるまで悠里の不満は止まらなかった。
結局、真理子も浩二を止められなかったようで深く頭を下げられる。被害者の真理子から謝られてしまえば、納得する他なく、悠里も渋々了承している。
ただ、寛人と悠里の二人だけでは明らかに人手が足りないので、真理子の方から他に手伝ってくれそうな人を当たってくれるらしい。
子供だから倫理観が成長の途上で、理解が乏しくて他人を傷付けてしまうのだと考えていたが、それが欠けたまま大人になる場合も存在するらしい。自分が見ていた世界もまだまだ狭かったことを知り、良い勉強になったと、頭の中で納得する。
これが愚痴を言わない方法なのだが、あまりに健康的ではなくて苦笑が漏れた。