03 隣人の看病
03 隣人の看病
雛乃を自室のベッドに寝かせた後、担任の教師に雛乃が風邪で休むことと自分が彼女に食料を届けてから学校に向かうことを伝えた。担任は当然寛人と雛乃が隣人同士であるのは知っているので不審がられることはない。寧ろよろしくと頼まれたくらいだった。
生徒には距離を置かれている寛人だったが、成績や授業態度が良好なため教師からはそれなりに信用されているのだ。誤解を招きそうなので自分の部屋で彼女を寝かせていることは流石に伝えていないけれど。
コンビニに買い出しに向かうと既に一限目が始まっている時間帯であり、制服を着ていた寛人は店員から不審そうに見られたが、素知らぬふりで店内を物色する。
電子レンジで簡単にできる冷凍のうどんとスポーツドリンク、ゼリー飲料を籠に入れ、ついでに自身の昼飯用におにぎりを何個か放り込んでレジに向かう。
会計の際、レジ横の募金スペースが先週までと変わっていることに気が付いたので、店員が商品のバーコードをスキャンしている間に小銭を滑り込ませる。
エコバックを片手に自宅へ帰ると猫が目を覚ましていて、水皿を小さな舌で舐めていた。寛人の帰宅に一瞬体を固めていたが、寛人がそのまま通り過ぎて自分の部屋の前に向かうと再び喉を潤している。
「入るぞ」
ドアをノックして、自身の部屋の扉を開ける。
ほとんど寝るためだけの寝室使いなのでベッドとタンスと小さめの本棚ぐらいしか置いていない質素な部屋だが、今はそのベッドに雛乃が横になっている。
男の部屋で眠っている美少女の絵面は違和感しかなかったが、あまり意識させるのも良くないと思い口には出さなかった。
「体調は?」
「咳と鼻詰まりぐらいかなぁ。熱もちょっとだけ」
「何度だ?」
「37.1です」
「まぁ、微熱か」
熱があったら病院に連れていく必要性もあるかと考えていたが、ただの風邪なら一日安静にしていれば完治するだろう。
「食欲は?」
「んー。あんまりないかな」
「なら、今は寝てろ。そんで起きたら冷凍庫にうどん入れておくから多少無理してでもそれ食べろよ。よっぽど辛かったらゼリー飲料でもいい。飲み物は一本ここに置いとく。なくなったら冷蔵庫に同じの入ってあるから勝手に取ってくれ」
てきぱきと雛乃に指示して、買ってきた物を適当な場所に片付ける。
「体調が悪化したらそこの棚に市販の風邪薬が入ってるから飲むように」
「うん。ありがとう。何から何まですいません」
「気にしなくていい。俺は学校行くから帰ってくるまではここで安静にしとけ」
「え。今から学校行くの?」
不安そうな眼差しで見てくる雛乃。体調が優れない状態で一人にされるのは心細いのかもしれない。
「ああ。俺にはさぼれない事情があるからな」
ノートを写させてもらう友人がいないからという何とも言えない理由なので口にはしないでおくが、既に一限目が終わりそうな時間帯であるため一限目、二限目の授業内容は諦めるしかなさそうだった。
「それじゃ」
学校に向かう準備をしようと踵を返そうとして、にゃー、と仔猫が開いていた扉から顔を覗かせた。雛乃を瞳に捉えると、よちよち歩いてきてベットの横に座り、雛乃に向かってにゃーにゃー鳴き始めた。
「かわいい……。どうしたのー?」
布団の中から手を伸ばして仔猫の鼻の前に掌をかざす。
その掌に頬ずりをされてくすぐったそうに微笑む雛乃。
仔猫が彼女を心配しているようにも見えて、何とも微笑ましい光景だった。
「懐かれてんな」
明らかに寛人よりも心を開かれている。引き取ったのは寛人なのにこの扱いの差はなんだろう。やはり、目つきの問題だろうか。
「お名前どうしたの?」
「まだ決めてない」
「そうなんだ。んーどんなのがいいかなぁ。三毛猫だからミケとか……」
「安直だな」
「うぅ、それじゃもっと凝った名前を」
「頭を使うな。いいから寝てろ」
熟考し始めそうなので注意して、仮称ミケを抱き抱える。
「あー連れてかないでー」
「ここに置いてたら構ってちゃんと寝なさそうだからな」
「分かった! 寝て元気になる。それから遊ぶ!」
勢いよく布団に潜り直している雛乃だったが、一瞬硬直して、何故かまじまじと寛人を見上げた。
「あ、あの……」
「なんだ?」
「枕とか、ベッド使っていいの?」
「いいからそこに寝させてる。枕が変わると眠れないタイプか? けっこういい枕だぞ。それ」
物に頓着しないタイプの寛人だが、寝具にだけはこだわっている。
現実は非情なので夢の中ぐらいは至福の時間を味わいたい。ベッドの上に敷いているマットレスもバイト代で購入したそれなりの物だし、決して寝心地は悪くないと思う。
「そうじゃなくて……」
雛乃は何かを言い淀んでいる様子だが、寛人には見当がつかない。
彼女の様子を不審がっていると、口元を布団で隠してもごもごし始めた。
「このベッドで宍戸君はいつも寝てるんだよね」
「なに当たり前のこと言ってんだ。風邪が悪化したか?」
「うー」
「何気にしてんだ」
何か都合が悪いことでもあるのだろうか。怪訝な表情で訴えかけると耳まで赤くした雛乃が目を逸らす。
「においが……」
「……」
控えめに呟かれた声に無視はできないほどのショックを受ける。この反応は寛人が普段から使っている布団が臭いと言う事だろうか。それは即ち、寛人の体臭が臭いということに繋がってしまう。
「臭いのか……」
確認するため掛け布団の端を握り鼻先まで持ち上げた。
「え? きゃっ」
「変な声出すな」
「だ、だっていきなり捲るから」
「寝てるだけだろ」
「パジャマはあんまり見ないでほしい……」
腕で自分の身体を抱く雛乃。そういう体勢を取られる方が意識してしまう。そんなことをしなくても肌の露出なんかほとんどしていないのだから隠す必要はないと思うのだが、乙女心は難しい。
「そっちが変なこと言うからだ」
視線は下を向かないようにして、掛け布団の匂いを嗅ぐ。
これといって匂いは感じない。臭くはないと自分では思うが自身の体臭だから気にならないという可能性もある。
「なにも匂わないと思うんだが」
「え? ち、違うよ!? 宍戸君の匂いが嫌とかじゃなくて。そうじゃなくて……」
雛乃は慌てた様子で否定する。だったら、猶更彼女が何を言い淀んでいるのか分からない。
「なら何が問題なんだ。勿体ぶるな。気になるだろ」
取り除ける問題であるなら、それを対処してから学校に向かった方がいい。
これで症状が悪化するようならここに連れてきた意味がない。
「今すぐに白状しろ。さもなくば布団を剥ぐぞ」
掛け布団を握っていた手に力を込めて軽く引っ張る。
「だ、だめ」
緩慢な反応で布団にしがみつく雛乃。
これでも病人なのであまり刺激を与えるのはよくないとわかってはいるが、意味深に呟いて、はっきりモノを言わない雛乃にも非がある。察せない寛人も同罪かもしれないが。
「言います! 言うから止めてー」
「やっと言う気になったか」
「うぅ……。宍戸君のいじわる」
半泣きになった雛乃が掛け布団を自分の元に回収しながら、恨めしそうにジト目で寛人を睨む。その視線は無視して言葉を待っていると、ジト目を引っ込めて、羞恥心に顔を真っ赤にしながら蚊の鳴くような声で言った。
「だって、汗搔くかもしれないから」
「自分の匂いが気になるってことか?」
「は、はっきり言わないでっ」
どうやら寛人の匂いが気になるのではなく、自身が汗をかいて枕や布団に匂いが付いてしまった場合にそれを後から嗅がれてしまうのが雛乃にとっては非常に恥ずかしいらしい。言われてみれば分からなくはない感情だ。
「俺は気にしないが」
「私が気にするの!」
「……別に臭くないだろ?」
「い、いま臭いって言った!?」
「言ってない」
この手の話題には非常に敏感らしい。
仕方ないので解決策を用意しておくことにする。
「そんなに気になるなら帰りに消臭スプレーでも買ってくる」
「それが一番酷い仕打ちだよぉ……」
「俺が嗅がなきゃいい話じゃないのか」
人の匂いなどこれまであまり気にしたことがなかった。時折、公共の場で強烈な香水の臭いに鼻をつまみたくなることもあるが、雛乃とマンションや学校ですれ違った時にそう感じたことは一度もない。謂わば杞憂。心配のし過ぎだ。
「なんでもいいけど安静にしとけ。俺はもう学校に行くからな」
ミケを抱えてリビングに戻り、学校に向かう準備を整えてる。それから、もう一度自室を覗くと、まだ恥じらいを残して悶々としている雛乃と目が合った。
「行ってくる」
「い、行ってらっしゃい」
おかしな問答だ。
絶対に関わらないと決めていた隣人に見送られ、寛人は学校へと向かった。