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02 隣人と風邪

02 隣人と風邪   




 寛人が住むマンションの間取りは1LDK。一人暮らしには少し広すぎるくらいの空間があって、バストイレ別。室内洗濯機置き場にモニター付きインターフォン。

 オートロックが付いているためセキュリティ面も強固で、勿論ペットを飼うことだって許可されている。高校も徒歩圏内にある等、初めて一人暮らしをする寛人にとっては至れり尽くせりな条件ばかりで不自由を感じることはほとんどない。


 ここを見つけて勧めてくれたのは彼の両親なのだが、寛人は初め難色を示していた。男の一人暮らしなんて1Rや1Kで充分だと思っていたし、オートロックも必要ないと提案していた。充分な設備が整えばそれだけ家賃も高くなってしまう。

 家賃の支払いは自分ではなく両親に頼ることになるので少しでも負担を減らしたかったのだが、親元を離れ、地元からは遠い地で一人きりで暮らすのだから、きちんとしたセキュリティの所に住んで自分たちを安心させてほしいと頼まれてしまえば寛人が折れる他なかった。


 高校入学後すぐにバイトを始めたけれど、それでも家賃や光熱費、食費などをバイト代だけで賄うことは難しく、両親からの仕送りがなければ生きていけない。

 自分はまだ守られた未熟な子供なのだと痛感する。


 しかし、自分にも何かできないかと始めたバイトがまた別の役に立ったのは勿怪の幸いだった。バイトで得た給料はほとんど貯金していたが、その貯えがなければきっと捨て猫を自分で育てるという判断はすぐにはできなかったと思う。 


 ただでさえ無理を言って一人暮らしをさせてもらっているので仕送りを増やして貰うのは躊躇われる。数か月分のバイト代があったからこそ金銭面での不安を拭うことができ、決心がついたのだ。


「これで大丈夫だよな」


 学校に向かう前にもう一度部屋の中をを確認する。昨日、一晩かけて部屋の物を片付けた。元々、掃除は小まめにしているので散らかってはいなかったのだが、これから幼い猫と住むのならもっと細かな注意が必要になってくる。

 誤飲しないように風邪薬等は手の届かないところに置き、棚の上に貯めていたビニール袋も一まとめにして引き出しの奥に片付け、テレビや冷蔵庫の電気配線もじゃれついてしまわないように家具の後ろに隠して、コードカバーを取り付けた。


 仔猫の正確な年齢はわからないが、生後一、二か月といったところだろうか。今はまだ寛人に緊張しているようで昨日、猫道具の一つとして買ってきたペット用のキャリーバッグの中で大人しく蹲っている。

 今のところ動き回って怪我をする心配はなさそうだが、出来ることは早めにやっておいて損はない。


 フローリングのリビングに二ヶ所猫用のトイレスペースを作り、水飲み皿と餌皿も準備して、寛人が学校で家を空けている間にお腹を空かせてしまうことがないようご飯を多めによそっておく。


「そうか。今日バイトだったな」


 昨日、買い出しや掃除で立て込んでいて忘れていたが、シフト表を確認すると今日は十七時からバイトが入っている。いつもだったら学校から直接バイト先に向かうのだが、今日は一度家に帰ってきた方がよさそうだ。


 バイト先も自宅からそう離れてはいないため遅刻の心配はない。しかし、学校では八時間ほど拘束されて、その後、四時間のバイトが続く。

 飼い始めたての幼い子猫をそれだけの時間放置していて大丈夫だろうか。少し不安になってきた。寛人にはそういったノウハウが皆無なのだ。


「バイト休むか。けど、当日に連絡するのは流石にな・・・」


 それほど人手不足で呻いている職場ではないが、当日休むのは他のバイトの面々にも迷惑がかかるし、信用が欠けてしまうのは避けたい。仕事も覚えて、今のバイトはトラブルも少ないため気に入っていた。


 だったら、いっそ学校を休んでしまおうかとも考えたが、両親の顔がチラついて踏み止まる。それに寛人には友達がいないのできちんと授業を受けないと板書をノートに写すことができない。そうなるとどちらも休むことはできなさそうだ。

 

 一度、キャリーバックの中を覗くと、奥の方で丸くなって寝ている姿がある。


「名前も考えないとな」


 昨晩いろいろ考えていたのだが、結局決まらず仕舞いだ。


 頭を軽く撫でてエナメルバックを肩にかける。

 玄関でスニーカーを履いて外へ出た。


 戸締りをして、エレベーターホールに向かって歩き出そうと体の向きを変えたところで、ガチャ、と隣の部屋の住人が出てきた。


 角部屋に住んでいる寛人の隣には日向家が住んでいる。寛人はいつも遅刻ギリギリで登校するのであまり朝一緒のタイミングになることは少ないのだが、珍しくタイミングが被ったようだ。寝坊でもしたのかと一瞥すると、玄関から出てきた雛乃はおかしな格好をしていた。


 恐らくパジャマの上に制服を着ている。しかも、制服のボタンは掛け違えられていて、ボタンの隙間からミントグリーンの部屋着が見えているし、ひざ丈のスカートの裾からは同色のルームパンツが伸びていた。

 普段は校則通り真面目に着こなしている制服姿が今は乱れに乱れている。


「あ、宍戸君……。おはよう」


 寛人に気付いた雛乃がぺこりと頭を下げる。

 相変わらず礼儀正しいが、もっと他のことに注意を向けて欲しい。


「なにしてる?」

「へぇ?」

「……自覚ないのか」


 可愛らしく小首を傾げている雛乃。寝惚けているのか大きな瞳も完全には開かれておらず、寝起きのような状態だ。

 自覚がないようなので分かりやすくスカートの下を指さしてやると、雛乃はそれを目で追って、パチパチと目を瞬かせた。


「寝坊したのかどうか知らんが、それはない」

「え、え? あれ?」


 動揺している雛乃は恥ずかしさに顔を赤くしながら持っていた学校指定のブラウンの手提げ鞄で足元を隠している。その姿は普段折り目正しい姿からのギャップで、大変微笑ましく、クラスの男子が見れば喜んだに違いない。寛人は間抜けだなくらいの感想しか浮かばなかったが。


「その格好で学校行くのは止めとけ。祭りになるぞ」

「祭りってなに!? で、でも、そうだね。あれー、おかしいなー」


 そう言って、雛乃は自宅に着替えに戻ろうとしたのだろう。しかし、振り返ろうとしたところで足がもつれて廊下に尻餅をつく。


「……痛い」

「ほんとになにしてる」


 明らかに反応が鈍い。彼女は運動神経もよかった筈だが、受け身も取らずにどこか上の空といった感じで尻餅をついたまま座り込んでしまった。

 しばらく待っても動かない。仕方ないので手を差し伸べる。


「通路を塞ぐな」

「ごめん」


 弱弱しい力で握り返してくる雛乃。引っ張り上げて無理やり立たせる。

 どうにもこの様子は寝惚けている訳ではなさそうだ。


「まさか。体調崩したか?」

「なんだかボーとする」

「おい。昨日ちゃんと風呂には入ったんだろうな」

「入ったけど……。クラスの子から電話がきて。あんまり温まらなかったかも?」

「……風邪だろうな」


 昨日の夕立を思い出しながら、自己管理のなっていない彼女の行動に心底呆れて溜息を漏らす。


「昨日の雨で体温奪われて血行やら免疫やらが低下してるのに風呂で碌に身体を温めずに、しかも、その様子だと友達との電話を優先して髪乾かすのも適当に済ませただろ」

「うぅ……。その通りです」

「自業自得だ」

「はい。反省してます……」


 寛人の正論に反論する余地もなく身を小さくして縮こまっていく。


「馬鹿なのか? 学力テストは一位だって聞いてたんだが」


 それでも追い打ちをかける寛人のスパルタ指導に流石に耳が痛くなってきたのか、雛乃が両手の人差し指を突き合わせながら控えめな抵抗を返してきた。


「だって、すぐに返信返さないと縁を切られるって聞いたから」

「仕事の取引でもそんなにシビアじゃない。その電話で何話してんだ」

「友達の彼氏の惚気とか愚痴とか」

「・・・死ぬ程どうでもいい」


 女子社会の陰気な面を見せられて朝から心底嫌気が差す。何処にいても聞く話だが、改めてこの世の中は世知辛い。目の前の学校一可愛いと言われている彼女ですら、些細な友人関係で悩んでいるのだから。

 本当に学校という箱庭は多数派が優位に立つコミュニティなのだと痛感する。


 美人で成績優秀で運動もできる。彼女は間違いなく天才で、敬われるべき人間なのに、愛想がなければ可愛げがないとか、自身の能力を自慢すれば調子に乗っているだとか、謂れのない悪口を吐き捨てられるのだ。


 ありのままは認められない。

 天才でも価値観を周囲に合わせなければ友達もできない理不尽な世界だ。


 そんな世界で希薄な関係を結ぶことにどれだけの価値があるのだろう。


「とにかく、今日は学校は休め。そんな状態じゃ通学中に事故起こすぞ」

「でも、昨日見たドラマの感想言わなきゃ。じゃないと、みんないなくなっちゃう……」


 そうしなければ友達でいられない。顔色を窺って。趣味を合わせて。笑顔を作って。自分を騙して、そして、心をすり減らす。それで得られる物に執着する意味は本当にあるのだろうか。


 別に人の交友関係の仕方に口を出すつもりはない。けれど、彼女を見ていると心がささくれ立つ。嫌なことを思い出してしまう。


「そんな無理して周りに合わせて何が楽しいんだよ」


 それを追い出したくて吐き捨てた。


「そう、だね……。宍戸君は強いからわかんないかも。でも、それじゃ、どうするのが正解なんだろう……」


 悲哀に満ちた表情。それ以上踏み込む事を躊躇わせる彼女の雰囲気に言葉が悪かったことを自覚する。寛人と雛乃ではまるで生き方が違う。一方的に押し付けるのはただ傲慢だ。


「……悪い。俺には関係ないことだったな」

「ううん。私こそ変なこと言ってごめんなさい。今日は休むね」

「家には誰かいるのか?」

「いないよ。ずっと」


 ずっと。それはどういう意味だろう。ドアノブに手をかけた雛乃の表情は寛人からでは窺えない。考えてもきっと答えには辿り着けないから止めた。

 寛人はただの隣人。理解できないのは必定で知る必要はない。


「宍戸君も急がないと遅刻しちゃうよ。ほら、急いで」


 体調不良を自覚したからか、雛乃は先ほどまでよりも辛そうだ。立っているのもやっとといった様子の雛乃が無理矢理笑顔を作って、寛人を見送ろうとする。

 その笑顔が嫌いだ。見ていて心が締め付けられるから。


「……うちで寝てろ」


 言葉にするにはいくつかの逡巡が必要だった。


「え?」 


 雛乃と関わるつもりがないのは変わらないが、ここで見過ごすことは昨日の焼き回しでしかない。しかし、男の一人暮らしの部屋に女子を招く提案は不適切ではないだろうか。彼女が嫌がって拒絶すればただのお節介。下心があると思われたら覚悟した言葉も馬鹿らしい。

 

 雛乃も何を言われたのか分かっていなくてポカンとしている。沈黙が続くと流石に気まずくて、はいでもいいえでもさっさと返事をして欲しかったのだが、思考が停止してしまったようで狭い通路で身じろぎすらしない男女が二人。


 雛乃が喋らないなら寛人が口を開くしかない。ただ、寛人も咄嗟に出た言葉をもっともらしい言葉で補完することはできそうになかった。


「丁度、あの猫を一匹残して家を空けるのは不安だったからな。病人になにを期待する訳でもないけど、誰もいないよりはあいつも安心するだろ。あくまで猫のため。そういうことだ」

「……猫のため」

「そうだ。あとは、まぁ……。親から近所付き合いはちゃんとするように言われてる。その一環だ」


 近所付き合いなど碌にしていないのに思わず口走ってしまった。

 言う必要のない事だったかもしれない。


「近所付き合い」


 雛乃は何故かその言葉をピックアップして何度か口元で繰り返している。

 それから顔を上げた表情は少し不安そうで、上目遣いに寛人を見上げてきた。


「迷惑じゃない?」

「別に大したことはしない。飯準備して、水分買ってきて。まぁ、それでいいか」

「ひぇー。充分すぎるよぉ」

「いいから。さっさとついてこい」

「お、お邪魔します」


 雛乃は少し恐縮した様子で縮こまりながら寛人の後ろをついてくる。

 昔はよく体調を崩しがちだった妹の世話をしていたことを思い出して、雛乃に気付かれないようにほんの一瞬だけ、唇を嚙んだ。





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