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13 隣人と約束

13 隣人と約束




 夏休み前最後の一週間が始まり、続々とテストの返却が始まると、学校内に混乱が広がり始めた。混乱の渦中にいるのは全ての答案用紙を白紙で提出した雛乃だ。

 学校の話題は彼女に集中されており、どうして優等生として認識されていた雛乃がこんなことをしでかしたのかと、推測する話題で持ちきりだった。


 普段であれば雛乃の周辺は多くの取り巻きがいるのにこの一週間の間で彼女に近付く者はめっきり少なくなっている。雛乃が座っている座席の周辺はがらんとした寂寥感が漂っており、クラスメイトや同級生はその様子を遠巻きに窺うだけで、触れてはいけない物のように彼女を扱っていた。


 声をかけているクラスメイトもいるにはいたが、0点のテスト用紙を返却されても眉一つ動かさず、全くのいつも通りの調子で対応する彼女は不気味だった。


 彼女は今、得体の知れない空気感を纏っている。


 分かりやすい筋書きがあれば周囲の人間も彼女の行動に理解を示すことができただろう。髪の毛を染めて、スカートを短くして、学校をサボる。そんな分かりやすい行動だったなら、非行と一言で片づけることができた。けれど、彼女に目に見えた変化はなくて、不可解な行動だけを起こしている。


 その事情が雛乃の口から語られるようなことは一度もなかった。


 掲示板に張り出された順位表にも当然彼女の名前はない。

 寛人の順位は二十二位。前回よりも一つ順位が上がっているけれど、雛乃がテストを放棄したことによって上がったそれに価値は感じられなかった。


 異変を残したまま日々は進み、退屈な終業式を終えて、夏休みが始まる。


 寛人は学校を出たその足でバイトに向かって普段通り業務を熟したが、意識が散漫になっていたようで普段は起こさないミスを重ねてしまう。


 日が完全に暮れた頃に帰宅し、自身が暮らしているマンションを見上げると、雛乃の部屋に明かりは点いていなかった。いつもだったら彼女は今ぐらいの時間から晩御飯の準備をしている筈だ。眠るにはまだ少し早い。


 エレベータで四階まで上がり、廊下に出て自分の部屋に向かう。途中、雛乃の部屋の前を通ったが、物言わぬ扉が彼女の様子を伝えてくれることはなかった。


 自宅に入り、風呂場でシャワーを浴びる。

 汗と共に、余計な思考を排水口に洗い流す。


 彼女との関係。自分の立ち位置。

 今まで取ってきた態度。過ちを犯した過去。


 考えることが多すぎると思考が、身体が鈍るから。

 今はただ、排水口へと流してしまう。


 何をしたらいいかも知らないが。何かをしないと後悔が残る。

 今日の一針、明日の十針。

 きっと、行動しなければいけないのは今だった。


 風呂から出て、適当に服を着替る。

 スマホを手に取って、最近登録した彼女の連絡先に電話をかけた。

 一回、二回と呼び出しのコールが鳴っても彼女は通話に出ない。

 出鼻をくじかれたようなじれったさがあって、寛人は焦燥感を落ち着かせるためにソファーに腰を下ろす。


 隣の明かりが点いていなかったのは何処かへ出かけているからなのか。

 電話に出れない状況を幾つか考えて、丁度十コール目で通話を切ろうとしたタイミングで、通話に切り替わる機械音が鳴った。


「もしもし」


 雛乃の声が電話越しに聞こえてくる。その声は少し鼻にかかった声色だった。


「今大丈夫か? 話があるんだが」


 電話越しに周囲の喧騒は聞こえてこない。

 静寂の中、彼女の声が鮮明に聞こえてくるだけだ。

 それで、彼女は隣の部屋にいるのだろうなと確信めいたものを感じた。


「う、うん。どうしたの? 宍戸君から電話がかかってくるなんて驚いたよ」

「だろうな。俺も使うことなんてないと思ってた」

「うん……。あっ!? もしかして今日の分を取り立てるために!?」

「俺を借金取りみたいに言うな。俺から催促したことは一度もない」


 いつもだったら玄関先でするようなくだらないやりとりを電話越しに行う。

 まるで、何も変わっていないみたいだけれど、それはあまりにも鈍感が過ぎる。


「えへへ。冗談だよ。でも、今日はちょっと用意できないかもしれない、かな」

「それは構わないが……。なにかあったのか?」


 自分で言いながら馬鹿みたいな質問だと思う。

 彼女の様子がおかしいことは明白なのに、それに気付かぬ振りをして、話を聞き出そうとしているのだから。


「んー。体調が優れないと言いますか。なんと言いますか」


 しかし、やはり雛乃は歯切れ悪く言葉を濁すだけで想いを晒そうとはしない。

 寛人は冗談っぽくなるよう口調に気を付けながら返事を返す。


「心配だ。家に来い」

「へ?」


 言葉が直接的過ぎたせいか、雛乃が素っ頓狂な声をあげていた。


「……最近。宍戸君の様子がおかしい」

「誰が言ってんだ」

「私?」

「全校生徒があんたのことおかしいと思ってるよ」

「……宍戸君も?」

「ああ。全部のテスト無回答で提出する頭のおかしな奴だと思ってる」

「ひどい」


 お決まりの彼女のセリフ。けれど、今日は悲しみの色が滲み出している。


「仕方ないだろ。事情を知らないんだから」

「え?」

「知ったら変わるかもしれないな」


 沈黙の帳が降りる。

 耳鳴りがするような静寂の後、雛乃のか細い声が耳に届いた。


「聞いてくれるの?」

「まぁ、暇だからな」

「全然面白くない、つまんない話だよ?」

「それでいい。笑わしてくれなんて頼んじゃいないしな」

「そっか……。宍戸君がそう言ってくれるなら。いいのかな」


 そうして雛乃は自身の身の内を訥々と語り始める。


「私がね。テストをきちんと受けなかったのは、父に気に掛けて欲しかったから。今まで真面目だった娘が不良になったら電話の一つでもくれるかなと思って」


 その口振りから父親とは一緒に暮らしてはいないようだ。

 寛人自身、隣りで暮らしていても雛乃の父親を見たことはなかった。

 今までの彼女の生活を鑑みて一人暮らしをしていることはある程度推察できたていたが、そうなると、彼女の父親は娘を一人置いて何をしているのか。


「父は仕事で海外にいるの。最後に顔を見たのは……。覚えてないや」


 その言葉だけで、彼女達の関係性があまり良好ではないと窺えてしまう。


「たった一人の肉親なのにね」

「母親は」


 真理子から聞いた話を口にしようとして、それに被せるように雛乃が口を開く。


「亡くなったよ。心の病気に罹って。自殺じゃないかって。突然、車の前に飛び出したんだって。その時は信じられなかったけど、今はそうだったのかなって思う」


 真理子から母親が亡くなった詳細については聞かされていなかった。

 あまりにも重たいその事実に携帯を握る手に力が籠る。

 彼女にどれ程の喪失感があったかなど、到底推し量ることはできない。


「悪い。無遠慮だった」

「ううん。大丈夫」


 口調が普段通りなのは、自分の中で整理できていることだからか。

 彼女は今どんな表情をしているだろう。


「いつもママは父と電話で喧嘩ばかりしてた。私の進路のことで対立して。父は私を優秀に育てたがって中学受験とか習い事をさせて、周りへの体裁とか、スキルアップさせることばっかりに拘ってた」


 家庭内の不和。

 子育てに関して両親が衝突することはよくありそうな話だ。


「ママは自由に生きなさいって言ってくれたけど。私は二人が喧嘩してる方が嫌で、父の言う事を全部聞けば二人は喧嘩しなくなるんじゃないかなって思ったの」


 ただ、彼女の家庭では父親が絶対の権利を持っていて、衝突と言うには及ばない一方的な主義主張が行われていたのだと思う。


「父の言いつけを守って。沢山勉強して。部活も頑張った。でも、きっとママはそれが嫌で。私がママのことを追い詰めたんだろうな」


 彼女の努力は全て母親を守るため。しかし、親子の心は通じ合わなかった。

 母親の理想と違う道を選んだ理由は、決して父親に添いたかった訳ではない。けれど、母親にはそのように見えてしまったのかもしれない。


「ママ、泣いてたから。怒鳴られたり、傷付くことがなくなればいいなって思ってただけなのにな」


 雛乃の生気のない乾いた息遣い。

 張り詰めたような刺々しさは自分を傷つけるための刃だろう。


「親父さんは、それで、どうしたんだ?」

「どうもしないよ。葬式にも、来なかったもん」

「……そんなのは許されないだろ」


 それはあまりに薄情で、道徳心が欠如している。

 自分の妻が亡くなって、一人になった娘にかける言葉もないなんて、そんなことがあるのだろうか。父親ならばどんな理由があっても駆けつけなければいけない筈だ。その責任が取れないならば父親になるなんてなるべきではなかった。


「酷いよね。仕事で帰れないって、それだけ電話して。おしまい。親戚付き合いも悪かったから私は誰にも引き取ってもらえなくて。一人になってた。そしたら知らない間にこの部屋が借りられてて、ここで暮らすようになったけど。それからは一度も。何も。言われない。あれだけ私の進路に口煩くしてたのに」


 雛乃の父親の気持ちは分からない。分かりたくもない。しかし、彼女の行動もまたおかしな点がある。


「今までの口振りだとあんたは父親を煩わしく思ってるんだよな」

「うん。そうだね。世界で一番嫌いな人」


 はっきりとそう口にする。

 世界で一番嫌い。だが、彼女は父親からの連絡を求めた。


「なら、なんで」

「でもね」


 二人の声が重なった。彼女の声を聞き逃さないように寛人は押し黙る。

 雛乃はきっと思考の深みに囚われていて、何も聞こえていなかった。

 誰が遮ることもできず、取り憑かれたみたいに虚ろな口調が言葉を紡ぐ。


「独りは寂しくて」


 悲痛な声は小さく、消え入りそうなのに、まるで悲鳴のようだった。

 それが携帯を介した至近距離でダイレクトに脳みそに響く。


「友達作りが下手で。いつも顔色ばっかり窺って。無理に合わせて。私を私だって認めてくれる人は誰もいなくて。恐くて。どうすれば上手くいくのか分かんない」


 だって、と彼女は続ける。


「私はママさえいてくれればそれだけでよかったんだもん」


 だから、彼女は今まで頑張ってこれた。

 勉強も運動も習い事も、愛する人がいたから努力することができた。

 嫉妬や陰口も、傍にいて抱きしめてくれる人がいたから耐えられた。

 でも、最愛の母親はもうこの世にいない。


「急にいなくならないでよぉ……」


 上擦ったその声に締め付けられる想いがあった。


「私、どうしたらいいのかな」


 彼女のこれから歩む道のりに温かな灯火も冷淡な道標もなくなってしまった。

 深くて昏い暗闇に雛乃はたった一人。

 寄る辺がなければ立ち上がることもできず、道の途中で蹲っている。


「自分のしたいことをすればいい。あんたの母親が言ってたように」


 でも、決められた道などなくていい。灯りは自分で持てばいい。

 それが、自分の人生を歩むということだ。母親が願った雛乃の人生を。


 これから長い時間を生きていく。生きていかなければならない。

 亡くなった母親のためにも。自分自身のためにも。

 二人分の幸せを手に入れるために彼女は生きていけばいい


「自由に生きていいんだ」


 彼女の母親が願った夢を。叶えよう。


「わからないよ。自由なんて曖昧な言葉じゃ。私には何にもない。何もできない」

「何にも持ってない人間なんていないだろ。自分じゃ気付けないだけだ」

「ミケだって私じゃ救えなかった! 父に迷惑が掛かって本当に捨てられるんじゃないかって恐くて。何もできなかった」

「ミケがあんたに懐いてるのはあんたに救われたからだろ」

「違うよ。私は弱くて。卑怯な人間なんだ」

「それでいい。弱いから人の痛みが分かるんだ」


 一人では歩けなくなってしまっても、ここにいるのは彼女だけではないから。

 力を分け合って、歩いていける筈だ。その役割を自分が担うと決めた。


「日向雛乃」


 彼女の名前を呼ぶ。

 天才でも、鬼才でもない。

 ただ、母親が好きだった頑張り屋の少女の名前を。


 感情の奔流を鎮めて、伝えたい言葉をきちんと届ける。


「これから見つけよう。日向のしたいことを。一緒に」

「……宍戸君と一緒に?」


 聞こえてきた声は不安そうで、彼女の心を晴らすにはまだ足りない。ならば、夜が明けるまで言葉を尽くそう。出来うる限りの希望の言葉を沢山紡ごう。


「ああ。賑やかな方が寂しくないさ。まぁ、おれは口数の多い方ではないけどな。その分、日向が喋ってくれた言葉をちゃんと聞くから」


 今度は彼女の異変を見逃さないように。

 目も耳も凝らしていく。


「でも、宍戸君は言ったでしょ。私たちはただのお隣さん、だって」

「そうだな。俺たちはただの隣人だ。友達でもなければ恋人でも、家族でもない」


 それは他人のような立ち位置だけれど。


「それでも俺が一番日向の近くにいる」


 壁を隔てた一枚向こう側に彼女がいる。

 壁に手を当て、その先にいる筈の彼女に電話越しでなくても伝わるように声を張って、想いを宣言した。


「その気になれば十秒で駆けつける。日向だけの隣人だ」


 それ以上も以下も二人には必要ない。

 助けを求める隣人だから、手を差し伸べる。それだけだ。


「いつか、いなくなったりしない?」

「……俺が言ったこと。覚えてるか?」

「なに?」


 覚悟は既に決めている。


「関わるなら、最後まで責任を持つ。中途半端に投げ出したりなんかしない」


 失う怖さを知った彼女の心に楔を刺す。

 そうしたらまた立ち上がれると信じて。


「まだ不安か?」

「……ううん」

「一人にはしない。一人でいるのが嫌な時は勝手に隣りにくればいい」

「うん。うん……っ」


 世の中には取り返しのつかないことがあって、それはちょっとした判断の誤りで起こってしまう。失ってからでは遅いのだと寛人は今一度肝に銘じた。





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