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12 隣人とスタミナ料理

12 隣人とスタミナ料理




 プール掃除を終えて自宅に帰ってきた寛人はリビングのソファーに寝転がり、無為に天井を眺めていた。そこには照明しか存在しておらず、明かりもつけていない今は薄暗い闇が広がっているだけでしかない。


 いつの間にか日が傾いている。

 家に帰ってきてから随分と時間が経っていたみたいだ。 


 時間も忘れて呆けてしまったのは、単純にプール掃除で体力の限界だったからというのが一つの理由だ。炎天下の中、何時間も直射日光を浴び続けていれば、それだけで相当な体力を消耗してしまう。 


 寛人の場合は軽い熱中症の症状も出ていたので、身体を休めるという意味ではこの時間も無意味ではなかったかもしれない。ただ、どれだけ体が疲れていても眠れなかったのは真理子に言われたことが頭にこびり付いて離れなかったから。


 母親が亡くなっている。


 それは寛人の知らない彼女の事情だった。

 同級生の噂話に耳を傾けていても、その話が語られていた事はなかったと思う。

 彼らは知っていて口を噤んでいるのだろうか。ただ、そうではない気がした。


 多感な時期の高校生にそんな歯止めは出来やしない。表立っては言いはしなくても当人のいない所で好奇心や興味本位に任せて囃し立てるのだ。

 

 寛人の考えが正しいのだとすれば、雛乃の母親が亡くなっていることをクラスメイト達は知らない。彼女はここではない場所で母親を亡くし、ここに引っ越した。


「俺と一緒だな」


 自身の境遇と重ね、独り言ちる。寛人の場合は逃げたと言っていい。

 耐えられなかった現実から目を背けて、見なくて済む遠い地点にたった一人で。

 彼女も同じだろうか。


 みゃー、とミケが鳴いて、現実に引き戻される。

 気付くといつもご飯をあげる時間を過ぎていた。

 腹を空かしたと催促しているのだろう。


「わかったわかった」


 ソファーの横で鳴いているミケの頭を撫でて、身体を起こす。

 照明を点ければ質素な部屋が照らし出され、一人暮らしの物寂しい空気感が滞っていた。


「俺の飯はどうするか」


 ミケのご飯を用意してやりながら、自身の夕飯について考える。

 買い出しもせず帰ってきたので冷蔵庫の中には何もない。冷凍食品も切らしてしまっていた。一食抜いて平気なほど寛人の胃袋は小さくない。

 本来、自身で何かを用意しなければいけないのだが、


「今日もなんか持ってくんのかな……」


 恒例になってしまった雛乃のお裾分けが脳裏を過る。

 明らかに意図的に作っている料理を彼女がお裾分けだと言い張り、強く注意もできないままなし崩しに続いてしまっているこの関係。いい加減この関係についても考えなければいけないけれど、美味い晩飯に期待している自分がいるのも確かだ。


「はぁ……。情けねぇ」


 考えることが多くて、纏まらない思考に首筋を掻く。

 そのタイミングを見計らったように部屋のチャイムが鳴った。


「こんばんはー」


 訪問してきたのは、何の変哲もなく雛乃である。

 彼女もプール掃除で疲れている筈だが、相も変わらず愛想の良い笑みを浮かべていて、普段通り折り目正しい。


「こんばんは……。それ、どうした?」


 扉を開けて直ぐに寛人の視線は一点に集中した。

 日頃からお裾分けにしては確実に多い量を持ってくるのだが、今日の分は今までの比にならない。雛乃が持っているのは楕円形の皿で、その皿の上には薄切りの豚肉が生の状態で並べられている。


「作り過ぎちゃってのでお裾分けを」

「何の手も加えてねぇだろ」


 どう見てもスーパーで売られていた時の状態から皿に移されただけだ。


「えっと、じゃ、買い過ぎちゃったのでお裾分けを」

「買い過ぎでお裾分けするな。あと、じゃって言うな」


 最早、体裁が無くなってきている。

 

「明日の自分用とかに置いておけばいいだろ」

「で、でも、ちゃんとつけダレも作ったから」

「……そんなことは聞いてない」


 皿の下に隠れていたスフレカップを見せてくる雛乃。

 その中に入っているゴマダレ風のつけダレを見て、雛乃が差し出した豚肉がしゃぶしゃぶの具材だったことを理解した。

 

「こんなの丸々一食分だ」

「どうぞ遠慮せずに!」


 ぐいぐいとそれだけで満腹になりそうな皿を押しつけてくる。

 これがお裾分けだとは絶対に言えないが、彼女は強い意志で全く退かない。


「夏バテに効く食べ物を選んでるから!」


 その気遣いはきっと寛人が熱中症を起こしたからだろう。

 もう平気なのに、彼女は随分と心配性だ。


「……そう言えば今日は昼間もご馳走になったな」

「え?」

 

 昼食も雛乃の手製の物を食べ、夕飯も彼女に準備されている。

 今日の借りはかなり大きい。


「今日の分は返せる宛がない」


 買い出しもしていないため冷蔵庫の中身は空っぽだ。

 普段彼女にお返しとして渡しているお菓子も今は品切れ中だった。


「き、気にしないで! いつも私が勝手にしてることなのに……。宍戸君はお返しとかしてくれて。申し訳ないなって」


 雛乃は大きく首を横に振って、表情を曇らせる。

 そんな顔をさせたい訳じゃない。


 何も考えずに雛乃から与えられるものを享受し続ければいいのだろうか。

 そうしたら彼女はいつだって笑顔でいられるんだろうか。


 例えそうだとしても。そんな形を寛人は許容できない。


「晩飯。あんたも同じ物だろ?」

「え? うん。そうだよ」

「……うちで食ってくか。そしたら何かしら浮くだろ。洗い物とか、光熱費とか」


 矛盾だ。一度は気安く異性の家に上がるなと言っておきながら、今は自ら彼女を自宅へ招こうとしている。自分の発言が貫けないこと程情けないことはない。

 

 洗い物の手間や光熱費云々なんて微々たるもので全く釣り合ってなどいない。

 こんなのは彼女を家に上げさせる口実に過ぎない。別に仲良くしたいとか、剰え、それ以上を期待している訳ではないのに。何故、自分はこんな提案をしてしまっているのか。


 彼女を見ていると真理子の言葉が何度も頭の中を反響する。


「本当にいいの?」

「いいから言ってる。久しぶりにミケにでも顔を見せてやってくれ」


 窺うように揺れている雛乃の双眸。それを真っ直ぐに受け止めることが出来なくて、言い訳みたいにミケの名前を出した。


「うん!」

「だから、まぁ、自分の飯も持ってこい」


 雛乃から荷物を受け取って、そう促す。

 自宅に向かっていく彼女の後姿は喜びで溢れているように、そう見える。




 豚肉を湯通しするために鍋を沸かしている間、雛乃は久しぶりにミケと戯れていた。ぎゅっと胸に抱きしめて、仲睦まじそうに頬を擦り合わせている。


「ミケー。久しぶりだねー」


 ミケも雛乃に応えるように頬を舌で舐めていた。


「やっぱり、俺より懐かれてるな」

「えへへ。そうなのかなぁ。それにしても大きくなったね」

「ミケを拾って一か月ぐらいか。確かにでかくなったかもな」


 少なくとも拾った当時の痩せこけていた面影はない。必要以上にご飯を与えないように気をつけているので、太って丸くなったというよりかは健康的に発育したといった感じだ。

 

「もう一か月になるんだ。時間が経つのは早いねぇ」


 雛乃が年寄りみたいな事を言う。一か月とは雛乃と話すようになってからの時間でもあるので、もうそれだけの時間が経っていた事に驚きはあった。

 

「今月はそんなに行事もなかったからな」


 強いて言えば期末テストぐらいなのだが、テスト期間中も寛人は変わらない生活を送っていたので、むしろ授業数が少なくなって普段よりも体で感じる時間は普段より短かった。一日の時間は変わらないのに、同じような日々を過ごしていると記憶に残る部分は随分と少なくなってしまう。

 

 この一か月で覚えてる事はミケと出会い、雛乃が風邪を引いて看病したこと。

 近所付き合いのような、そうじゃないような、この奇妙な関係が始まったこと。


 この先もずっと記憶の片隅に残りそうな鮮烈な出来事だ。けれど、記憶は残るだけ。いつか色は抜けて、触れることも、匂いを嗅ぐことも出来なくなる。

 

「ほら。沸いたから。飯にしよう」


 ソファに並んで座り、手を合わせる。

 豚肉を箸で摘んで、湯の中で泳がすように二、三度揺すり、つけダレに浸す。

 とろみのあるゴマダレは豚肉に程よく絡みつき、それを一口で頬張った。口一杯に白胡麻の風味が広がって、まろやかで上品な味わいを堪能する。

 甘口で仕上げられているが、後味に唐辛子のピリッとした辛みが残り、全体的な味わいを引き締めていた。


「うまいな」


 つけダレの味は濃い目だが、豚肉本来の味を邪魔しない絶妙なバランスだ。

 

「このタレも自分で作ってるんだよな」

「うん。作るの簡単だよ」

「それでも俺は市販の物に頼っちまうな」


 材料があれば簡単に作れるのだとしても、一手間を加えることを億劫に感じる人は多いと思う。寛人はどちらかというとそちら側の人間だ。

 

「宍戸君はポン酢とゴマダレだったらどっち派だった?」

「どっちでも食べられるけど。そうだな……。今日からゴマダレ派になったかもしれん」

「えへへ。なんだか嬉しいな」

 

 寛人が何気なく言った発言に照れ笑いを浮かべる雛乃。

 

「宍戸君って食べられない物ってある? 嫌いな物とか」

「特にはない。出された物は食べるようにしてる」

「じゃ、苦手な物とかは?」

「好き好んで食べないのは匂いのきついものだな。パクチーとかレバー」

「それなら納豆とかもそう?」

「食べられなくはないが、匂いは苦手だな」


 体に良いものだとは分かっているので、実家の食卓で出された時は無理をして食べていたが、一人暮らしになってから一度も食べていない。意識的に気を付けていないと栄養が偏ってしまいそうである。


「そうなんだ。覚えとくね!」


 スマホのメモ帳を開いて何かを打ち込んでいる雛乃。

 ただの雑談だと思って答えたが、彼女にとっては違う意味を持っていたらしい。


「……あのなぁ」

「な、なに?」

「お裾分けっていうのは作り過ぎた時だけするもんだからな」

「も、勿論だよ!」

「買い過ぎたなんて以ての外だぞ」

「うぅ。だって……」

「わかってる。今日は、まぁ、心配かけたからな」


 夏バテ予防に豚肉は効果的らしい。 

 彼女の気遣いは痛み入る。人付き合いを諦めた寛人が絆されてしまうくらいに。


「ほんとにお人好しだな」

「そんなこと……」

「人のことばかり気にすんなよ?」


 お人好しな少女の優しさは他人に注がれるばかりだ。

 彼女を守る存在。それは一体何処にいるのだろう。


「宍戸君……?」


 思考の波に落ちていきそうになり、口を噤む。

 そのことを雛乃に不審がられて、食事中だったことを思い出した。

 ご飯は美味しく食べた方がいいに決まっている。

 寛人はなんでもないと言って、ただ口の中に広がる旨みに舌鼓を打った。


 その後は野菜やきのこも茹でて、最終的には寛人宅にあった冷凍うどんで〆た。


 心地良い満腹感を抱きながら、片付けは寛人が担当して食器を洗い始める。

 洗剤で食器を洗って、布巾で水気を拭き取り、一か所にまとめておく。

 

「食器ここに置いとくからな」

「うん。ありがとう!」


 待っている間ミケとボールで遊んでいた後姿に声をかけると、雛乃はミケの背中を優しく撫でて、早々に立ち上がった。


「ミケ。またね」


 ミケに小さく手を振り、別れを告げる。雛乃は表情にだけ名残惜しさを残して、それ以上は尾を引かずに食器類を手に取った。もう帰るのだろう。

 男子の家で長居するものではない。それは教えたのは寛人だ。

 

「じゃ、帰るね」

「ああ……。いや、ちょっと待ってくれ」


 しかし、玄関に向かって踵を返そうとする彼女の背中がいつもより小さく見えて、つい引き止めてしまう。


「なに?」


 振り返った雛乃の様子はいつもと変わらない。人懐っこい表情で、可愛らしく小首を傾げている。そこに陰は見出せない。


 寛人が彼女を家に招いた理由は彼女の状態を確認したかったからだ。けれど、彼女の様子はプール掃除の時も、ご飯を食べている時も一向に変わらない。


 彼女に起きている変化は微細なものではない筈なのに。


 確かめておきたい。今この場で。


「テスト。どうだった?」

「え? えーと……」


 唐突な問いかけに雛乃は足を止め、明らかに動揺した表情を見せる。

 視線を彷徨わせても、リビングの何処にも答えは見つからない。


「テスト。余裕だったか?」

「いやー、今回はどうだったかな……。できたような。できなかったような……」


 最終的に足元に視線を落としてしまった彼女は幾何の間を開けて、顔を上げた。その表情には誤魔化すような曖昧な笑みが刻まれていて、彼女が笑顔を作るのに失敗したことだけが分かる。少なくとも数学のテストの点数は0点だ。それは無回答で提出した彼女が一番理解している事だろう。

 

 寛人もそれを知っていながらわざと回りくどい質問をしている。

 求めていたのはこの鬱々とした靄を振り払ってくれるような一言だった。


「……難しかったかも。……どうしたらいいのか、よくわかんなくて」


 そう曖昧に言葉を漏らす彼女は泣き笑いのような表情を浮かべていた。

 何か問題を抱えているのは明らかで、けれど、それを口に出そうとはしない。

 だから、寛人もこれ以上触れることは躊躇われた。


「そうか」

 

 声に出ているかどうかも分からないぐらいに萎む淡白な相槌。

 掛けられる言葉は他にもあった筈だ。けれど、寛人は彼女との付き合い方を未だに決め切れないでいる。かつて、彼女に投げかけた言葉が寛人を挑発した。


 関わるなら、責任を持つ。


 生半可な気持ちで関わる事は、信条が許さない。

 自縄自縛に陥った寛人はそれ以上、彼女の事情に踏み込む事は出来なかった。





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