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11 隣人のテスト

11 隣人のテスト




「お疲れ様ぁ。遅くなってごめんなさいねぇ」


 間延びした声で現れたのは、美化委員担当教師の奥島真理子だった。

 普段から柔和な笑顔を携えた物腰の柔らかい三十台の女性。日焼け防止のためか、つばの広い帽子を被っている。クーラーボックスを手に提げているので差し入れを持って来てくれたようだ。


 ベンチで座っている寛人と目が合うと、不思議そうに首を傾げて近付いてくる。 


「宍戸君どうしたの? 随分濡れてるようだけど」

「あー。いや、軽い熱中症の症状が出たので少し休憩してました」

「え、えぇ!? 大丈夫? 気分は悪くない?」

「平気です。水分補給をして休んでたら大分落ち着きました」

「そう。ごめんなさいねぇ。それならもっと早くに持ってきていたらよかったわ」


 真理子はそう言ってクーラーボックスをベンチの上に置くと蓋を開く。

 中には沢山のペットボトル飲料と塩飴やゼリー等が入れられている。


「いや、自分の不注意なので……。えっと、差し入れ。ありがとうございます」


 自身の自己管理を怠ったことが原因なので、真理子が謝る必要はない。

 寧ろ、情けなくなってしまうから、早々に話を切り替えた。


「結構な量ですけど、重かったんじゃ?」

「ふふ。先生こう見えても力持ちなの。休みの日に山とか登っちゃうんだから」


 小柄な真理子の見た目にはそぐわない体育会系の趣味だが、それは本当のことらしく校舎からここまで歩いてきて息一つ乱れていない。


「意外です」

「山はいいわよぉ。素敵な景色は一生の宝物になるし、登り切った達成感も普通の生活では得られないものだから」


 聞いてもいないのに目を輝かせて登山の良さを語り始めている。

 勧誘されそうな勢いに寛人が困惑していると、プール掃除をしていた他の三人が一度作業を切り上げて、ぞろぞろと集まってきた。


「わぁっ。差し入れだー」

「ごめんなさいね。あなた達ばかりに任せてしまって」

「いえ、道具さえあればあたし達でもできることだったので。奥島先生こそ忙しいのにわざわざ差し入れまで用意して戴いて有難うございます」

「私のことはいいのよぉ。あなた達こそ折角の休日なのにねぇ……。掛田先生はこれと言ったら聞かないところがあるから」

「あの人は何やってるんですか。三年の担任だから忙しいとかぬかしてましたが」


 その名前が出てきたことで悠里は途端に不機嫌になって、毒を吐いている。

 思うところがあるのは真理子も同じで、悠里の物言いを咎めることはなかった。


「うーん……。今日は見てないわねぇ。忙しいのは本当だと思うんだけど……」


 苦笑を溢す真理子。生徒の手前、取り立てて悪く言う事も出来ないらしい。

 真理子が浩二を悪く言ってくれないと、こちらも手に持った矛を手放さざるを得ない。その証拠に悠里はそれ以上何も言わなかったが、行き場のない怒りは着々と募って、こめかみに青い癇癪筋を走らせている。


「顔」

「なによ」


 指摘すると、一層不機嫌そうに眉を寄せる悠里。


「いたらまた余計な事言い出しかねないぞ」

「……そうね。逆に運がよかったと思うようにしとくわ」


 寛人の解釈の仕方に不満足そうではあるがどうにか納得できたらしい。


「……」


 その何でもないやり取りを雛乃が憧れるような眼差しで眺めていた。


「なんだ??」

「ううん。彩木さんのことよく分かってるんだなって」

「今のは誰が見てもひどい顔だったんぐっ!?」


 話している途中で真横から水をかけられて、言葉を遮られてしまう。


「誰の顔がひどいって?」 

「……折角乾いてきたところだったんだが」

「ふふ」


 雛乃が二人の様子を見て、堪えきれないといった様子で笑った。


「なに笑ってるのよ」

「だって、楽しそうだから」

「楽しくなんてないから。あんたにも水かけるわよ」


 ノズルを雛乃に向ける悠里。

 まるで、拳銃を構えて脅しているみたいな構図だ。


「わー。逃げろー」


 しかし、雛乃は悠里の圧にも怯まず、楽しそうにプールサイドをスキップして駆けていく。その天真爛漫な姿に毒気を抜かれた悠里は「プールサイドは走らない!」と注意するだけに留めていた。


「ご飯取ってきまーす!」


 そのまま更衣室の方へと消えていく雛乃。

 今朝、持ってきていたクーラボックスを取りに行ったようだ。


「時間的にも丁度いいし。お昼休憩にしましょうか」

「そうだね。ラストスパートの前にエネルギーを蓄えないと」


 悠里の提案に享が同意して、一本のベンチに腰を下ろしていく面々。

 右から等間隔で悠里、寛人、享、真理子の並びで座る。更衣室から帰ってきた雛乃はその並びを端から端まで目で追って、悠里と寛人の間に割り込んできた。


「いっぱい作ってきたから。皆遠慮せず食べてね」


 ボックスを開けたその中にはラップに包まれたおにぎりとサンドイッチが並べられており、他にも見覚えのあるタッパーに卵焼きやウインナー、ミートボール等が仕切りをされて詰め込まれている。


「え。すご」

「美味しそうだ」


 朝の時間のない合間に作ったとは思えない豪勢さに驚嘆の声が上がる。


「日向さんが作ったの? 凄いわねぇ」


 真理子も感心したように頷いていて、周りから褒められて機嫌が良くなっている雛乃がまだまだ欲しいと言わんばかりに寛人の顔を覗き込んできた。


「……腹減ったから早くくれ。どうせ、美味いんだろ?」

「えへへへへ」


 雛乃に振る舞われ、各自好きな具材のおにぎりやサンドイッチを手に取る。

 寛人は鮭とすりごまが混ぜ合わせてあるおにぎりをいただくことにした。


 頂きます。と手を合わせて、ラップを剥がす。

 一口食べると鮭とごまの香りが口の中に広がった。

 甘口の鮭のフレークにすりごまが馴染んで、まろやかな味わいになっている。

 一つ分の大きさは小さめに作られているので、他の味も楽しめそうだ。


「おいし」


 ロースハムとたっぷりの野菜が入ったミックスサンドを食べていた悠里が美味しさのあまり、食事の手を止めて驚嘆している。


「ほんと? よかったぁー」

「日向さんって料理もできるのね。学校にも自分でお弁当作ってきてるの?」

「うん。料理作るのは凄く好きだから」

「えら。しっかりしてるのね。これが本物の女子力ってやつか」

「そんなことないよ。さ、彩木さんもお団子の髪型可愛いね。凄く似合ってる」

「は、はぁ? な、なによ。突然……。褒めたって昼からも目一杯働いてもらうからねっ」


 雛乃と悠里が楽しそうに、気恥ずかしそうに談笑をしている。

 正反対な二人だが、これを機に仲良くなっていくのかもしれない。悠里の裏表のない物言いが、普段、人の顔色を伺っている雛乃には心地良いのだろう。


「宍戸は期末テストどうだった?」


 二人の様子を横目で見ていたら不意に反対側の享から話をかけられる。その右手にはおにぎり、左手にはフードピックが握られており、先端には卵焼きが刺さっていた。寛人もそれを見ていたら卵焼きを食べたくなってきたので、フードピックを手に取り、一口サイズに切り分けられた卵焼きを頬張る。

 今日の卵焼きの味付けはしょっぱく、おにぎりを食べる手が更に進んだ。


「いつも通りだな」


 期末テストの話題よりも食への関心の方が強く、食べながら適当に言葉を返すと、享が更に隣に座っている真理子にテストの出来栄えを尋ね始めた。


「奥島先生。僕らのテストどうでした?」

「二人ともよくできていましたよ」

「おー。やったな」


 真理子は寛人達のクラスの数学の授業を担当している。

 テストの返却はまだだが、採点自体は終わっているらしい。


 テスト後、自己採点を行った寛人は何となく自分の点数を把握しているので特別驚くことでもないのだが、享は何故か嬉しそうに寛人の横腹を小突いてくる。


「飯が食い辛いから止めろ」

「今回の一番は誰かな」

「聞いてねぇ。おまえじゃないなら、それこそいつも通りだろ」


 考えるまでもない。今隣でおにぎりを頬張っている女の子だ。

 中学時代全ての試験で一位をとり、一学期の中間テストでも不動の一位を獲得していた彼女が今回も危なげなく一位に君臨する光景は容易に想像がつく。


「確か中間テストの時も宍戸は掲示板に張り出されてたよな」


 寛人の中間テストの結果は二十三位だったので、確かに掲示板に張り出された順位表に名前が載っていた。ただ、大体注目されるのは十位以内の人達なので寛人が学力優秀なことは同級生達にはあまり認知されていない。


「よく自分より下の奴を覚えてるな」


 享は中間テストで二位の成績だった。

 毎日遅くまで部活の練習を熟してよくそんな高順位を取れるものだと、才能への嫉妬よりも人並外れたセンスに脱帽する。


「そんな卑下した言い方するのはよくないな」

「別に卑下してる訳じゃない。俺はおまえを比較対象とも思ってないしな」


 享や雛乃は別格の人間だ。

 容姿に優れ、文武両方に長けた人間などそうはいない。

 そんな天才と凡人である自分を競わせてもその才能の差に圧倒されるだけで、いつか擦り切れてしまう。天才や鬼才と呼ばれなくても人並みの才能さえあれば真っ当に生きていける筈だから、寛人はそれで充分だった。


「上も下もどうでもいい。自分で目標作って。それを地道に達成していくだけだ」


 決して何かの一番になりたい訳じゃない。

 何事も卒なく熟せるようになれればそれだけでよかった。


「一人で生きていける能力があれば、構わない」


 その為の勉強。バイト。一人暮らしだ。それらを一定の水準で保てていれば、社会に出た時にも一人で生きていける。誰にも迷惑をかけない。とても難しいことだけれど、それが完璧に出来たらきっと、誰も傷付けなくて済むと思うから。


 


「宍戸君。少しいいかしら」


 昼食を終え、プール掃除を再開しようとしたところで真理子に声をかけられた。

 残りの三人は既にプール底に降りており、真理子の声は聞こえていない。


 寛人だけが聞き取れた静かな声音に首だけで振り返ると、凛とした佇まいの真理子が真剣な面持ちで寛人を見ていた。畏まった様子は教師の顔付をしていて、何事かと疑問に思いつつ、半身で話を聞くのは失礼だと感じて身体ごと向き直る。


「なんですか?」

「日向さんのことなんですけどね」

「……えっと。俺にですか?」


 突然、出てきた雛乃の話題に目を細める。

 何故自分が呼び止められたのか分からず、何となく心がざわつく。


「ええ。宍戸君に。担任の先生からあの子とお隣さんだって聞いたの」

「それは合ってますけど。それが何か?」

「何か心当たりがあったら教えて欲しいの。最近日向さんにおかしな点はない?」


 その抽象的な問いかけに首を傾げる寛人。

 毎日顔を合わせているが、彼女の様子は普段と変わらなかったと思う。しかし、隣に住んではいても話をするようになったのはつい最近のことだ。

 話の内容も多少世間話をする程度で、彼女の深い事については何も知らない。


「特には思い浮かびません」

「そう……。今日もあの子はあんなに元気そうなのにね」

「……何かあったんですか?」


 意味深に肩を落とす真理子。そこまで思い悩む理由はなんだろう。

 彼女は寛人や雛乃の担任の教師ではない。ただの数学の授業を担当しているだけだ。それ以外で雛乃と真理子の結びつきは思いつかない。


 テスト週間で数学の授業自体少なくなっていて、真理子と関わること自体が最近は少なかった。授業中に何か問題が起きたようなこともなかったと記憶している。


 それでも真理子は最近と口にした。ならば、答えはその中にある筈だ。

 最近で起こった二人が絡む出来事はたったの一つしか存在していない。


「テストで何かありました?」


 寛人の推察に真理子は誤魔化すこともなく肯定する。


「……ええ」


 その神妙な面持ちで決して良い話ではないのだと気付かされる。

 考えられるのは雛乃のテストの出来栄えが芳しくなかった。

 一人の成績の上下にわざわざ他人を捕まえて、騒ぐような事ではないと思ったが、彼女に関して言えば仕方のないのかもしれない。入試の問題を全教科満点で突破し、中間試験でも圧倒的な一位を取った彼女は教師の期待も厚いのだろう。


 それでも寛人には少し大袈裟に思えて、度忘れとかケアレスミスがあったのだろうと単純に考えていた。しかし、それは大きな間違えで、寛人は見ようとしてこなかった彼女の事情を知ることになっていく。


「白紙だったのよねぇ。どの問題にも答えは書かれていなかったの」


 それは度忘れとか。問題が分からなかったからとか。そういう枠外の話だ。

 彼女は試験を放棄した。恐らくは彼女の意思で。


 背後に振り返る。そこにいる雛乃は悠里と並んで楽しそうに話しながらプール掃除を続けていた。その屈託のない笑顔には悩みなんてなさそうに見えるけれど、悩みのない人間なんて存在する筈がないのだ。


 雛乃が隠して、悟らせないのが上手かっただけ。

 厳重に隠されていたのなら寛人が気付かなくても仕方がない。


「日向さんはお母さんを亡くされていて近くで見てくれる人がいないから。お隣さんの宍戸君が見ていてくれたら安心できるのだけど」


 ただ、考えてしまう。

 自分は。彼女のサインを見逃してしまったのではないかと。





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