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01 捨て猫

第一章 長い長いプロローグ

01 隣人と捨て猫




 土砂降りの雨の中、傘もささずに立ち尽くす少女-日向雛乃ひなたひなのは抱き抱えた冷たい仔猫を暖めようと、いっそう強く抱きしめた。




 高校からの帰り道、突如として振り出した夕立は雛乃の歩みを急がせた。


 傘の持ち合わせはなかったし、きっと持っていたとしても使わなかったと思う。一分一秒でも早く自分の足を動かして走りたい。中学時代に部活動で鍛えられた健脚がアスファルトを強く蹴り付ける。

 雨の中を疾走する滑稽な姿をすれ違う通行人達が怪訝そうな顔付きで見やるけど、最後にはその美しい身のこなしに目を奪われていく。


 脇目も振らずに走り続けた視界に自分の住むマンションが見えてきた。

 雨は降り続ける。まだもうしばらくは止んでくれそうにない。


 学校からマンションが近かったのは不幸中の幸いと言えるだろう。けれど、雛乃はそちらに一瞥もくれないで、ずぶ濡れになった自身の状態も顧みず、その場所で足を止めた。


「はぁ……はぁ……」


 荒くなって呼吸を整えながら一点に視線を注ぐ。

 通学路に並ぶ一本の電信柱。その足元に置かれたダンボールは今朝通学する時にも見かけた物だ。

 

 小さなダンボールの箱。その中には猫がいた。

 飼い主の理不尽で可哀想にも捨てられてしまった幼い三毛猫が。


 誰かが拾ってくれている事を期待していた。

 ここまで走ってきた労力は全て無駄になってしまうけど、通りすがりの人にまじまじと見られたことが少し恥ずかしかったけど、それを全部笑い話に変えて、心から安心できたと思うから。


 しかし、今も尚、ダンボールの中には仔猫が蹲っている。


「……いい人に会えなかったんだね」


 みゃー、とか細く鳴く声は雨音にかき消されてほとんど聞こえない。ダンボールは水に濡れて不自然に歪んでおり、子供の手でも簡単に破けてしまうくらいに脆くなっている。抱き上げて。抱きしめて。温もりを与えようと試みるけれど、彼女の体温だって疾うに無くなっていて、冷えた感覚を共有することしか許されない。


「待ってよう。きっと、大丈夫」


 冷え切った身体は執拗に熱を求めて、けれど、それは何処にもなかった。


ーーー


「飼うつもりがないなら、さっさと帰れ」


 宍戸寛人ししどひろとは素っ気ない口ぶりで傘も刺さずに突っ立って、現在進行形でずぶ濡れになっているクラスメイト兼隣人に声をかけた。


 彼女の名前は日向雛乃。寛人と同じ高校に通う一年生。その人となりを端的に言い表すのであれば、容姿端麗。才色兼備。天真爛漫の言葉が適切だろう。


 腰まで伸びた艶やかな黒髪のストレートヘア。シャープな輪郭や整った鼻梁。ぱっちりと大きく見開かれた黒目がちの瞳。パーツの一つ一つが精巧で、気圧されてしまいそうな美貌をその身に宿している。


 彼女が優れているのは容姿だけに留まらない。文武両方で結果を残しており、一学期中間試験では学年一位。中学では陸上競技で県大会に出場と、マルチな才能を発揮していた。それを決して他人に自慢したりはせず、いつも人懐っこい笑顔を浮かべ、意地の悪さを感じない彼女は異性だけでなく同性からも好かれている。


 俗に言う、完全無欠の美少女だ。


 そんな美少女がマンションでは寛人のお隣さんにあたる。だが、隣人だからと言っても大して顔を合わせる機会はない。寛人に雛乃と関係を築きたいという気持ちがあって、行動に移せば何か現状は変わったかもしれないが、生憎とその気は持ち合わせていなかった。


 関りがなければどれだけ近くで暮らしていようと言葉以上の意味が生まれてくることはない。寛人にとって雛乃は隣の部屋に住んでいるだけのただの隣人。

 日向雛乃に関して知っていることは学校で漏れ聞こえてくる噂話程度でしかなく、隣に住んでいるのに彼女の家族構成すら寛人は知らないのだ。


 学校一の美少女のお隣さんになってしまったという事情は学校内で親しい関係を作らないと決めている寛人にとって面倒事に類する。

 

 寛人は彼女と他人でいたかった。


 関わりたくない理由は様々あるが、特に学校中に隣り合わせで暮らしていることが知れ渡れば自分がどんな目に遭うかなど想像に容易い。

 大多数の妬みや嫉みは大なり小なりいずれ寛人に暴力を振るう。寛人にとって、それはとにかく面倒で仕方がない。


 今のところその事実は露見せず、嫉妬の眼差しを向けられずに過ごせている。彼女も他言するような内容ではないと思っているのだろう。


 それほど関わりの薄い関係でも、背中越しで雛乃だと気づけたのは雨に打たれているその姿がとても様になっていたからに他ならない。


 彼女の華奢な肢体に絡みついた黒い髪。

 濡れて重たくなった制服が彼女の女性らしい輪郭を浮き彫りにする。

 伏し目がちに半身で振り返った姿は扇情的である以上に幻想的で、一枚の絵画を見ているようだった。


 篠突く雨にその身を打たれ、立ち尽くす少女。

 苦しそうで。儚くて。今にも霧散して消えてしまいそう。


「宍戸くん。……こんばんは」


 こんな状況でも真っ先に挨拶の言葉が出てくるのは彼女の良き人柄によるものだろうか。だけど、お手本のような笑顔はあまりに出来過ぎていて、この状況に於けるチグハグさがより鮮明に際立っていた。


「半端な優しさはそいつにも迷惑だ。あんたも風邪引く前に帰れ」


 状況は一目すれば理解出来る。寛人も同じマンションに住んでいるから、今朝の時点で仔猫がマンションの前に捨てられていることには気付いていた。


「・・・怒ってる?」


 ぶっきらぼうな喋り方と寛人の目つきと態度と口の悪さが相まって、他者からは脅迫しているように見えたかもしれない。雛乃も若干怯んでいる。

 寛人自身、好まれる態度ではないと自覚はあるが改めるつもりはなかった。この立ち振る舞いが対人トラブルに巻き込まれなくて済む一番簡単な手段だと知ったから。


「怒ってない。俺が怒る理由はないだろ」

「私のこと、心配してくれたのかなって」


 雛乃が随分的外れな事を言ってきて、どんな思考回路なのかと訝しんでしまう。

 この振る舞いの何処に他者を慈しむ心を孕んでいるように見えるのか。


「俺が人の心配ができるように見えんのか。あんただって学校での噂知ってるだろ」


 入学早々、上級生と揉めたことから学校で根の葉もない噂を立てられている寛人。本人の耳にも入るくらい大々的に噂は広まっているので、雛乃も知らない訳がない。寛人もある種、雛乃の人気にも劣らない認知のされ方をしていた。


「……見えるんだけどなぁ」


 それなのに雛乃は噂の虚実を知ってか知らずか思案顔を作って、力なく笑う。

 寛人は噂に対して肯定もしていないし、否定もしていない。ただ、仲の良い友人もおらず、クラスメイトにも極めて友好的ではない寛人のその態度は、他者から見れば噂の信憑性を増すもので、雛乃のような意見の方が余程珍しい。


「……呆れるくらい、お人好しだな」

「だって、傘差してくれてる」


 真っ直ぐな瞳は寛人を捉えて、その内面まで見透かそうとしている。居心地が悪くて、すぐに視線を逸らしてしまう程度には迫力があった。


「俺もそこに用があっただけだ」


 努めて平静さを装って、雛乃に退くようにマンションのエントランスを指差す。

 いつからこうしているのかも知らないが、彼女の姿から短い時間ではないのは明白だ。これで明日体調を崩しても彼女の自業自得。でも、馬鹿には出来なかった。

 彼女の行動の理由は、腕の中に守られている仔猫に由来するものだから。


「ううん。まだ、この子の……見つかってないから」


 雛乃は微妙に言い詰まりながら、この場に残る意思を見せる。


「自分で育てるつもりはないんだろ。ほっとけ」


 雛乃を責めるつもりは毛頭ない。悪いのは理由が何であれ、この仔猫を捨てた飼い主だ。けれど、だからと言って部外者が半端な気持ちで関わるべきではないとも思う。同情だけの慰めは一銭にもならない。期待だけさせて、突き放す方が余程質が悪い関わり方のように思えた。


 関わるならば責任を持つ。それが最低条件だ。 


 抱きしめてくれたら、助けてくれると勘違いしてしまう。

 彼女がここを立ち去るならば、この仔猫にとって二度目の裏切りだ。


 けれど、雛乃は、


「……寂しいもん。一人じゃ」


 自分の価値観を押し付けて、傍に寄り添おうとする。それがきっと何か役に立つ筈だからと。人のエゴだけで、不遠慮に。それを多くの人が偽善と呼ぶ。


「いつか慣れるもんだ」

「慣れないよ。諦めるだけ」


 諦念の籠った言葉と彼女は少しも似合わなくて、とある邪推が生まれた。

 それは例えば学校で見せる百点満点の笑顔とか、雛乃の周囲はいつも賑やかなのにその生徒が毎日違う事だとか。

 そんな考えが頭をよぎって今考えるべきではないと小さく首を振って追い払う。


「別になんでもいい。それより用があるって言っただろ」


 寛人は頭をボリボリ掻きながら、今日一日考えていた事をクラスメイト兼隣人の彼女に伝える。


「その猫は俺が育てる。異論ないな?」

「え……?」


 見た目が不良みたいな少年の言葉に、学校一の美少女が間抜けな顔で瞬く。


「晴れたか」


 その反応を寛人は完全に無視して、不要になった傘を畳んで水滴を払う。


「どうし……や、傘の水滴がこっち飛んできてるからぁ」

「気にするな。どうせ濡れてるだろ」


 一通り傘についた水滴を振り払って、空を見上げると晴れ間が確認できた。この後は一気に蒸し暑くなりそうだ。

 雛乃はしばらく騒いでいたが、表情を改めて寛人に向き直った。


「宍戸君って猫飼ったことあるの?」

「一度もない」

「えっと……。大丈夫?」


 非常に不安そうな表情を浮かべる雛乃。

 別に彼女に安心してもらう必要はないのだが、彼女はどうやら捨て猫に感情移入しているようなので、半端な回答だと仔猫を手放さないかもしれない。

 手早く済ませるためにはっきり断言した方がいい。

 寛人は僅かに口角を上げて、


「知らん。でも、関わるからには責任を持つ。育てられなくなって捨てたりすることは絶対にしない。たらふく食べさせてでっかくするさ」


 今朝、寛人はこの捨て猫を見て見ぬ振りをして通り過ぎた。その存在に気付いていながら。自分が無理をして請け負わなければいけない事態とは受け取らず、きっと、他の良い人が拾ってくれるだろうと他人任せな思いを抱いて。


 だって、彼は動物を育てた経験がなかったし、猫を飼うために必要な費用や道具も何一つ分からなかった。誰にも寛人を責める権利はない。

 いるとしたら、それは自分自身。


 縋るような鳴き声を聞いてしまったから。それは学校に着いて授業を受けていても消えてはくれなくて、寛人をいつまでも悩ませた。

 休憩時間中にスマホを取り出して、初めて猫を迎える方へと銘打たれたサイトを読み漁り、放課後には覚悟を決めていた。


「だから、そいつを俺に寄越せ」


 肩掛けのエナメルバックの中からフェイスタオルを取り出して広げ、仔猫を受け取る。軽く、細い身体は寛人が請け負った責任の重さをより一層感じさせた。


「あとあんたも。いい加減風邪引くぞ。馬鹿じゃないんだろ」


 もう一枚フェイスタオルを取り出した寛人は、雛乃にそれを投げ渡す。

 雛乃はパチパチと何度か瞬きをした後に破顔して、「やっぱり・・・」と小さく呟いた。


「ありがとう」


 その笑顔は学校で見せる完成されたものではなくとても自然な裏のない笑顔で。

 いつにも増して魅力的に輝いていた。





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