第34話「わたしの大切な」
ママと別れ、セントラル地区に向かう。
かつてバイチャリで疾走した道も、今は歩いて通過する。
バイチャリはまだ家に残してあるけれど、そもそも小さな子供用のやつだから、もう乗る機会もないだろう。それでも捨てずにいるのは、思い出が詰まった物だからという、ただそれだけの理由からだ。
まだコロスケ屋さんの屋台も見えない早朝。澄んだ空気の中に、ふわりと懐かしい匂いを感じた。
ああ、なにか、子供の頃のことを思い出すような━━目の前を、淡い光の玉が横切ったような気がした。
そう感じただけで、気のせいだったかもしれない。見えたのか、見えたと勘違いしただけなのか、直前の記憶なのに曖昧で、よくわからない体験をする。
その直後、わたしの横に━━。
何かが一緒の速度で、並んで歩いていた。わたしの足元。黒い、真っ黒いにゃんこ。
「あっ!」ネロさん!
わたしは彼の存在をはっきりと覚えていた。まだ小さかった頃に一度、そして確か、ベイビーズの頃にも一度だけ、会ったことのあるにゃんこさん。
それなのに覚えていたのは、彼の存在がわたしの中ではとても大きなものだから。会った回数には関係なく、彼と、わたしとの間には絆のような繋がりがあるんだ。それは言葉にすることも、確かめる必要すらなく、はっきり"ある"と解ってしまう類いのもの。そういう不思議な絆があることを、わたしは無意識に知っていた。
『ユフィちゃん、大きくなったね。ちがうところに行くんでしょ?』
『うん。グラファムの町で暮らすの。これからは魔術師学校で、魔術師になるためのお勉強をすることになったのよ』
『しってるよ』
え、知ってるの?
わたしはちょっと驚いたけれど、でもネロさんなら、知っていたって不思議じゃないな。と、なんとなく、なんの根拠もなく思えたのはなんでだろう。
彼がとても不思議な、普通のにゃんこではないということも間違いなく理由の一つにはあるんだけど、それ以上に、ネロさんがずっと、姿は見えなくても、どこかでわたしの成長を見守ってきてくれていたのだと思えたから。だからなんとなく、わたしのことはママのように、なんでも知っているんじゃないかって感じた。
『だからね、ぼくもいっしょにいくよ』と、ネロさんは続ける。
え、と今度こそ声に出してしまった。
そのセリフは、想像してなかったから。
『ネロさん、わたしについてくるの?』思わず確認してしまう。
『そうだよ。今までいわなかったけど、ぼくはユフィちゃんを守るため、天使さまに生んでもらったにゃんこだから、ユフィちゃんの近くにいなくちゃいけないんだ』
と。
これは、衝撃の事実です。てか、ほんとなんで今までそんな大事なことを……と思ってしまう。まあ、わたしが大きくなるのを、そしてその時が来るのを待っていたということなのかもしれないけれど。
それにしても、びっくりだ。
そうか、ネロさんは天使さまに生んでもらったにゃんこさんなのか。
どうやって生んだのかは気になるけど。天使さまって、あの天使さんのことでいいのかな?
わたしの古い、古い記憶の中の少女。
透き通るような青い髪の、小さな小さな天使さん。
まるで小さな子供のようで、でもすべてを見通していたような、不思議な存在。
その記憶は、生まれる前から持っていた。わたしが生まれる前の記憶。
前の世界と、こちらの世界との間━━だったと思うのだけど、今はもうはっきりとは断言できない。前の世界の記憶ですら、小さい頃すでに把握していたもの以上のことは、出てこなくなっているし。
もうあらかた出し尽くしてしまって、新しく思い出せる記憶なんてほとんどない。
けして忘れたわけではないけれど、どこか遠くまで来たような……前の世界からは離れてしまったような、そんな不安にも似た気持ちは常に抱えて暮らしていた。
でも━━ネロさんがついてきてくれる。そうしてグラファムへと旅立ち、魔術師学校に入ることで絶対に、なにかが前進するはずだという確信もある。
わたしは。わたしたちにとっては、前の世界の存在というものが、けして忘れてはいけない、ないがしろにしてはいけないものだった。それは申し合わせたことじゃなく、"転生者"の誰もが無意識に、魂で感じている気持ちだったから。ミリナちゃんも、パトリ先生も、みんながみんな、同じ気持ちでいる。
『だから、ダメっていわれてもついていくけど、いいよね?』
頭の中の会話なのに、わたしの足元で上を見上げたネロさんが言った。
もちろんわたしは、ダメなんて言わないし、言えるわけないのに。
『うん。ダメなんて言わないよ。わたしも、ネロさんがついてきてくれるのは、嬉しいよ』
本心から、わたしはそう思った。にゃんこさんだけど、こんなに心強い存在はない。だって、子供の頃に一度、わたしを助けてくれたことがあったし。
そういえばあの時、ネロさんは魔術のようなものを使ってなかったっけ?
なんだったかな、なにか、光る系の……?
考えはじめたわたしの肩に、とんっ、と、なにかが乗った感触があった。
ネロさんじゃないのはすぐにわかった。だってネロさんはずっと、わたしの視界の中を歩いていたから。
じゃあ、なに?
虫?
その可能性にちょっと顔が引きつったまま、ギギギと首を動かして、わたしは左肩を見る。そしたらなんか、緑色のやつがいた。
虫じゃない。人間のような、人間ではないなにか━━記憶の中にいたなにか。
5、6センチくらいの、まんまるお顔の変なやつ。
『へへっ、ユフィ、オイラがにらんだ通りのマブいナオンになっちまいやがって。これ以上オイラをよろこばせて、どうしようってーの』
思い出した━━この、これは、この人(?)はパッカさんだ!
彼もまた、ベイビーズだった頃のわたしとすでに会っていた、不思議な不思議な不思議存在。頭にお皿が━━てかこれ、お皿なのかな? わかんないけど、お皿みたいなもののある、緑色した奇妙な生き物。
『あなたは確か、パッカさん━━だったよね?』
『そうだよ。さすがユフィ、ちゃんと覚えててくれたみたいだなー。でも実は、マブいナオンになったらまた会おうなんて言ってたオイラだけどさ、今までずぅーっとユフィの家に隠れてたんだぜ?』
と。これもまた衝撃的な事実が明らかに!
嘘でしょ?
そんな気配なんて、一度だって感じたことないわよ。さすがにあの狭い家の中、パッカさんも住んでいたなら一度くらいは見ていていいはず。むしろ、気づかないわけがないはずなのに……。
『隠れてたって、いったいどこに?』
『そりゃあもちろん、ユフィのパンティの中に決まってるじゃんか!』
決まってるのかよ!
ってか、勝手に決めるなよ!
なんて怒りそうになったけど、さすがにそれは嘘だろうな。わたしをからかっているんだ、きっと。
『嘘じゃないよ。もちろん、ユフィのはいてるやつじゃなくて、はいてないやつのほうに隠れてたからな。あと、ユフィがまだオムツだった時代にゃ、ユフィのママさんのパンティに入ってたんだぜ、イカスだろ?』
いや……イカさねえよ。パッカさん……この野郎。
ともあれ、もう今さら言ったところで遅いんだよね……ずっと、隠れてたのが事実なら。
なんだかやるせない気持ちだ。
どっと疲れが押し寄せたみたいな気持ちになったけど、今日はまだはじまったばかり。
『ってなわけで、ちゃんとマブいナオンになったユフィを守るために、オイラもついていくからよ。よろしくな!』
えー、パッカさんまで……なんで?
もしかして、パッカさんもあの天使さんが生んだ妖精なのだろうか。思い、わたしはそれを確認する。
『パッカさんも、あの天使さんが生んだ妖精なの?』と。
でも、答えたのはパッカさんじゃなくて、ネロさんでした。
『ちがうよ』って。いや、違うのかよ。じゃあパッカさんって、いったい何者なの。いよいよわからなくなってきた。すると、パッカさんはすぐに、自らの正体を明かしてくれた。
『オイラは昔からあの辺にいるんだぜ。ユフィの家ができるずっと前からな。そんで、オイラの股関に訴えかけるマブいナオンになりそうな子に目をつけてよ、その子を守ってやってんだ。それが、オイラの仕事なのさ!』
『…………』なんだろう。なんか、ネロさんとはずいぶんと差があるような気がするけれど。それに結局、パッカさんが何者なのかよくわからないなぁ。守り神、みたいなやつなのかな?
でもまあ、わたしを守ってくれるという点においては同じなのよね、ネロさんと。なんだか複雑だけど。
まあ、いいや。パッカさんも悪いものじゃないのはわかっていることだし。それに、今さらいなくなれなんて、言えるわけない。たとえわたしに黙って隠れていたにしろ、ずっと一緒のところにいたんだから。
わたしはそんなパッカさんも受け入れて、ネロさんと三人(?)で馬車駅の前にやってきた。思わぬ出会いがあったけど、馬車の時間は待ってくれない。予定通りに行動しないと。
先に到着したわたしが少しだけ待っていると、慌てた様子のミリナちゃんが走ってくる姿があった。馬車はもうすぐ到着する。ミリナちゃんは時間ギリギリに行動するような悪癖があったから、これからはちょっと苦労するかもしれないなと思う。
苦労していたら、わたしが助けてあげよう。ネロさんが、わたしを助けてくれたみたいに。
「その猫なに?」と言うミリナちゃんに、適当に適当な説明をしながら━━わたしは、わたしの大切な仲間たちと一緒に、馬車でグラファムの町を目指す。




