贖罪の牙
紙パックを傾け、喉の奥に勢いよく甘い液体を流し込んでいく。だけど、こんな物じゃ渇きは潤すことができない。
「……やっぱ、美味しくない」
最後の一滴を飲み込み、空になった紙パックは乱暴にゴミ箱へと投げ捨てる。五百ミリリットルという大量な液体を流し込みながらも満足感を得られない身体は、その不満を盛大なため息として吐き出す。
「はぁ〜。もう、三年も血を飲んでないんだよな」
僕は俗に言う吸血鬼。けど、太陽も十字架も苦手ではない。普通に高校にも通っている。僕が吸血鬼ということは、もちろん両親も吸血鬼。両親も人間に混じり、人間と同じ生活をして、社会に出ている。
ただ、両親は吸血鬼らしく人間の血を食事として摂取している。数週間ごとではあるが、夜の闇に紛れ人間の首筋に牙をたて流れる熱い血を食事として称し、身体の内に取り込んでいる。僕も数年前までは両親に習い人間の血を飲んでいた。
……だけど、今の僕はその行為を拒んでいた。
◇ ◇ ◇
一日が終わり、帰宅しようと校門まで来ていた僕は、踵を返し教室を目指していた。うっかり忘れた教科書を取りに戻っているのだ。
「はー。なんで、よりにもよって課題が出された教科ばっかり忘れるかな……」
自分の迂闊さを恨めしくぼやきながら、僕は西館の三階という地味に距離のある教室に向け足を進める。
三年前から人間の血を断っているせいで、僕は極端に体力がない。生活において無駄な行動は極力避け、体育の授業も何かと理由をつけて見学をしている。だから、普段なら忘れ物に気づいても気にせずに帰るのだけど、今日はそれができなかった。運動がダメな分、学力は人一倍頑張らねばと変な義務意識を持っているからだ。……けど、はっきり言って、この往復はしんどい。教室に辿り着く頃には一日の疲労も積み重なり、もうぐったりだ。足だけではなく、全身がずしりと重くなったような感覚に囚われてしまう。
帰宅時間が遅くなってしまうが、教室で休憩してから帰ろうなんて考えながら、ようやく辿り着いたドアに手をかけた。
――ドアを開け、教室に入った瞬間、僕は疲労とは違う高鳴りを胸に感じた。
窓際の席に座り、黙々と本を読んでいるクラスメイト。教室に差し込む日の光に照らされ、染められた髪が輝き、血色の良い肌がさらに色鮮やかに映える。その姿に、ゴクリと喉が鳴ってしまう。
「あ、あれ? 佐川?」
動揺し、上擦った僕の声に、佐川が本から目を離してこちらに顔を向けてきた。
「んー? 瀬戸じゃん。帰ったんじゃないの?」
「教科書忘れたんだよ。佐川は帰んないの?」
「帰ろうと思ったんだけどな。ちょっと読み始めたら、先が気になってな」
佐川の後ろにある自分の席に向かい、言葉を交わしながら机の中にある教科書を鞄に詰めていく。
佐川が読書か……。佐川は運動好きなタイプで、読書をするような印象はなかったな。けど、運動が得意なわりに部活にも入っていないし、もしかしたら読書をする姿の方が本当の佐川なのかもしれない。
知らなかった一面にちょっとした驚きを感じながら、僕は立ち上がる際に彼の手元を覗き込んでみた。本には難しそうな活字が並んでいる。
「佐川って、難しそうな本を読むんだね」
「なんだそれ、俺が本読むのおかしいか?」
「い、いや。そうじゃないよ。なんか、意外だなーって思って」
「意外かー。俺って、結構な読書家なんだぜー」
佐川は笑いながら、本のページを捲っていく。そんな佐川を背後から眺めていると、ふわりと甘い香りが鼻腔に届いた。少し長めの髪がかかる綺麗な首筋が、僕の中にある何かを呼び覚まそうと誘いかけてくる。ゴクリと唾を飲み、薄く開いた口がじわりと目の前の首筋に近づいていく。
だけど、あと少しというところで僕は我に返り身を引いた。
佐川の香りは僕の内にある欲を掻き立てる。それが何を意味する香りかなんて、とっくに気づいていた。だからこそ必死に自分を抑え、耐えてきたんだ。それなのに、無駄な疲労のせいで喉の渇きが強まり、その抑制が利かなくなりそうになってしまった。そんな愚かな自分に、思い出したくない記憶が甦り自己嫌悪に陥ってしまう。
このままここにいては、また自分を忘れるかもしれない。そう考え、僕は席を離れようとした。
「――いてっ」
フワッと濃くなった甘い香り。振り返り見ると、痛そうに眉を歪めた佐川が右手の人差し指を口に咥えていた。
「イテテ。本で切っちまった」
口から指を離し、切ってしまった指先を見つめる佐川。指先に血は見えない。でも、スッと通った細い傷口からは、奥に流れる赤い脈動から発せられる甘い香りが漂ってくる。
「あー、もう、いてえなぁ。なんで、紙で切った傷ってこんなに痛いんだろうな」
普段と変わらない明るい様子で、僕の方に傷口を見せつけ笑いかけてくる。
……ヤバイ。そんな些細な行動に身体が震える。喉の奥、全身がそれを求め、唸る。
僕の身体は無意識に佐川の指を掴み、その指にある傷口に乱暴に吸い付いていた。
「えっ!? おいっ、瀬戸っ?」
突然の奇行に困惑した佐川が声を発する。だけど、止まらない。僕は傷口から潤いを求めようと、必死に吸い付く。しかし、傷は浅いのか、求めるものはなかなか喉に届かない。
「――――っ!」
諦めかけた時、舌先に微かに触れた甘い鉄の味。ほんの一滴なのに、全身が歓喜に震える。
「……瀬戸?」
指から離れた僕の視界に、眼前の不穏に身を竦める佐川の姿が映る。
三年ぶりに得た味。その甘美に、必死に抑えてきた本能が解き放たれてしまう。僕は佐川の身体を押さえ込み、彼の首筋に牙をたてた。
プツリと牙が皮膚を貫き、滲み出る温かな赤い液体。口内に広がっていく甘い味に頭が痺れ、潤いを得た身体が貪るようにさらなる潤いを求める。
無我夢中で喉の奥へと赤い温もりを流し込み、全身に本来の力が戻ってくるのを感じる。佐川を押さえ込んでいる手にも力が入り、ギリッと肩に爪が食い込んでいく。
「せ、瀬戸……。なに、やって……」
ふいに届いた弱々しい佐川の声と、首にかかる苦しそうな吐息。そして、指先に感じる身体の震え。佐川の異変を感じとった身体が、歓喜を忘れて自身への恐怖に襲われる。
「あ、……佐川」
自分を取り戻した僕は、そろりと佐川から離れていく。まだ甘い香りが僕を誘うけど、苦しそうな息づかいがそれを拒絶する。
「佐川、……ごめん」
血の味を残した口が告げる謝罪。唐突に、しかも酷く傷つけた後にしては弱く、心に伝わらなさそうな短い謝罪。僕は色々なことが恐ろしくて、その一言しか告げることができなかった。
だけど、打ちひしがれ顔を伏せる僕に、佐川は意外な反応を返してきた。
「……なあ、もしかして瀬戸って、吸血鬼なの?」
弱った感じを残しながらも、普段と変わらない明るい声。思いがけない反応に、思わず顔をあげて佐川の方を見てしまう。佐川は首にできた噛み傷をさすり、なぜか興味深そうに指についた血を眺めていた。
「ねえ、吸血鬼なの?」
好奇心いっぱいの子どもみたいに、再度尋ねてくる。若干勢いに圧されながら、僕は「うん」と、頷いた。すると、どうだろう。普通なら悲鳴でもあげて逃げるところを、佐川は逆に目を輝かせ身を乗り出してきたのだ。
「マジかよっ! 吸血鬼って、マジでいたんだっ!」
嬉々とし、興奮する佐川。僕はその姿に唖然としてしまう。吸血鬼が人間の血を吸う際、獲物に逃げられないように唾液に混じり快楽物質が分泌される。そのお陰で、獲物は牙をたてられた痛みを快楽に感じ、逃げることをしなくなる。普通なら、そのはずなのだが、今の佐川は快楽に溺れると言うよりも、興奮剤でも与えられたみたいに興奮している。
「うわー。吸血鬼かぁ。俺、初めて見たよ。って、初めてじゃないか、毎日見てたんだな」
変な興奮の仕方に僕の方が恐縮してしまい、恐る恐る尋ねてしまう。
「佐川は、僕が怖くないの?」
「は? 怖い? 怖いわけないじゃん。瀬戸のことはよく知ってるし、なんか妙に納得した部分もあるからな」
「納得した部分って?」
「瀬戸ってさ、時々色んな人の首筋を物欲しそうにジーッと見てることがあるよな。で、俺のことも結構見てたよな」
「そ、それは……」
見ていたことが気づかれていたことに、カッと顔が熱くなる。恥ずかしさと申し訳なさから、「ごめん」という言葉が再度口を衝いて出てしまう。
「謝らなくても良いよ。別に見られるのは嫌じゃなかったし。……でも、それって腹が減ってたからなんだな」
「なんで、そう思うの?」
他人の首筋を見ていたという情報だけで、空腹に辿り着くなんて思えない。僕は疑問をそのまま尋ね返す。
「だって、瀬戸って、スゲー少食で顔色も悪い時が多いじゃん。それなのに、今はスゲー顔色が良くなってんだよ。普通に分かるでしょ」
佐川は無邪気な笑顔で、あっけらかんと言う。
「でもさ、腹が減ってたってことは、もしかしてずっと血を吸ってなかったりしたの?」
僕は佐川の順応のよさと、察しの良さに驚かされながら頷く。
「なんで? 腹減って動けないってしんどいだろ」
「…………」
血を吸わない理由。それは忘れたいけど、忘れられない記憶。未だ口の中に残る甘い香りに、強い罪悪感が呼び戻される。
「……まっ、理由なんて色々あるよな。でもさ、やっぱり空腹が続くのって辛いだろ。だからさ、これからは俺が瀬戸の食事になってやろうか?」
「――えっ!? 佐川、なにを言って……」
とんでもない提案に言葉を失う僕に、佐川はニンマリと顔を近づけ、牙の痕が残る首筋を見せつけてくる。
「もう噛みつかれてんだ。一回も二回も変わんねーよ」
「でも、そんなこと頼めないよ」
鼻腔に届く甘い香りに心を揺るがされてしまうけど、僕は佐川の提案を拒絶した。それなのに、佐川はそれをはね除ける。
「だ〜か〜ら〜。気にしなくて良いって。そりゃ、毎日はキツいかもしれないけどな」
「佐川……。本当に良いの?」
佐川の申し出は嬉しい。でも、どこか信じられず、何度も尋ねてしまう。すると、「しつこいっ」と、肩を軽く殴られてしまった。
「俺の血で瀬戸が元気になるんだったら、俺はスゲー嬉しいよ」
そう言い、佐川は満面の笑みを向けてきた。僕は、その眩しい笑顔に何度も「ごめん」と繰り返し、佐川の気持ちを受け止めた。
それから僕は、週一で佐川の血を貰うことになった。
◇ ◇ ◇
誰もいなくなった放課後の教室で、僕は佐川の首筋に牙をたてる。そして、彼の甘い血を自分の中に流し込んでいく。
「っう。……イテテっ」
「あ……ごめん」
痛みに顔を歪ませる佐川。僕は咄嗟に口を離し、視線を伏せる。
「んー。瀬戸って血を吸うの下手なの? でも、最初の時はそんなに痛くなかったけどなぁ」
牙の痕が残る首筋をさすり、佐川が首をひねる。
「ごめん。練習はしてるんだけど……。なかなか上手くいかなくて」
ショボくれる僕に、佐川はさらに首をかしげる。
こうやって血を飲ませてもらうようになって、もう随分と経つ。それなのに、佐川にはいつも苦痛を与えてしまっていた。しばらく吸血行為をしていなかったから、恥を忍んで子ども用の練習キットで密かに練習を重ねているのにだ。全く進歩のない不甲斐なさに、自分が情けなくなってくる。そして、佐川に対して申し訳なさでいっぱいになってしまう。
「なあ、瀬戸って、なんか悩みとか抱えてる?」
「悩み?」
「そう、悩み。上手くいかないのって、案外精神的なもんからきたりしてんじゃね?」
顔を覗き込んできた佐川が、ずばり突いてくる。僕は返答に困り、黙り込んでしまう。
なぜなら、その精神的な問題というものに、思い当たることがあったからだ。それは、進歩のない吸血のことではなく、僕が血を飲むことを拒絶するようになった原因――
「瀬戸。一人で悩みを抱えるのって、キツいだろ。ここは一つ、パーッと打ち明けてみれば良いんじゃね。意外と気分が晴れて、スッキリするかもしれないよ」
何だろうな、佐川は不思議な男だ。彼の言葉は力強く胸に響いてくる。吸血鬼である僕をすんなり受け入れてくれただけでなく、空腹の僕に血を与えてもくれる。それだけでも十分なのに、僕はそんな優しい佐川にもっと甘えたくなってしまう。佐川になら、この胸の奥にしまい込んだあの記憶も打ち明けても良いのでは、と思えてしまうほどに……。
「……佐川。僕ね、三年前、友だちを殺しかけたんだ」
そして、僕は忘れられない記憶を佐川に語った。
◇ ◇ ◇
三年前、僕には仲の良い友人がいた。明るく人懐っこい性格で、中学に上がってから仲良くなったとは思えないほど、いつも一緒に遊んでいた。その友人も、佐川同様に甘い香りで僕を惑わせる存在だった。
吸血鬼と人間の血には相性というものがある。相性が良いほどに、人間の血は吸血鬼には甘美なものに感じられるのだ。普通なら美味しそう程度で留まる欲求が、最高の相性を持つ人間と出逢うと、その欲求が強まり、その人間の発する香りだけで酔ったようだったり、発情したような気分になってしまうこともある。おまけに、相性が良い血は吸血時に得られる栄養価も通常よりも高く、燃費も良いと言われている。吸血鬼の中には、相性が良い人間一人を囲い、その一人からのみ血を摂取する者もいる。
そうは言っても、そんな最高の相性を持つ相手なんて、そう簡単に見つかるわけではない。でも、僕は中学生という子どもの時に出逢ってしまったんだ。……そう、その仲の良かった友人が、僕の最良の相手だった。
だけど、自分が吸血鬼であることは周囲には内緒にしていたので、それを友人に告げることはしなかった。真実を言って、友人に拒絶されるのも嫌だったし、なにより友人に牙をたてるのに抵抗感もあった。僕は、友人の発する香りに惑わされながらも、それを抑え、誤魔化しながら友人と接していた。
けど……ある日、事件が起きた。
その日、僕は酷い風邪をひき、四日も学校を休んでいた。最悪なことに血を摂取する日の前日に寝込んでしまい、血どころか人間用の食事もとれずで、空腹に加え体力も激しく落ちていた。
そんな最悪な状態の時に、友人が一人で見舞いに来てくれたのだ。
お土産のゼリーを片手にやって来た友人は、ベッドに横たわる僕の姿に酷く驚いていた。そして、長居はできないなと遠慮したのか、すぐに部屋を出ていこうとした。だけど、僕は友人を引き止めてしまった。
この時、友人を帰していれば間違いは起きなかった。僕は自分の軽率な行いを、今も悔やんでいる。
身体が弱っていた僕は、とても寂しがりやになっていた。大好きな友人が帰って、一人になってしまうのが怖かった。そして、友人が近くにいれば、体調も良くなりそうな気がしていたんだ。
一緒にゼリーを食べながら、友人の語る学校であった今日の出来事を聞く。その話の端々に、友人は何度も「大丈夫?」と、心配そうに尋ねてきていた。その度に「大丈夫だよ」と返し、ゼリーやジュースを口に入れていたけど、僕は別の意味で大丈夫ではなくなっていた。
部屋に満ちてくる甘い香り。それはゼリーやジュースとは違う、僕を酔わせる香りだった。
友人が絶賛するゼリーの素っ気ない味なんて、軽く凌駕してしまう甘い香り。僕の意識は友人の話しから遠退き、その香りに集中していってしまう。
それでも、渇きでくっついてしまいそうになる喉をゼリーなどで紛らわしながら、どうにか顔を覗かせようとする本能を抑え込んでいた。だけど、しばらく食事を摂っていなかった僕の飢えは、極限まで高まっていた。僕を惑わす甘い香りが、ただでさえ苦しい身体をさらに苦しめ、呼吸を乱していった。
喉を押さえ苦しむ僕に、「おい、大丈夫か」と、友人が手を差しのべてくる。一気に肉体的な距離が縮まり、甘い香りがより強く鼻腔に届いた。
理性が飛ぶのは、本当にあっという間だった。
僕は友人の腕を掴み、自分の方に引き寄せると、一切の躊躇いもなく友人の首筋に牙を突き刺した。極度の空腹と体調不良による体力の低下のせいで、抑えが効かなくなっていたんだ。部屋に入ってきた母の悲鳴を聞いても、その声が遠くに感じられるほど夢中で友人の血を飲み続けていた。母に身体を引っ張られ、視界に横たわり弱々しい呼吸を繰り返す友人の姿が映るまで、僕は自分がしていることを全く意識していなかった……。
発見がギリギリ間に合い、友人は命を取り留めた。そして、すぐに元気になった。幸いなことに吸血時の記憶も残ってはいなかった。
でも、その日以来僕は友人に会うことはなかった。友人と顔を会わせることで、また彼の血を貪り飲んでしまうのではと、恐ろしくなり逃げ出したのだ。
僕は吸血鬼である自分が怖くなった。それまで単なる食事だと考えていた行為が、人間を殺せる行為でもあるのだと初めて知ってしまったから……。しかも、それが大切な友人に牙をたてるということで知ってしまった。それが、とても辛かった。
僕は友人から離れるために、引っ越しをしたいとお願いした。両親は僕の気持ちを汲んでくれ、その願いは叶った。けど、友人から逃げ出した僕は、血を飲むという行為も恐ろしく感じら逃げ出すようになっていった。
◇ ◇ ◇
「……そっか、それは怖いよな」
頬杖をつき、話を聞いていた佐川がポツリと呟く。そして、おもむろに頬を支えていた腕を離すと、僕の方へと伸ばしてきた。
「悪かったな。辛い話を無理やり聞いて」
佐川の手が僕の頬に触れる。指先が何かを拭うような動きをし、手のひらで柔らかく包んでくる。
「瀬戸がやたら『ごめん』って言うのは、罪の意識からだったんだな」
再び、佐川が小さく呟く。
「ごめん、佐川。こんな話を聞かせて。……そして、こんな僕なんかに付き合わせてしまって」
普段の明るさが消えた佐川の姿に、胸が痛む。そして、このまま佐川の優しさに付け込んで、自分の飢えを凌いではダメなんだって気持ちになる。
「佐川っ、もう――……」
「でも、吸血鬼って優しいんだな」
終わりを告げようとした言葉を遮り、佐川が思いがけないことを言う。唖然とする僕を余所に、佐川は続ける。
「俺たち人間はさ、自分が食うためだったら他の生き物なんて簡単に殺すじゃん。でも、吸血鬼は殺さずに人間を生かしてくれるんだよな。おまけに、こんな風に自分を責めて涙も流すんだ。スゲー優しいよ」
「佐川……」
……吸血鬼が優しい。
吸血鬼の存在を、そんな風に言われるなんて初めてだ。すごく驚いたけど、すごく嬉しかった。そして、なんだか身体がむず痒くなるような言葉でもあった。
「だからさ、瀬戸は自分の行為にそこまで負い目を感じなくて良いんだよ。そりゃ、昔はちょっと暴走したかもしれない。でも、今のお前はそれを悔やんで、自分を抑える力も鍛えてるんだろ。だったら良いじゃん。俺はこれまで通り、血を吸ってもらって構わないよ」
「でも、……また、前みたいに抑えが利かなくなったら……」
佐川はあっけらかんと言うが、僕は不安しかない。自制を覚えたといっても、それは正常な判断を下せる時だけだ。また以前のような状況になった時、僕は自分を抑えられる自信はない。現に、つい先日、佐川に襲いかかっているのだから。
それに昔はまだ身体が子どもだったけど、今は大人に近い。求めるものはより貪欲になっているはずだ。自制が利かず暴走してしまえば、今度こそ殺してしまうかもしれない。
「だいじょーぶだって。そん時は、殴り飛ばしてでも止めるから。それにさ、瀬戸も絶対に成長してるって。最初の時だって、俺の声聞いて止めてくれたじゃん」
不安が表情に出ていたのだろう。佐川は明るく言い、僕の胸めがけて拳を突きつけてきた。そして、遠慮するなと言わんばかりに、首筋を差し出してくる。乾き始めた傷口からは、まだ甘い香りが漂っている。だけど、僕はそこに口をつけることができないでいた。
いくら待っても来ないことに焦れたのか、佐川が急に声をあげる。
「あっ、そうだ。瀬戸、ちょっと考えを変えてみないか?」
「考えを変える?」
佐川がウンウンと大きく頷く。
「瀬戸って、食事に罪悪感を感じてるんだよな。それを感謝に変えるんだよ。傷つけて『ごめんなさい』じゃなくて、美味しいご飯を『ありがとう』って」
「ありがとう……?」
小さな呟きに、再度大きく頷く佐川。そして、はっきりとした声で言うように催促してくる。
「……佐川。いつも、ありがとう」
「おー、どういたしまして」
僕が告げた感謝の言葉に、佐川が満面の笑みを返してくる。その優しい笑顔に絆されたのか、初めて口にする感謝の言葉が自分を許したのか、身体の力が抜けて気持ちがすごく穏やかな感覚に包まれた。
「佐川、ありがとう」
もう一度感謝を告げ、僕は佐川の首筋に牙をたてた。
「……あっ」
耳許で佐川が吐息をこぼす。それは、これまでの苦痛による息づかいがではなく、快楽に飲み込まれるような切ない吐息だった。
僕はその吐息を耳に感じながら、甘い温もりを全身に行き渡らせていった。
『贖罪の牙』を最後まで読んでいただきありがとうございます。
BLなので、R18要素を入れてムーンさんの方で公開しようと思いましたが、思いきってそういう要素は無しにしました。
途中までは書いていたのですが、しっくりこなかったんです。
いつかまた、初々しいBLっぽい話を書いてみたいです。
2017.04.06 忍田そら
★ムーンさんの方にも、いくつかBL作品を掲載しています。