ソコハテ
両上腕を後ろから掴まれ、上半身を冷たく濡れたドアに押し付けられた。
掴まれたままの箇所は、血が止まるのではないかと思うほど締め上げられている。
突然の事に、首は左向きにむりやり曲げられた形になり痛め、頬はペンキが剥げ、中の錆びが見えていた劣化の凹凸によって汚れ傷付いた。
呻きが、真咲の口から漏れる。
真咲は、自身を掴んでいる腕を見て、驚く。
人の手ではなかった。
細く小さな女の手は、形、大きさそのままに、蒼い鱗でびっしりと覆われていた。
よく見るとそれは、爬虫類よりも魚の鱗に似ている。
一慨に蒼と呼んでも、その鱗は細かく、光が当たる角度によって水色から紺色の間の色を見せる。
「鱗……!?」
その真咲の驚き様に、女はわざと真咲から見える角度に首を傾けて、哂った。
流れる髪の隙間から、右の目周辺から額に掛けて鱗が広がった白過ぎる肌が見え、群青色の瞳が狂気を孕んで細められる。
(なに、これ、なんなの!?幽霊どころじゃない!悪魔?!)
恐怖と混乱が同時に襲いかかって来て、真咲はパニックになる。
「あなたは人間が嫌いな子だもの、私と仲良くなれるわ。私と同じにしてあげる。嬉しいでしょう?
人間を殺して回るの」
ひゅっと、喉が鳴る。
女の冷たく硬い手に、真咲の体温が吸い取られるように冷めていく。
「逃げましょう?ねぇ?返事をしてくれなきゃ哀しいわ」
「いたっ!」
女の爪の形が長く黒く変形し、真咲の柔い二の腕に食い込み、白い制服に血が滲む。
だんだんと、時間をかけて爪が肉を抉る感覚が恐怖を煽る。
「……わかった!わかったからやめて!」
返事をすると、満足そうに女は笑った。
手を離され、真咲はその場に自分を抱きしめるようにして崩れ落ちた。
爪で負った怪我は浅いらしいが、血は止まらずじくじくと痛み、頬は擦り切れ、首は痛くて別の方向を向けなかった。
なにより人間ではない者と、この場にいる恐怖が耐え難かった。
(これは、悪夢?現実?なんで、あたしがこんな目に遭うの!?)
真咲は、屋上に入り込んでしまった事を後悔するが、いまさらどうしようもなかった。
逃げるにしても、ドアは開かない。
痛みで首を左に傾けたままの真咲の前髪を、女は遠慮もなく掴んだ。
「うっ……!」
むりやり面を上げさせた女は、再び拒否権の無い質問を浴びせかける。
「ねぇ、名前は?」
「……桂、真咲」
名を教える事に危険を感じたが、教えなければ再び危害を加えられるのは明白だった。
両親に、悪魔というものがどれだけ怖ろしいかも幼い頃に教えて貰った。
しかし、両親が死んだ時、彼等が信じた神に疑問をもってしまった真咲には、負い目がある。
その神に、助けは求められなかった。
まして、祖父が祀っていた神にも。
悪魔かもしれない者の前に、真咲はただ無力だった。
女はくつくつと喉を鳴らし、真咲の髪をぞんざいに放した。
そして、空を見上げ大きく両の手を伸ばす。
「【選定者】ソコハテが謳う。偉大なる破壊の神、真実の神よ、照覧あれ!
私の補佐として『逃亡の世』に桂真咲を召し連れる御許しを!!」
「!?」
ソコハテと名乗った女の周りに金色の魔法陣が広がり、真咲の足元もその範囲に入った。
金の光が強くなり、目を開けていられずに瞑ってしまう。
すると、空中に投げだされた様な浮遊感の後、重力が体に掛かり、真咲は意識を失ったのだった。