眼を穢す
幼い紅子の閉じた眼の上を、柔らかい物がするりと撫でていく。
こそばゆいが、紅子は我慢した。
次に眼を開けると、少年が屈んで紅子を見ていた。
その少年の顔も、名前も、その時の表情も覚えていない。
何を言われたのかは、言葉を覚えているが、声色自体も思い出せない。
その後の紅子は、他の人間が見えない物は見えなくなった。
「小さい頃、見えなくしてもらったの、男の子に」
「見えなくしてもらった?……やっぱりか」
「やっぱり?」
「うん、紫延さんが言ってたんだ。
お前は、元々視える体質なのに眼を穢されているって」
「え……?どういう事?紫延さんは私の事、解ってたの……?」
「……紅子、やっぱり店に帰ろう。説明はそこでするよ」
初意の勢いに押される形で、紅子は頷くしかなかった。
*************************
「紫延さん!!巳春さん!!」
手を初意に引っ張られたまま二階の『からす庵』まで引き摺られる。
からす庵には、巳春がソファに腰掛け、何やら思案顔をしていた。
だが、初意と紅子の姿を見て、すぐに立ち上がった。
「あら、紅子ちゃん!?初意、あなた送って行ったんじゃないの?」
「いえ、それが!紅子が、昔、眼を穢された時の事を覚えているらしくて!!」
それを聞き、巳春が紅子の両肩を掴む。
「ほんとに!?」
美女のアップに怯むが、何とか答える。
「……は、はい」
「私にも聞かせてくれるかな?」
「は、はい、もちろん!」
上の階から、降りてきた紫延に、驚きつつも即答で紅子は答えた。
巳春に促されて、紅子もソファに座る。
柔らかめのソファなのだが、緊張気味の紅子は、余り沈まない。
初意が淹れた珈琲の香りが、部屋に漂い、お茶請けの焼きメレンゲが角砂糖と共に並ぶ。
「たしか、六歳頃だったと思います。
あの日は、クリスマスイブで父も母も、用事があって、ここの商店街でバザーがあったんです。
家には、母が用事の為に、私達に出かけて居ろって言われて……。
それで、姉が私を連れまわしていて。
そうしたら、一方的に姉が私を叱り飛ばして……」
紅子は目を瞑る。
姿も覚えていないが、存在は覚えている。
「そうしたら、おじいちゃんが……そうだ!
あのおじいちゃん、歩人さんが持ってた写真のおじいちゃんです!
その人の背中に大きな黒い翼が見えて。それで、怖いって泣いたんです」
「あの人は烏山さんの写真を持っていたのか……」
紫延が難しい顔をして、唸る。
「烏山さん?」
「私達に店を譲ってくれた方だよ、気前の良い人でねぇ。
見た目よりも元気過ぎて、周りが付いていけなくなるようなそんな人だったよ。
……ごめんね、続きを」
紫延が、眼を細めて、懐かしむ。
けれど、紅子に先を促した。
「……はい。
そうしたら、私よりも大きなお兄ちゃん……十二歳くらいかな、男の子が来て。
一緒に遊んでくれたんです。
私が、色んな物が見えるのはおかしくない事なんだよって。
その、男の子も、背中に黒い翼があって、でも姿が二重にぶれてて……」
「……」
三人が、その子供について神妙な面持ちで聞いている事に、紅子は気付かない。
眼を瞑ったまま、その子供を思い出そうとする。
「姿が全く思い出せないんです。名前も知らない。
でも、おじいちゃんの事を「父さん」って呼んでいたのは思えています。
歳の離れた親子なんでしょうけど、そんなに似てない感じがしました。
そうだ。私、当時のからす庵に来た事があるんです。
だから、懐かしいと思ったんだ!
で、オムライスをおじいちゃんに作って貰って、眠くなって寝ていたら……」
愛おしむような、寂しいような、そんな声色だったように感じる。
「こう、聞こえてきたんです。
『君は、俺の事も、この出来事も忘れてしまう。けどそれはとてもいい事だ。
神に近い君の眼を、穢すのは忍びないけれど、人間として生きていく為には仕方がない』
って、小さい頃も、今も意味が解りませんけど、あの男の子は、
私に、変なものが見えないようにしてくれたんです」
「次の日には、私は、普通に、普通の子みたいに、過ごせるようになってて。
お兄ちゃんの存在も、忘れてしまっていました。
こんな事くらいしか、覚えていません」
自分が、変な事を言っている自覚はある為、紅子は真っ赤になって俯く。
「……そうか、ありがとう。当時は大変だったんだね、偉かったんだね」
俯いた紅子の頭を、ぽんぽんと紫延が優しく撫でた。
その感触に、紅子は泣きそうになる。




