龍塚夫妻
紅子には、嫌いな人が多い。
母が一番に嫌いだが、姉も、父も、もちろん友恵も、友恵の母も嫌いだ。
まだマシなのは、同じクラスの満帆南だ。
初意は、同志という印象なので、好き嫌いの問題ではない。
紅子の数少ない好きな人は、紫延だ。
その妻である巳春は、好きになれない。
そもそも、巳春は、紅子の嫌いな完璧な『大人の女性』だからだ。
厨房横の据え置きの電話が鳴り、紫延が応対する。
すると、ほぼ同時に二人連れの客が入って来て、初意が接客する。
出遅れた紅子は、大人しくグラスに水を用意するしかなかった。
「紅子ちゃん、二階にアメリカン二つ持って行ってくれる?」
「……はい」
しぶしぶ紅子は、承諾した。
巳春の事は、嫌い以上に苦手なのだ。
芳しい香りを漂わせるコーヒーの入った二客のティーカップをお盆に乗せて、『からす庵』へと運ぶ。
レンガ壁の内装はそのままに、部屋のインテリアも『レインボウ』と統一させているが、
写真の額縁付近の壁は、レンガではなく漆喰の壁になっており、写真の邪魔をしないようにしている。
画廊らしく椅子の数は少なく、ソファが四点置いてある。
『レインボウ』自体も、十五人も入れない喫茶店だ。
『からす庵』では、写真の売り出し、写真の貸し出し、撮影依頼の業務を請け負う際のショールームの役割を担っている。
巳春の撮る写真は、夕日や虹。
陽が作る影の形や、水面に鏡のように光を反射した姿。
空と太陽を被写体にした物が多い。
天体をテーマにしているというよりも、自然光をテーマにしているようだった。
ソファに、ローテーブルを挟んで、商談の話をしている二人に近づき、黙ってカップを置く。
テーブルの上には、写真を収めたアルバムと、レンタルの料金表のプリント、今までの展示の様子をまとめたファイル。
『からす庵』店主、巳春は、緩く一つに纏めた腰まである黒髪。
オフホワイトのシャツの胸元から覗くのは小さな金のペンダントトップ。
綺麗に整えられ、派手すぎないパールホワイトのネイルが企画案を指し示す。
左の薬指には、シンプルなシルバーリング。
グレーのパンツは、形がぴったりとしていても、崩れていない尻や長い脚を強調している。
細身ですらりとした巳春は、女性の平均身長よりも高いが、モデルのような体型というには線が細い。
少し困り眉に、目元の泣き黒子。
薄めのメイクに、アーモンド形の額縁の瞳はヘーゼルほどの明るい色、それをさらに目立たせるゆっくりとした瞬き。
胸も尻もそれほど大きなわけではないが、匂い立つような色気がある。
薄幸さを身に纏い、世の男性から愛人にしたいと思わせる美女、それが巳春だった。
「ありがと」
小さく感謝を述べ、にこりと笑う巳春に、紅子は小さく会釈をしておく。
ちらりと、商談相手を覗くと、巳春の企画案よりも、巳春本人に夢中な様子だった。
商談は、どんな理由であれ、上手くいくだろう。
「ありがとう、紅子ちゃん」
「……いいえ」
二階から、降りてくると紫延からもお礼を言われた。
「紅子ちゃん。こちらも一段落したから、後は初意に任せて、一緒に休憩しようか?」
「はい!」
賄いのオムライスを二人で休憩室兼自宅の3階で食べる。
リビングで食べるので、賄いを食べているというよりは、普通に家に上げてもらって食事を作って貰っている状態だった。
「美味しいです!」
「ははっ、良かった。紅子ちゃんは毎回褒めてくれるし、とっても美味しそうに食べてくれるから作り甲斐があるよ」
「そ、そうですか」
嬉しそうに笑い、紫延は手作りの野菜ジュースを自分の分と紅子の分を運び、置いた。
紫延の苗字は、龍塚。
ショートカットながら長めの前髪を横に流した黒髪のナチュラルヘア。
細身で無駄な肉もついていないが、いつも姿勢が良く、
重いフライパンも平気で長時間扱うし、重い物も平然と持ち上げる為、筋肉はきっちりとついている模様。
目は細めだが、小さいわけではない。
瞳は穏やかなこげ茶色、鼻は少し高めで、唇は薄い。
だが、整ってはいるが、凡庸。
悪い面はないのだが、どうにもぼんやりとした印象になってしまうのが紫延だった。
夫妻が並ぶと、巳春の美女っぷりに存在感が負けてしまう。
しかし、紅子はそんな紫苑に違和感を感じている。
二十八歳というには、落ち着いていて包容力があり、どんな時でも焦らない。
いつでもしっかりと、根を張っている大樹のように、紅子の悩みも途中で投げ出さずに聴いてくれるのだ。
そして、落ち着いた声にとても癒される。




