密やかな異変と目に見える異物
異変は、何時からあったのか。
密やかに、緩やかに広がっていた軋みは、気が付けば大きくなっていて。
それなのに。
平穏が続いていること、それこそが異常であると、誰も気が付けなかったのだ。
***
「——治安なんて、ずっと悪くなり続けているようなもんだ」
ヴォルケの言葉に、娘はスッと目を細めた。
ひょんなことから始まった関係は、そのままずるずると習慣となりかけていた。
——他の男とは寝るなとヴォルケが土下座し、娘が気紛れを起しただけなのだが、周囲には、ヴォルケが娘を騙したのではないかと勘ぐられている。
全くの濡れ衣であるが、ヴォルケがそれを晴らす機会は恐らく訪れまい。
事後の気だるげな空気の中、娘は調査が進まないことをぼやいていた。
そもそも、仮想敵国の様な扱いを受けている国家の貴族である娘がローディオにいるのは、要人の襲撃事件を調べる為だ。
それが終わらないうちは、故郷の土を踏むことも叶わない。
それなのに、その調査が遅々として進まないのである。
襲撃事件の犯人が、ローディオの貴族であったことも大きいが、何処かで妨害を受けていると、娘は面倒臭げに言う。
平民でも一応将軍なのだから、心当たりを言ってみろと娘から無茶ぶりを受け、ヴォルケは少しばかり考え込んだ。
先の襲撃事件の被害者は、娘の国の外交官と、教国から派遣された司祭であった。
どちらも、警護を受けてしかるべき存在。
犯人の貴族も少しばかり知ってはいたが、はっきり言って、戦いに関してはドがつく素人だ。
——その犯人が襲撃に用いた魔法具が無ければ、娘がこの場にいなかったのは、間違いない。
本来、人々を喰らう魔物を制する為に生み出された魔法具は、人に向ければ容易く惨劇を引き起こす。
それ故、ローディオでは、攻撃性の高い魔法具の取引や所持には厳しく規制が掛けられている――筈だった。
けれど、ここ数十年の間に、法の目を逃れた魔法具が流通する様になっていたのだ。
実際、ヴォルケも、違法な魔法具による襲撃を受けたことがある。——たまたま下賜されたばかりの魔道器——魔法により作られた武具——で、攻撃ごと叩き切れたので、大事には至らなかったけれど。
今回の事件で使用された魔法具も、不正に売買されたものであった。
生産地が限られる魔石を使用するので、基本的に魔法具と言うものは高価だが、不正に売買される魔法具の多くは粗悪で、比較的安価なものもある。
粗悪な魔法具は、最悪一度使用するだけで壊れたり、暴発の危険性があったりするが、それでも、人を狂わすには十分過ぎる力だった。
数こそ少ないが、けれど、確実に、粗悪な魔法具を用いた犯罪が増えているのをヴォルケは肌で感じていた。
尤も、ヴォルケが知っているのはそのくらいだ。
魔法具を不正に流通させている者も、粗悪な魔法具を密かに手に入れている者も、ヴォルケは把握していない。
ヴォルケの話を聞いた娘の睫毛が、ふるりと揺れた。
「……城下の様子も、確認するべきか……」
「なら、付き合うぞ。 俺と一緒の方が、良い目眩ましになるだろう?」
そう言って頭を撫でるヴォルケを、娘の黒瞳が見返す。
丁度良い位置に頭があるので、ヴォルケは無意識に娘の頭を撫でる様になっていたが、娘がその手を拒んだことはない。
娘の夜闇に通じる黒い瞳は、ともすれば吸い込まれそうになると、錯覚する。
不意に、深々とした眼差しが、瞼の下に閉ざされる。
「……頼んだ……」
伸ばした手を振り払われなかったことに、ヴォルケは酷く安堵した。
◆◆◆
ソリニア大陸中央部に位置する大国、ローディオ。
その首都ハイリッヒは、白壁の建物と石畳の通りが瀟洒な街並みを作りだし、『ソリニア中央の貴婦人』とも呼ばれる。
しかしながら、王城付近では白で統一された街並みも、中心部から離れる程に雑多な色が混じり出す。
周縁部に至っては、雑然とした風景の中に、白い色など見つけるのは困難だ。
けれど、多くの人々が行き交う雑踏で、異質を見出すことは案外容易い。
「……」
「なんだありゃ……」
堆く積み上がった皿が、テーブルの上に乱立していた。
店内と繋がったテラスにも、椅子やテーブルが置いてある形式の飲食店であったが、テラス部分のテーブルに座っていたのは、一組だけだった。
形容するなら、大道芸集団とでも言うべきか。
先程から、空の皿を量産しているのは、ぶかぶかの黒いシルクハットにだぼだぼの黒いコートを身に着けた、男らしき不審者。
不審者の頭の上では、不吉なくらい毛艶の悪い黒猫が、丸くなっている。
そして、その周辺では、おかしな具合に歪曲されたウサギだの竜だののぬいぐるみが、ころころ転がっていた。
確か、魔法具の中には、自律する人形があるそうだから、あれもそうなのかもしれない。
ヴォルケも色々な人間を見てきたが、ここまで珍妙な集団は初めてだ。
怪しさ満点なのに、あまりにも堂々とし過ぎていて、憲兵に引っ立てられる気配も無い。
「——ご馳走様でした」
満腹になったのか、不審者はそう言って、両手を合わせた。
その仕草は、ローディオより東方の国のものであったような気がする。
不審者は、懐から重たげな袋を取り出す。
「お代って、これで足りるのか?」
不審者が袋の中から摘み上げた物は、宝石に似ていたが、宝石には無い、独特の輝きを有していた。
――それが何か、ヴォルケが認識するのと、隣にいた娘の気配が掻き消えるのとは、一体どちらが早かったのか。
「――何をしている」
「ぶっ?!」
テーブルが真っ二つになるのではないか、心配になる様な勢いで、不審者の顔面が天板に激突した。
不審者の頭にのっているのは、ヴォルケの隣にいたはずの娘の足裏である。
淑やかな笑みを浮かべていた顔には、露骨な呆れと苛立ちが浮き彫りになっていた。
……娘の被っていた猫の皮が行方不明になっているのだが、人目の多い場所で素を晒しても大丈夫なのだろうか?
「高純度の魔石を飲食代代わりに出す奴がいるかっ!」
「——あだだだだ。 いや、ちっちゃい魔石なんてそこら辺に転がってんじゃん。 食べ物代ぐらいにしか、ならないじゃないか」
不審者の言い分に、娘の目は冷ややかなものになった。
「確かに、神域や龍脈辺りなら、簡単に見つけられるがな」
「痛い、痛い、やめてくれっ! 俺にはご褒美じゃありませんっ!!」
娘にぐりぐりと踏みにじられ、不審者は悲鳴を上げた。
「——お前は、ここの店主を殺す気か?」
「はえ?」
娘の唐突な話の方向転換に、不審者は間抜けな声を出した。
「物の価値など、場所によって変わるものだ。 ローディオでは、お前が持っている魔石一つで、平民なら一年は暮らせる。 ――そんなものを、戦えない人間に持たせて、無事で済むと思うのか?」
「……あ~……」
不審者も、漸く自分が何をしようとしていたのか理解したようだった。
娘は溜息を吐き、不審者の頭から足を退かす。
「金はどうした?」
「あはは、魔石しか持ってないや……」
明後日の方向へ顔を向ける不審者を見て、娘は額に手をやった。
このままでは、無銭飲食になるではないか。
「あっ?!」
「どうした?」
唐突に声を上げた不審者は、不躾に、首を傾げる娘を指差した。
「お前、竜鍋未遂事件のウェインさん家の人だろうっ!」
……竜鍋未遂事件って……。
一体、娘の家は何をやっているのだろうかと、ヴォルケの頭の中では盛大に疑問符が踊る。
と、娘に足払いをかけられ豪快にすっころんだ不審者が、再び娘に踏みつけられた。
「ひどいっ?!」
「百年以上前のことを、今更蒸し返すんじゃない」
娘の機嫌の悪さから察するに、竜鍋未遂事件とやらは、あまり触れない方がいいらしい。
いつの間にか避難していた黒猫と、ころころ転がっていたぬいぐるみは、隣のテーブルの影から、心配そうに不審者を見ている。
「……羨ましい……」
「いや、代わってくれよ、マジで」
何処かの誰かの呟きが聞こえたらしく、ヴォルケだけではなく、娘も固まった。