閑話 紅の地竜と盤面の女王
点在する巨木の合間を縫うように、透明な水を湛えた泉がいくつも連なっていた。
清浄な流れと共に、苔むした岩が微睡んでいる。
風が吹き、水面に落ちる木漏れ日が形を変える。
柔らかな日差しの中、緑の中に鎮座する紅が身じろぎする。
アレクサンドリアの神域、ウェールズの大森林の深奥にて、紅の地竜がゆっくりと首を持ち上げ、その金色の眼を細めた。
◆◆◆
気分転換をしようと思っていたのに、それどころではなかった。
「——早まるな、エリザベスっ! 血族殺しは止めるのじゃっ!!!」
地神の化身たる少女は紅の髪を振り乱し、転びそうになった女を羽交い締めにした。
ぺったんこの靴を履いているにも拘らず、何もない平坦な床の上で滑るとは、地神には女の運動能力の程が未だに謎だ。
「——ふぁ?」
ぽけっと、間の抜けた声を出す女は、何が起こっているのか、いまいち把握していないらしい。
自分一人の身体ではないのだから、転ばないようにもっと気をつけろと、地神は思う。
「紅姫、申し訳ない」
やや掠れた声に目を向ければ、地神の【人形】の後ろで、寝台に横たわった老人が苦笑していた。
老人を守る様に立つ地神の人形は、不吉なくらいどす黒い液体を湛えたカップを手にしている。
それは、女が祖父に出そうとした紅茶(仮)であった。
女は、祖父の元へ紅茶を運ぼうとした時に、滑って転びかけ、ついでに、祖父へ淹れたての紅茶(?)をぶちまけかけたのだ。
——普通に飲食可能な茶葉を使用した筈なのに、女の手を介すと、一目で飲んではいけないと分かる液体になるのが意味不明である。
「あらら。 お茶、入れ直しますね」
「茶葉が原料の毒など要らぬわっ!」
ほわほわ微笑む女から、地神は茶器を取り上げた。
一部技能が壊滅的な女よりは、自分の【人形】に茶を入れさせる方がまだましだ。
老いてはいるが、年齢が測れない見目の【人形】が、微笑まし気に地神から茶器を受け取る。
当代の曾祖父にあたる王鞘を素体とした【人形】は、歴代でも一番まともな人間を使用しているだけに、傍に侍らせていて一番気楽だ。
例えば、歴代最凶とか、歴代最狂とかが元になっている【人形】だと、気が休まる暇も無い。
基本的に、王鞘は戦闘能力と人間性が反比例の関係になる為、それらが両立している【人形】は貴重な存在なのである。
「そう言えば、紅姫」
緩やかに波打つ髪を揺らし、女はおっとりと首を傾げた。
「——貴女の背に在るのは、リアの縫いぐるみではないかしら?」
女の、濃い目の茶色の瞳は、地神が背負っているクマの縫いぐるみに向けられている。
茶色でふわふわとしたクマの縫いぐるみは、経年による多少の劣化はあるものの、新品に近い程綺麗なままだ。
「そうだが、これはリアが妾に支払った代価ぞ。 もう妾のものじゃ。 ——これで新たな【人形】を作るところでの、仕上げの為、手放せぬのじゃ」
「はあ……」
堂々と言ってのける地神に対し、女の顔には困惑が浮かんでいる。
——地神の仮の姿は、目鼻顔立ちがはっきりとした美しい少女だ。
そんな少女に、可愛らしいクマの縫いぐるみは、もう吃驚するほど似合っていない。
「……ただの縫いぐるみで、【人形】などできるのか?」
寝台の老人の問いに、地神は胸を張って答えた。
「ただの縫いぐるみではないから、【人形】の素体に使うのじゃ。 リアの影響で、これはもう呪いの縫いぐるみに近いからの」
「ええ~」
幼かった臣下へ送った縫いぐるみが、知らぬ間に呪いの縫いぐるみに進化していた女は、情けない声を上げた。
「それは、また……」
老人もまた、形容し難い表情になる。
「あれもまた、お主らと同じく厄を招く星回りだからの。 ——いや、澱への親和性はお主達より上よな。 あちらでも、不死者や呪詛が寄ってきたようじゃからな」
そう言って、地神は【人形】が淹れた紅茶を啜る。
女が淹れた謎の液体とは異なり、こちらはきちんと紅茶の色になっている。
地神の言葉に、女は顔色を変える。
「あの子は」
「今のところは、無事じゃ」
正直なところ、澱や呪詛で当代の王鞘を害することは、限りなく難しい。
——ヒトの悪意を塗り固めた暗闇の中で、蠱毒の呪詛を受けて尚、産声を絶やさなかった娘だ。
蝋燭の灯りで燎原の火を燃やせぬように、ちんけな呪詛ではあの娘の呪詛は上書きできない。
地神の返答に、女は安堵したようだった。
地神は背中に括りつけた縫いぐるみを、ちょんちょんとつつく。
「これで作る【人形】は、王鞘のものとは毛色が違うものになるのじゃ。 王鞘以外でも、使える駒は多いに越したことはないのじゃ。 妾は死にとうないからの」
概念上の『神』とは異なり、地神にも死がある。
だから、ウェールズの大森林は、一度主を喪い、深い深い疵を負った。
その疵は、当代の地神にも陰を落としている。
口の悪い王鞘たる娘が評する様に、彼女は地神としてはポンコツなのだ。
しかしながら、地神はそうやすやすと討たれる気はない。
その為の『神域の番人』で、その為の【人形】だ。
——嘗て、世界を呪った迷い子と贄の子との間に、地神は約定を交わした。
彼等に連なる者達を、ヒトの枠から逸脱させる事と引き換えに、地神はいずれ己の元へ来る『神殺し』を弑する為の剣を得たのである。
それ以来、人族がより優秀な家畜を選抜するのと同じように、地神は王鞘の血筋に手を加えてきた。
尤も、主君第一な王鞘の、地神の扱いはいまいち良くないし、ウェインの血統が地神――ひいては、アレクサンドリア――を見限る権利もあるが。
地神は己の為に【人形】を作っていたが、それはあくまでそれぞれの素体との契約に基づいたもので、他者の心までを縛る気はなかった。
地神の言葉に、二人の王は苦い表情を浮かべる。
「――紅姫、すまなかった」
「仕方がなかろう。 お主があの時、《王剣》を手放す決断をせねば、面倒なことになっていたのじゃ」
図らずも、王鞘の弱体化の一助を担ってしまった老人の言葉に、地神は首を振った。
『神殺し』への有用な武器だった《王剣》は、数十年前に教国の倉庫の奥深くへ放り込まれてしまった。
地神は、『暗黒期』と呼ばれたおぞましい時代の、前のことを思い出す。
じわじわと足元へ広がる、嫌な予感は、気が付いたらなだれ込むように最悪へ転がり落ちていった時代を、知っていたが故だろう。
何かがある。
誰かが、いる。
——凶星に、大乱の中に在れ、と、望む者が。
だが、地神とて、神の末席に在る存在としての矜持がある。
死にたくはないし、死ぬわけにはいかない。
地神の胸の奥底に在るのは、振り切り、磨り果て、それでも、歩き続けた者達だ。
彼女が死ねば、もういなくなった者達が、二度、死ぬことになる。
クマの縫いぐるみを見ていた女王は、ふっと、遠い目をした。
「……昔は、ヴィルについて回って、すごく可愛かったのに……」
およよ、と彼女は両手で顔を覆った。
「——あんなに、凶暴になっちゃって……」
「そうじゃのぉ……」
クマの縫いぐるみを抱きしめていた、黒髪自慢の女の子を思い出し、地神もまた遠い目になった。




