校正者のざれごと――フリアコと猫だらけのホテル
私は、フリーランスの校正者をしている。
「春休みになったら、行ってみたいところがあるんだ」
パソコンに向かっていると、下の子が話しかけてきた。仕事の手を休め、話を聞く。すると、泊まってみたい場所があるんだという。
それは、太平洋を臨む高台に建てられた、一軒のホテルだった。
「そこね、ホテルの中に猫がたくさんいるんだって」
どれどれ。ネットで検索してみる。ホテルではたくさんの保護猫が暮らしていて、近所の地域猫にも開放されているらしい。写真には、ロビーのテーブルや床でくつろぐ猫たちの姿がある。うわあ、かわいい。こんなところに滞在できたら、きっと癒されるだろうな。
すると、ホテルの紹介ページの一節にこんな文言があった。
――フリーアコモデーションという滞在スタイルに興味はありませんか?
フリーアコモデーション(フリアコ)とは、食費・宿泊費などの提供を受ける代わりにホテルの運営業務を手伝うという滞在スタイルだ。収穫期の農家などでもこういった募集をしていることがある。収穫を手伝う代わりに滞在費などが無料になり、それ以外の時間を観光にあてられる。費用を抑えることで、通常の旅行より長期滞在もできる。今回のホテルでは、1日4時間のお手伝いで滞在費と朝夕の食事が無料になるという。「へえ、そんなのあるんだ。タダで泊まれるってことだよね」私の説明に、下の子は目を輝かせている。さっそく、ホテルにLINEで問い合わせてみるという。
下の子が自分の部屋へ戻ったあと、あらためてホテルのホームページを見てみる。
小さな町のはずれの高台に建つそのホテルは、すぐ目の前に海が広がり、夜は星がきれいに見えるという。働きながら暮らすように旅をしませんか? なんて素敵な響きなんだろう。私のようなフリーランスの校正者にはぴったりじゃないか。
私の所属する校正プロダクションは都内にあるが、外校正のスタッフには地方在住の人も数人いる。宅配便や、ときにはメールでのデータのやり取りだけで仕事が完結するので、仕事の場所を選ばないともいえる。つまり、こんなふうに遠く離れたホテルに滞在しながら仕事をすることも理論上は可能なのだ。
(ここからは、しばし妄想にお付き合いください)
朝、目覚めてカーテンを開けると、そこには朝日を浴びて輝く海が広がっている。大きな窓からたっぷりと日の差し込むレストランで朝食を済ませると、チェックアウトのお手伝いや、部屋の掃除などのホテルの仕事をする。そのあとはラウンジの窓際の席にノートパソコンを持ち込んで、調べものをしながらゲラ(校正紙)に目を通す。昼には町へ出て、地元の商店でお弁当を買う。午後は部屋に戻って仕事の続きをし、夕方はホテルの夕食の手伝い、そして夜には新鮮な海の幸とともに美味しいお酒を味わう。夜空には満天の星。
ああ、なんて理想的な働き方なんだろう。そして、このホテルにはたくさんの猫がいて、都会の生活に疲れた気分を癒してくれる。1か月、いや、1週間でいいから、こんな生活がしてみたい。
(妄想ここまで。お付き合いいただきありがとうございます)
いま担当しているゲラは、不動産に関する実用書だ。自宅を購入する際に気をつけること、購入と賃貸ではどちらがお得か、購入の際に使える制度の解説など。比較的得意な分野でもあり、それゆえに細かい部分までいちいち気になってしまう。でも、担当しているゲラは初校ではなく再校で、いったん別のスタッフも確認している。重箱の隅をつつくような指摘はきっと採用されないだろう。もやもやを抱えながら、できるだけ余計な指摘はしないように読んでいく。最低限、このままでは読者に誤解を与えてしまうのでは、というところだけを拾う。あらぬ妄想に心奪われてしまうのは、きっとこんなふうにストレスのかかる仕事をしているからだろうな。
「小山さん、毎年担当してもらってる問題集の校正、今年も来てるんだけど」
納品を終えると、さっそく校正プロダクションの社長から次の仕事の声がかかる。3月は、年末進行のある12月についで忙しい月でもある。指定された納期はかなり厳しいものだが、もちろん断ることはできない。
こんなふうに納期の厳しいものを受けていると、1日の作業時間をそれなりに確保しなければ締め切りまでに終わらせることができない。もし1日4時間ホテルの業務を手伝っていたら、とうてい時間の確保は無理なのだ。つまり、フリアコなんて優雅な仕事の仕方はできるはずもない。やっぱり、妄想は妄想でしかないということね。
「LINEで問い合わせした返事が来たんだけどさ」
下の子が再びやってきた。当該ホテルからの返事は、「高校生の受け入れはしておりません」というあっさりしたもの。まあ、確かにそうだよな。未成年だし。期待が大きかっただけに、下の子はずいぶん残念がっていた。「まあ、いいや。代わりに猫カフェにでも行こうかな」おいおい、ポイントはそっちか。確かに、猫に癒されるのも悪くないけどね。
海と星空に支配されていた頭を無理やり現実に戻し、問題集の校正に取りかかる。この仕事が終わったら、今度こそ海沿いのカフェにでも行ってみるか。山手のドルフィン(注:ユーミン好きならわかるはず)もいい。いや、まずは仕事仕事。やれやれ。




