3-₍ᐢ.ˬ.ᐢ₎ (前)
₍ᐢ.ˬ.ᐢ₎{3-₍ᐢ.ˬ.ᐢ₎はちょっと長いので前・後編に分けて公開します。
は自由ですが、スタッフに必ず申告してから出てください。フォームから受け付けてます。夕食会イベントは十八時からです。参加される方は……」
凛斗のツアーは本州と島をつなぐ小さいフェリーに乗り換えて、離島に到着した。座面がギシギシと音がするフェリーを降りたのはツアー参加者とスタッフたちと、診療所の先生の紹介で本土の病院で診てもらってきたのだけど検査がいっぱいあっていろんなところに連れまわされて本当に難儀した疲れたと言い合っているおばあさん二人だけだった。
この島で泊まる予定の宿は、フェリー乗り場から五分ほど歩いたところにあった。五分ほど歩く道のりですれ違った人間はいなかったし、ましてやうさみちゃんロボットもいない。コンビニもなく、昔ながらの家並みと、鉄くずや砂利が積みあがった作業場のようなところくらいしか建物がなかった。波の音と、海から吹き付ける強い風の音と、遮るもののない太陽の光がつくる穏やかな濃淡だけでできているのんびりした島。
背の高い垣根に囲われた大きめの民家にしか見えない門柱を通って広い玄関に入ると、たたきのすぐ向こうに木枠とガラス戸で囲われたカウンターがあり、民家の住人のようなおばさんが出てきて迎えてくれた。カウンターの木枠には地域のお知らせのちらしが秩序なくぺたぺた貼ってあって、日本には絶対に生息してなさそうな色の造花が入った細長い花瓶は埃をかぶっていた。
ツアー参加者は旅館のまわりを散策したり、すぐ近くの海岸へ出かけたり、めいめいの部屋で数日ぶりの陸上で寛いだりしている中、羽哉たちボランティアスタッフは今晩のイベントの準備に追われている。
十日間という限られた日程だからツアー中のイベントはぎゅうぎゅうに詰まっている。朝も昼も夜も関係なく、時間を埋めつくすようにイベントが催される。ツアー参加者は都合のよい時間に参加するが、ボランティアスタッフは交代勤務でイベント設営や運営、撤去作業をおこなう。ツアー前にボランティアスタッフに向けて開催された二週間の研修の疲れもまだ残っていて、羽哉は寝不足と倦怠感に襲われながら準備を手伝っていた。
一階にある広めの和室でこのあと、夕食会という名のイベントが行われる予定になっている。和室の中でせわしなく働いているのはボランティアスタッフのみで、凛斗も、彼のスタッフも、いまはここにはいない。フェリーで移動しているあいだは凛斗が必ずこの船内のどこかにいたから、ひとつの空間に閉じ込められている事実があったから、偶然による遭遇への期待値は高かったし、そのぶんつねに緊張を保つことができた。しかしこうして知らない離島に上陸して、フェリーよりも広い土地で、土地勘もない中で、凛斗はこの旅館にはいなくて、羽哉は気が抜けている。
さっき運び込まれた仕出し弁当が積みあがった山からのたべもののにおいと、和室の隅に積まれた座布団や、畳や壁に染みついた積年のにおいと、潮のにおいと、ボランティアスタッフだけが閉じ込められている。仕切るのはボランティアスタッフのリーダーを任命されたひとで、リーダーはきつい口調で設置するテーブルの位置や、触るとしっとり感じる座布団を敷く位置などを指示している。
「夕食会のあとは今日から始まるセミナーがあるから。そういうこともしっかり考えて席をつくって」
座布団を運んでいた羽哉たちに向かってヒステリックな声が響いた。席に関する明確な指示書はない。羽哉はなにも考えずに、置かれたテーブルの脇に座布団を並べていただけだった。「あなたなにも考えずに並べてたでしょう?」。ヒステリックな声が追いかける。羽哉と、同じく座布団を配置していたボランティアスタッフは作業の手を止めて立ち尽くし、ただ黙っている。
「ねえ、どういう配置にしたら最適か考えてみて?」
リーダーのヒステリックな声が続く。最適な配置? 羽哉は脳で言葉を反芻する。最適な配置の意味を理解することができない。リーダーは続ける。「あなた。どうしたら最適だと思う?」。羽哉への質問。でも、質問の意味がわからないので答えることができない。答えるべき答えを導きだすことができない。ただ口から出るのは口ごもった戸惑いの破片だけだ。「えと。え……とあの」。
「わかった。あなたにはあとで聞くから。じゃあそっちのあなた。どう思う? 最適な配置」
矛先が羽哉から逸れたけど安堵はできなかった。もう一度同じ質問をされて、今度こそは答えなければならない。答えのわからない答えを。質問の意味についてもう一度考える。けれどそれは絶対に解けない難問を解こうとするのと同じで、なにも閃かない。脳が働こうとしない。追い詰められて、羽哉は頭がぼうっとしはじめる。
静かな和室の中では、その他のボランティアスタッフがイベントの設営を続けている音が控えめに響いている。二〇〇ミリリットル壜に入った烏龍茶やオレンジジュースの入ったケースを運ぶ音。うさみちゃん印のお水が入った段ボールが積まれる音。畳と足の裏が擦れる音。そこに、もう一人の座布団を持ったままのスタッフが絞り出す声がにじむように発せられて、畳の上に落ちる。「えとちょっと。わか、りません」。その声に被せるようにヒステリックな声が部屋を支配するように続く。
「わからないってことはないでしょう。考えてないだけ。考えればわかることでしょう」
座布団を持ったままのボランティアスタッフはリーダーに否定されて顔色を失う。焦燥が羽哉にも伝わってくる。それが羽哉の気分まで焦りの色に変える。胃のあたりがにろにろして落ち着かなくなる。相手の、リーダーの質問に対する完璧な答えを提示したいと思うのに、脳のなかは雪原のように真っ白だ。思考が初期化されたみたいに、どの端緒もつかめない。
考えてないだけ。考えればわかることでしょう。この言葉から生み出されるはずの答えを脳の中で必死に探す。考えればわかる。考えてないからわからない。考える、という言葉の意味が次第にわからなくなる。睡眠不足と疲れも相俟って、羽哉の頭の動きはひどく鈍い。錆びたネジみたいに、どんなに力を加えてもまわらない。脳の錆びがおでこの真ん中のあたり、眉間の上のあたりから目の奥へと広がっていくのがわかる。視点が定まらなくなっていく。自分がいまどのように立っているのかわからなくなる。
そのとき、リーダーは右上のほうへ目玉を動かして、右耳に手のひらを当てた。「……はい。はい。かしこまりました」。誰かに応答している。たぶん雨町とか、凛斗直下のスタッフ。所詮リーダーという肩書には〝ボランティアスタッフ〟という前書きがついていて、凛斗直下の、ブレインレイン社の社員であるスタッフとのあいだにはK2よりダウラギリより高い高い高い無色の壁が聳えている。
「急いで。急いで設営終わらせて。もうすぐ雨町さんが来られるから」
リーダーは頬をこわばらせながら叫ぶ。そして羽哉が持っていた座布団を取り上げて、テーブルの周りに投げ捨てるようにして並べた。そして和室の中を忙しなく早足で巡り、まだ終わっていない設営への指示を――指示というよりはヒステリックな焦りを発散させるために当たり散らしている――出し、忙しなく引き戸を開けて和室の外へ出ていった。
「やば。こわ」
座布団を持っていたボランティアスタッフが羽哉に視線を向けて茶化すように言った。羽哉もつられるように苦々しい笑顔を浮かべて同意をあらわす。
「なんか今朝のイベント思い出したわー。あの雰囲気」
ボランティアスタッフは座布団を適当な場所に置き、リーダーが投げ捨てるように敷いた座布団の角度を直しながら言う。今朝のイベント。羽哉もはっきり思い出せる。ツアー中に催されるイベントは凛斗との交流をはかるお遊びの要素がたっぷり含まれたものが続いていたけど、今朝のイベントからはすこし毛色が変わった。
今日のイベントは今までの楽しい雰囲気ではなく、重苦しいムードに支配された。いつものように凛斗が登場してはじまったイベントは、開始時間が超早朝ということもありいつになくのんびりした雰囲気が流れた。凛斗から参加者への問いかけ。それから参加者から凛斗への問いかけ。それが明確に変化する質問がいっこ飛び出して、次第に場の雰囲気が神妙で重々しくなっていった。
やがて雨町が主導して参加者に問いかけを行う流れになった。参加者のほとんどが抱えている社会的劣等感を刺激するような問答。終わりのない、答えが見つかるまで終わらない問いと、それに答える参加者の重苦しい時間が延々と続く。答える人も、まわりで聞き続ける人たちも、重苦しい空気に心が圧倒される。脂汗が浮かんだり、顔が真っ青になる参加者に雨町は容赦しない。「最高の人生が欲しいでしょう? 魂レベルで成功者になりたいでしょう? 凛斗も、それからうさみちゃんシティの住人たちも、皆この苦しみを経て勝ち組に名を連ねているんです。だったらやるしかないよね? あなたの意見を誰もわかってくれないのはなぜだと思う? あなたを嘲ったひとりひとりの顔を思い出して」。参加者が絞り出すような声で問いに答えると、雨町はあらたな問いをぶつける。参加者の心の深部をえぐり、膿を出すための問答は、経験したことのない〈永遠〉そのもののように感じる。地獄の永遠。
けれど羽哉はこうしたセミナー的な雰囲気に嫌悪感を抱くことはない。なぜなら、羽哉自身が客としてツアーに参加して、同様のイベントが行われたときの強烈な記憶が色濃く残っているからだ。
あのときも問いを投げかけるのは雨町だった。執拗で高圧的な、答えのない問いが長く続いた。あのときも昼夜問わず行われるイベントすべてに参加をしてひどい睡眠不足に陥っていた。重く頭をもたげる強い睡魔と、地獄のように続く問い、高圧的でヒステリックな声、羽哉はまったくなにも考えられなくなった。視界が白くなって、周りにいた人たちも、雨町も、風景もすべてが消失した。やけに目玉が左右に揺れたのを覚えている。
雨町の容赦ない問いは羽哉を攻撃した。答えのない問いと、答えのない問いに対する答えをまわらない頭の中で探そうとするのに、まるで脳が働こうとしない地獄。それが続いて、羽哉は精神の限界まで追い詰められていた。
そのとき、ぱちん、とからだの一番奥でなにかが弾ける音がして――それはこの世でいちばん美しい音だった――世界が一変した。左肩にひどくあったかいものが乗ったのがわかった。羽哉がそちらに視線を移すと、光に包まれた凛斗が微笑んでいた。しかもそれは、凛斗がアイドルとして活動をはじめたころの、少年特有の美しさをもった〈あのころの〉凛斗だった。凛斗は少年らしいソプラノで、優しく言った。『だいじょうぶ? 疲れてるんじゃない?』。
その瞬間、凛斗の周囲に真っ白な光が射した。これが後光だ、と思うのと同時に、羽哉は初めて見る光景に言葉を失った。あんなに重く苦しかった頭も、からだも、一瞬ですべての痛苦が消えた。からだじゅうの血液が浄化されたような爽やかさだけが残って、羽哉が視線を巡らせたすべてがきらきらしていた。イベントが行われていた船室すべてがさっきまでとまるで違って見えた。室内はつやつやに磨かれた大理石でつくられ、そのすべてに満月の光が反射して――太陽の光は手のひらの中に収まって指のすきまから漏れていた――いたるところに美しく活けられた、趣のある花が飾られていた。床にも花びらがちらばっていて、その花びらの上で小さいうさみちゃんたちが踊っていた。花びらはうさみちゃんたちが踏むたびにカラフルに色を変え、甘い香りがたちのぼってきた。
小さいうさみちゃんたちは踊りながら、わにゃわにゃした声で羽哉へ話しかけてきた。「うさみちゃんシティにおいでよ。うさみちゃんシティはもっときれいだよ」。「うさみちゃんシティはまいにちがたのしいんだよ」。小さいうさみちゃんたちは小さいうさみちゃんサイズのお花を両手に持って踊り、羽哉を取り囲んでわにゃわにゃ話し続ける。小さいうさみちゃんたちのリズムは、羽哉がいままで感じたことのないグルーヴをうみだしていた。
羽哉のからだが浮き上がり――浮き上がった視点は、花びらだらけの床の上に座ったままの羽哉を見下ろしていた――肉体から離れた羽哉自身が凛斗の肉体の一部と重なった。小さいうさみちゃんたちがわにゃわにゃの声で歌い始める。「うさみちゃんシティへようこそーううう(わうわうのコーラス)」。
ツアー最終日、羽哉は用意されたうさみちゃんシティ行きのバスに迷わず乗り込んで、そのままうさみちゃんシティへ移住した。同じツアー参加者も同様だった。一人だけ、バスに乗らなかった人もいたけど、ほとんどの参加者がそのままうさみちゃんシティへ向かい、そのまま住人になった。誰もがバスの中でツアー中に体験した不思議なできごとを披露し合っていた。
バスから初めてみたうさみちゃんシティはあまりにきらきらしていて眩しかったのを覚えている。まるで宝石がちりばめられたような街だと羽哉は思った。というか実際に宝石がちりばめられていた。あのときの感動は忘れることができない。
ようするに、今回のツアー参加者も同じだと羽哉は思っている。最終的に、自分自身を浄化することですべてが輝く世界へ導かれるのだ。いまはしんどいけど、それを超えれば世界が美しくなる。多幸感だけでできた美しい世界がひろがる。それは今までの人生で、黒いインクで塗りつぶされていた世界の、汚された部分がきれいになって本来の美しい世界に戻るということだ。
和室の向こう側、玄関のほうがにわかに騒がしくなって人の声が聞こえてきた。おかえりなさいませ、旅館のおばさんが出迎える声がする。周辺へ出かけてきた参加者たちが帰ってきたのかもしれない。羽哉はさっきまでまるで気の抜けていた魂が戻ってくるのを感じた。もうすぐ凛斗がここに来る。かもしれない。それは心地よい緊張をもたらして、作業を続ける羽哉のからだを軽くさせる。さっきまでひどく長く感じていた、どろどろの血液みたいな時間が、いまようやく流れ出した。永遠の四分の一くらいに感じられた一秒が、いまは原子時計で正確に淀みなく流れていく美しい一秒




