2-₍ᐢ.ˬ.ᐢ₎
まえだが、回収業務という仕事を終えた灯都は、次の回収依頼が入るまでとくにすることがない。生きるとはそういうことだ。箱を降ろした建物からブレインレイン本社の、いちごのケーキ型の建物の脇を通って帰ろうとした灯都は、その途中で知っている顔を見つけて路肩に停まった。灯都とおんなじ制服を着てるからすぐわかる。ハザードランプの時間を刻むようなリズムに合わせて助手席側のウィンドウをさげる。歩道を歩いていた和玖が気づき、開いたウィンドウの内側の灯都へ手を振った。
「灯都、帰るの? これから?」
「うん。荷物おろしてきたから帰る。和玖さんは? 帰るなら乗ってく?」
「や、呼ばれていまから仕事。ありがと。……あ、やべ遅刻しそう。じゃね。時間ってめんどくせーな。なんでおんなじタイミングを大勢で共有しなきゃいけないんだろ」
「だよなあ」
そして和玖は忙しなく灯都の車の脇をすれ違って――とはいえ走るわけではない――行った。バックミラーで和玖の、トガに似た制服の裾がはためく後ろ姿を見送りながら、灯都は溜息をつく。和玖とおんなじ気持ちだからだ。
うさみちゃん市はかつて、うさみちゃん市という名前ではなかった。便宜的に住人たちがそう呼んでいただけで、べつの、もともとの自治体名があった。うさみちゃん市はかつて、時間の概念がなかった。そういう街を望んでいる住民たちが移住してきて、新しいルールをつくった。それをぜんぶ、ブレインレイン社が造り替えた。共通する時間の復活。制服の導入。それが現在の〈うさみちゃん市〉。
和玖はたぶん新しい工事のために駆り出されているのだろう。〈うさみちゃん市〉になってから、この街はつねにあらゆるところで工事が行われている。和玖はかつて、このうさみちゃん市に、なにもなかった土地に、鹿児島の火山灰をつかったコンクリートで永久的に持続可能なコンクリート建造物をつくっていた人間のひとりだ。
ブレインレイン本社として使われているホールケーキ型の建物も、その周辺に建ついちご型の建物も、彼らがつくった。かつての街には太陽光パネルがびっしり置かれていた。耐用年数を迎えたパネルを撤去した空っぽで何にも転用できない土地に移住してきた和玖は、かわいくて永久に使えるものをつくった。移住してきたばかりの住人たちは、灯都を含めて、いちごのホールケーキのかたちをしたコンクリート建造物が――それは古代建築と同様、永久に使い続けることができるとされている――じぶんたちの象徴のように感じて完成を歓喜したのを憶えている。
いちごケーキの建物、ブレインレイン本社が次第に遠ざかっていく。バックミラー越しにいちごのてっぺんをちらっと見た灯都は思う。あれはもう象徴でもなんでもない。かなしいけど。
新しく建ったいちごのかたちの施設には、たくさんの観光客が群がっていた。「あの建物はなに?」。灯都はウィルに尋ねる。ウィルは躊躇に似た長さの、素早い熟考の末に建物についての情報をつらつらと話した。うさみちゃんガチャが百二十台並んでいて、あらゆるアイテムがガチャの中には入っている。レアなものもあるし、おみくじのような要素もある。そのお隣の建物には新旧のクレーンゲーム筐体ばかりが集まっていて、クラウン602やスキルディガ、ラッキークレーン、UFOキャッチャー、スーパーチャンス、ワンダーハンティング、それから最新のものまで揃ってる。うさみちゃん市外や、国外からの観光客に人気。ウィルの説明のあいだ、灯都は建物に併設された駐車スペースに車を駐めた。ウィルはまだ説明を続けている。「この施設をデザインしたのは」ウィルは説明を続ける。知らない名前がたくさん出てくるのもいつものことだ。「和玖さんが関わってんじゃないの?」。灯都が聞くと、ウィルはすこし考えて答える。「作業員の中に、似た名前がある」。作業員。うさみちゃん市に建つ持続可能なコンクリート建造物のほとんどは和玖がつくったものなのにと灯都は思う。ブレインレインの作業員にされちゃったんだ。という言葉は意識的に飲み込む。和玖の功績もアイデアも、目立ちたがりの誰かが全部勝手にひとり占めしようとしてる。この街にあったものはすべてそうだ。
フロントガラスの端に、交差点に立つうさみちゃんロボットが映った。まるでそこに建てられた立像みたいに、一瞬だけ、灯都には見えた。はっとした。次の瞬間うさみちゃんロボットは道路を渡ってくる人間たちに笑顔を向けて大きな身振りで歓迎を伝える。「ようこそ! 楽しんでいってね」。あれは誰かが勝手に作ったうさみちゃんの人格。灯都は吐き気に似たいやな気分でいっぱいになる。ウィルはそれに気づいて「灯都、だいじょうぶ?」と首を傾げて尋ねる。これはウィルの優しい性格。
駐車スペースには車よりも、多くは観光客が乗っているうさみちゃん型のりもの『ピクピク』がたくさん駐まっている。四輪のキックボードみたいなかたちをしていて、前面に直立するうさみちゃんの形が摸されていて、耳がハンドルになっている。うさみちゃんの背面に操作パネルがあって、デバイスを置くとマップや決済情報とつながるようになっている。ピクピクはシェアリングサービスで、うさみちゃん市にはいまもポートが増え続けている。
うさみちゃんガチャの建物には借り物か、ネットの深海から探して拾ってきたみたいな名前が付けられていたが、灯都はそれを確認せずに入口へ向かう。建物のなかに入るとうっすらと柑橘のような香りが漂っていた。オケージョンノート。この街では、オケージョンノートと呼ばれる人工的に調合された香りが、人間が気づかないほど軽微に、あらゆるところで噴霧されている。こういった商業施設では〝消費を促すための香り〟が香ることが多い。
うさみちゃんの耳のあいだから幸せのにおいがするのと同じで、住民のすべての生活の中に香りがついている。ようになったのはいつからだったか憶えていないが、この香りをつくった調香師である絢吏も和玖と同じころにこの街に移住してきて、その頃はまだ、なんにもない街の〝街のにおい〟を収集するために活動していた。いまは和玖と同様、ブレインレインの中に時間とルールとともに閉じ込められている。それは灯都も同じだ。
施設の内部にはパステルオレンジとパステルピンクの、飲料の自動販売機くらい大きいガチャガチャのマシンがたくさん並んでいた。全体的に丸みを帯びたシルエットで、表面はつやつやしている。ガチャガチャだけど中身がまったく見えない。パステルオレンジやパステルピンクの筐体にはレバーと決済用の読み取り部分とカプセルが吐き出される排出口があるだけで、中身がなんなのかまったくわからない。
それでもここに集まっているたくさんの人々は、たくさん並んでいるガチャガチャのどれかを選び、レバーを回している。プラスティックボールを開いて中身を確認すると、喜んだり、がっかりしている。その中を灯都はゆっくり歩いて人々や施設の内部を観察した。隣を歩くウィルは、施設内部を歩いているたくさんのうさみちゃん――所有者と一緒にいるうさみちゃん、スタッフとしてのうさみちゃん、ここにもうさみちゃんはたくさん居る――とすれ違うたびに挨拶している。「ぽこぽこ」。うさみちゃん用語。この四文字の中に膨大な情報が入っているらしい。それも、ぽこぽこという言葉の中に毎回違う情報が入っているのだと灯都が知ったのはわりと最近だった。ウィルはあらゆるうさみちゃんとすれ違うたびに「ぽこぽこ」と言っているけど、個体ごとに違う情報を交わしているのだろうと思う。
ガチャガチャの施設内で楽しんでいる人々は、うさみちゃん市の制服を着ている人よりも観光客のほうが――彼らは観光客専用の制服を着ている――多い。観光客からは、いつものように、うさみちゃん市に訪れる人々の一部がそうであるように、彼らからなにか出ている気がする。それが灯都には、恥とか、恐れ、羞恥、をはらんだ虚勢のように感じる。目に見えるわけではないけど、人間の肉体からびしびし出ている。
灯都はこの感じを誰かに説明できないし、しようとも思わない。ただ、この感じがなんなのかということをよく考える。人間が隠そうとしている感情が、見えるのでは無く、灯都に伝わって来るようなかんじ。この場合、うさみちゃん市の作法に慣れていない市外または国外からの観光客の〝わたしはこの街に慣れています〟という虚勢を張っているときの感情だ。とはいえ観光客の制服を着ているのだから、誰から見ても観光客なのだけど、彼らにとって〈誰かより劣っていない〉ということはとても重要なのだ。うさみちゃん市には何度も訪れていて、自分たちの暮らしている街とはまったく違うルールにもうすでに慣れている、という態度を取りたがるのだ。たとえば、広大なアミューズメントパークに何度も訪れているから庭のように振る舞うことができる、ということを周囲に誇示するのに似ている。
パステルピンクのガチャガチャの前に立っている人の脇をすれ違うとき、ものすごく強い恥のようなものを灯都は感じた。その人のふるまいにはたっぷりと自信があふれていた。けれど、肉体に表れていない強い恥が灯都に伝わってくる。その理由はわからない。この場所に、うさみちゃん市という街に肉体とか精神が馴染んでいない人間特有の恥のようなもの。それが彼らから伝わって来る。びしびし。灯都は無意識に首から提げている瑪瑙のペンダント型のデバイスを握りしめていることに気づく。
うさみちゃん市に移住して、この、なんとも説明しがたい〈感じ〉が、灯都の中である程度納得した。
〈脳に記憶はない〉。まだこの街は太陽光パネルが撤去されたばかりで、雑草だけが生い茂る平野だったころ、太陽光パネルをリサイクルする会社ができた。のちにその会社は買収されてブレインレイン社となるのだけど、全国から使用期限を過ぎたパネルが集められ、プレハブ小屋を備えた青空作業場でリサイクルのための作業が行われていた。見た目はスクラップ場とあまり違いはなかった。
太陽光パネルが撤去された痩せた土地はリサイクル会社が安く買い取って、そこを移住者へ提供していた。移住者は少なくなかったが、住むためにはあまりに不便な土地だったし、あまりになにもなかった。きらきらした新生活を期待して移住してきた人間のほとんどは三日持たずに出て行ってしまった。辺鄙にありなんの価値もない土地には資本が入らなかったので、残った移住者たちは自分たちのペースで暮らし、街をつくった。彼らのほとんどが、会社という社会的集団意識に馴染めない、あるいは排除された人間ばかりだった。そして彼らの馴染めなさは、彼らの能力にあった。彼らは直観に優れた職人たちだった。
直観はすべての計算にまさる。なにより、この地球、ないしは宇宙の秩序が瞬間的に〈差し込まれる〉のだから。世界のほとんどは二十世紀から二十一世紀にかけておおよそ数値化が進んだけれど、それでも計算にはある程度の時間がかかる。彼らにはその計算が不要だ。瞬間的に、すべての秩序が脳に差し込まれるから。――とはいえ、あるひとつの種別に限って。たとえば灯都は人の感情とか負の思考が差し込まれるし、和玖は計算なしに大きさの違う石やレンガを積み上げて大きなかたちを作ったり、タイルやガラスや木などの端材で美しい模様を床や壁に作ることができるし、絢吏は一瞬ですべてのにおいを嗅ぎ分けて分析し、それを再生産したり、環境や人間の動作に一番最適な香りを調合することができる。うさみちゃん市になる前から住んでいた移住者たちは、各々の能力を活かして暮らしていた。
ただし彼らはそれ以外の部分でぽんこつだった。ようするに、それ以外、社会で生活する上での能力――それも〈〝普通〟におもねる〉という一種の能力だ――が、まったくなかった。彼らが宇宙・自然から享受する〝絶対の美しさ〟に拘りすぎるあまり、周囲の意見を聞かず、集団の中ではスタンドプレーやただの我が儘、ただの傲慢と捉えられ、多くの職場で居場所を失ったことからも明らかだ。だから社会的集団意識の中で浮いてしまって、行き場が無くなって移住してきた人ばかりなのだった。
灯都が移住してきたときには、街の人口はたったの三十人だった。街の端に大きなスクラップ――リサイクル――工場があり、そのほかには和玖たちが建てているコンクリートの建造物(途中)、あとは住人たちが共同で暮らす倉庫のようなプレハブ小屋が数戸。それしかなかった。
住人は数人に分かれて共同生活をしていた。共同生活が嫌だという者もたくさんいたので――彼らはもともと一人を好む性質を持ち、誰かと一緒にいるだけで疲れる――、彼らはテントやタープを張って暮らしていた。灯都はキャンプに関する知識がいっこもなかったので、所有している車の内装をすこしずつ作り変えながら寝泊りできるようにして、ごはんを食べるときや、気の向いたときにはプレハブ小屋で過ごした。そこには料理人と、ビールの醸造を目指してホップの栽培をはじめた人が住んでいて、料理や酒は常にあった。
少ない住人たちだけで作り始めた街にはルールがなかった。大前提として日本国の法遵守は当然だが、見知らぬ人間同士が共同で暮らすためのローカルルールはまったくなかった。そんな中でいちはやくできたルールがあった。〈あらゆる物理的、機械的時計による共有時刻の排除〉。
住人たちは時間という資本主義的価値に合わせるのが苦手な者ばかりだったので、早々に時刻という概念は取っ払われた。そもそも、決められた時間に毎朝起床して、同じ時刻の電車に乗って、決められた時刻までにデスクに就いて仕事を始めて決められた時間まで解放されなくてしかもそれが定められた休日以外毎日続く、これに従うことの何がいったい〈正しい〉のだろうかということを、住人たちは深部で理解できずにいた。『そういうものだ』という欺瞞的マジックワードは彼らには一切通じなかった。
移住して、周囲に建物がなんにもない、ただ雑草が生い茂る平原のなかで暮らし始めた彼らは資本主義的時間というもののナンセンスさを痛切していた。一年を通して、まったく同じ日の出はないし、まったく同じ日の入りもない。まったく同じ天候の日もないし、気圧も、風の強さも、気温も、地球が人間に与える条件など無限にあるのに、それに逆らうように固定された概念の中で生きる、人間がつくった決定論へのコンコルディア。これを一言であらわすなら、ただの『あまりに意味のない迎合』だ。
一日は、朝日がのぼって夕日が沈むまでが昼で、それ以外は夜、それだけだった。時刻の概念がない中で、住人たちは昼が終わるころにわらわらと集まってきて、酒と夕食を楽しんだ。他愛のない話をしながら。
他愛のない話の中で、彼らのふたつめのルールが生まれた。それが『記憶は脳にない』というものだった。
時刻の概念に比べたら、ルールと呼ぶにはすこし違うかもしれない。だからこれは思想に近かった。
「ぜんぜん知らない顔の青年が夢に出てきたの。でも彼は、俺の知ってる固有名詞を持ってる人の概念なんだよね」
そう言ったのは瑚織だった。瑚織は音楽家の耳を持っている。天才的な耳には、人間が暮らす上で非常な辛苦をもたらす作用があった。この世にいつからか満ち満ちている、無駄のような音楽、BGM、それらが瑚織の集中を欠く。思考を乱して邪魔する。広告を強調する刺激のため、人間が集まるラウンジとか飲食店とかすべての〈場〉、あらゆるメディアで発信される映像も動画、これらには拒むことのできない無駄のような音楽がくっついている。無駄の象徴のような音の洪水のせいで、瑚織は毎日狂いそうだった。だからなにもない土地に移住してきた。自然音以外存在しないところに。
「夢ってたいてい知ってる人が出てくるけど。それ以外出てくることあんだね」
「でしょ。知らない人が出てくるのも不思議だし、そのひとがなぜか『俺の知ってる人』なわけ。なんかさ。ごっちゃになってるっていうかさ。情報が。でも俺、知らない人はぜんぜん知らないわけじゃん。夢って、脳の記憶によってつくられるとか言うじゃん。知らない人の記憶が脳に残ってるって変だよね?」
「脳はフィクションもつくるよ。てか、フィクションだらけだ」
たしかに人間の脳はつねにフィクションを上演し続けて、人間はそれに騙されながら生きている。とはいえ瑚織はもっと違う、『なんかへんなかんじ』がしたのだという。
「なんていうのかな。いっぱいある情報が俺の脳のなかで混ざり合ったっていうのかな。〝俺の記憶〟と、〝誰かの記憶〟と」
「ルドルフ・シュタイナーは睡眠中にアクセスできる高次の世界のことを言ってたけど、そういう世界にアクセスした感じ?」
「いやまあ、どうなんだろ。ただ、睡眠中だけとんでもない世界観とか、全然知らない人が脳の中に出てくんのは不思議だよね。日中に目覚めてるときは一切考えつかないことがさ。でもなんていうかな。まじで、他人の記憶にアクセスした、みたいなかんじは目が覚めてからめっちゃあったというか」
「えー。なにそれ。寝てるあいだに他人の記憶にアクセスできるってちょっとおもろいね。たとえば高次の世界に人類の記憶があって、そこでは記憶の持ち主がいない、つーかフリーアクセス」
「寝てるあいだと、昼間では海馬の活動部分が違うじゃん。それも関係あんのかな。起きてるあいだにその、高次の世界ってのにはアクセスできないんでしょ」
「いや、そういうスピリチュアルな話じゃないのよ。単純に誰かの記憶と俺の記憶が混信したの」
キャンプと野宿のあいだの、清貧と単純にものがない貧乏のあいだの、倉庫みたいな建物の中で酒を飲んで料理人がつくったシンプルで美しい料理を楽しみながら、灯都たちは睡眠中の夢についての考察を重ねた。それから睡眠中の人間について。それから、記憶について。「記憶とか経験ってほんとに脳に溜まってくと思う?」。灯都の酔いの質問。
「ようするに、記憶とか経験がいっこの肉体だけのものじゃない可能性もあるってこと?」
そう言った和玖は、環状に座る人々を見渡した。「ここにいるみんな、特化した技術を持ってる。それぞれ。その技術や経験が肉体の中に、脳の中に記憶として無いとしたら、この場で共有することも可能――」。なわけない。という目をした。全員が同じような目をして、表情で答える。そりゃそうだ。
とはいえ、たとえば誰かの思考を覗いたり、経験や技術を肉体の感覚への酷使なしに――努力なしに――得ることもできないけど、他人の感情を感じることはできる。と灯都は言った。それは灯都の物心ついた頃からずっとつきまとっている、他人の恥や隠したい気分――多くは後ろ向きな気分だ――を肌か、もしくは脳にびしびし感じることを指しているのではなかった。「怒ってる人は顔を見なくてもなんとなくわかるし。あと、泣いてる人が場に居ると、周囲が泣き出したりすることもあるし。感情の連鎖みたいなものはあるよね。言葉に出さなくても理解し合えるときもあるし」。
環状に座る一人が言う。「女性に限ってだけど、よく一緒にいる友人の生理が始まると、いきなりわたしの生理も始まるとか。その反対とか。そういうこともあるよ。感情とは少し違うけど」。
似たような経験を少なからず持つ女性たちは大きく頷いた。「だとしたら、なにかしらの、肉体に影響する情報を無意識に共有してるってことなのかな?」。「それって、脳から脳の共有とは違うよね」。「だとしたら他人の考えてることがまるわかりになる可能性だってあるもんね」。
意識や記憶はほんとうは脳に留まっているんじゃなくて、見えない空気中に点状に――たとえばいっこの記憶のもとになるものが点だとして――びっしり詰まってんじゃないかな? 夢の話を切り出した瑚織は真面目な顔で言った。なにもない空中で指をぴらぴらさせながら。まるでそこに音の情報をもったつぶつぶがあるみたいに。
「記憶を脳の中に持ってないのに、どやって思い出すの? あと、死にたいほど恥ずかしい記憶がいきなり蘇ってウワアアアアアってなるときは? あれって脳の内側からわーって湧き上がってくるように感じるけど」
それを聞いて灯都は無意識につぶやいていた。「電波。てか、脳波かな」。
「ああ、それなら考えやすいね。IIT《integrated information theory》的な。空気中、もしくは別次元としての〝クラウド〟に記憶とか経験とかの情報がいっぱい詰まってる。そこに、肉体は電波、脳波をつかってアクセスする」
「なるほど、そしたら思考は一人だけのものってことだ。脳波は人間に作用しないもんね。人間世界がデコヒーレンス、ディゾルブってこと」
「でも、その記憶とか情報は人間だけのものじゃないだろ? 生物はたくさんいるし、人間は二十世紀に爆発的に増えた。そのぶん記憶や情報も増えるわけだろ? 生きてる生物の記憶だけがここにあって、死んだらどうなるの? 記憶や情報も一緒に消えるの? それってものすごく……都合のいいファンタジーじゃね」
灯都は直観のような納得をおぼえていた。人間から発せられる、隠している感情の揺らぎのようなもの。あれが、〈記憶・情報〉が空気中にあると考えたとしたら? それを灯都が感じ取ってしまうとしたら? ある理由で、灯都の脳にやたらと〝他人の〟感情、気分が差し込まれるのはそのせいだとしたら? すべて納得出来る。人間の肉体からではなく、人間が〝クラウド〟としての情報庫とのやりとりをしているのが、灯都の脳に妨害電波のようなかたちで入り込んでいると考えると理解出来る。もしくはものすごく似た周波数の波形が干渉してるとか。
「たとえばだけど、地球上に、もっと言ったら一三七億光年の可視宇宙に限定するとしても、ここに住む生物すべて、というか情報をもつ有機体すべてだけど、それらの情報とか記憶とかがさ、宇宙の誕生からずっと増え続けるとするじゃん。あらゆる肉体が誕生して、死んでいくわけだから。肉体が死によって電波を失うことで、情報が切り離されるわけだから。てことは肉体はそのあと形を失うけど、情報そのものはまだ空気中にふよふよ浮かんでるってことだよね。そしたら、宇宙が膨張し続けてるのも理由がつくじゃん? 記憶、とか情報の次元が厚くなるというか。増加するというか。ちょっと専門的に言えないけど」
「宇宙の膨張に関するってのは正直わかんないけど、昔から『魂』って言葉があるじゃん。死んでもこの世に残り続けるってやつ。見たことないけど。それがいま言ってた記憶とか思考の情報と同じってこと?」
「同義かどうかわかんないけど、情報そのものは永遠に生きてるか、少なくとも肉体よりは寿命が長い。のかも」
「まあそういう次元が仮にあるとして、その記憶とか情報の海に、なぜか夢の中では自由にコンタクトできるとしたら、知らない人間が出てきたり、やたら詳細まで作り込まれた街並みとか建造物とか。それもまあ納得できるかも」
「でも、俺は日本語で話す夢しか見たことないや。この理論で言ったら、ぜんぜん知らない言語も出てくんじゃないの?」
「ようするにパス持ってないってだけじゃない? Wi-Fi的な。パスないと繋げないけど、IDはわかる。あと、電波の受信には限界がある。光も同じだろ、物体の陰には光は届かない」
肉体がもつ感情や意識は空気中に漂っている情報とリンクすることで発生する肉体の単なる反応で、個別にアクセス権を持つ脳波で繋がっている。感情や意識に関する情報はアクセスする肉体の周囲に近づいてきて、しばらくその近くをただよっている。アクセスの最優先度。その情報をまわりにいる人間も受け取り、怒りが相手に伝わったり、悲しみが伝播していくのかもしれない。
「てことは、意識の実感ってのは外部の、感情とか情報とか記憶とか、そういうのから影響を受けてんのかな。人間にはそういう実感がないままに。となると〈私〉はいったいなんなのか、っていう深い話になっちゃうんだけど。とはいえ単純に考えると、〈よくない記憶〉みたいなもんがみっしり詰まってるとこと、〈よい記憶〉みたいなもんがみっしり詰まってるとこ、どっちかに居ることで人間の考えかたそのものが変わってくるってことかな」
「朱に交わるみたいなことはあるよね」
「心地よく感じるひとと一緒にいると心地よくなるし、いつも悪だくみしてるようなひとと一緒にいると気分が悪くなる。それも、どの情報にアクセスしてるひとの近くにいるか、とか、環境に身を置くか、みたいな肉体側の選択によって違う」
そこで和玖が初めて口を開いた。「とはいえ。『運』の要素は?」。
「運は……なんだろね。抗えないもの。無意識に影響を受けるもの」
シードルをボトルから注いで貰っている阿嵐がほんのり酔った瞼に笑いを浮かべて、発言しようと口を開く前にグラスから一口飲んだ。スキンヘッドの、緩やかに尖って見える頭蓋のてっぺんに、明るすぎない照明の反射が白く溜まっている。彼はうさみちゃん市にある山を毎日巡って、森林の管理をしている。かつては鉱物が採れたという山ではいまでも水晶とか瑪瑙とかホタル石があり、灯都たちが着けているペンダント型のデバイスに使われているのはその山で阿嵐が採った瑪瑙や水晶だ。
「木とか植物には豊作の年と凶作の年があるけど、運っていうのはそれに近いと思うな。自然の一部で、人間にはどうすることもできない。そのサイクルは神のみぞ知るから。でも、凶作の年には表面的にはなにも起こってないように見えるけど、着実に次の年への準備は進められてる。豊作の年に鳥が運んでった種が土から芽を出そうとしてたり」
「そっか。波みたいなもんだね。意識することはぜんぜんないけど、山にも海にも波のようなサイクルが常にある。もちろんここにも在るべきだよね。同じ自然界だから」
記憶。情報。運。それらの話が酔いと場の高揚によってあらたな枝葉を広げて、灯都たち住人は新しいルールをまとめはじめた。
「だったら、この新しい街には楽しくて嬉しくて安全でしあわせ、みたいな気分だけで過ごす人だけで形成したら、ずっとみんな楽しくて嬉しくて安全で幸せな気分になんのかもね」
記憶は脳になくて、すべての感情につながる情報が空気中に、あるいはすぐそばにある別の次元にあるのなら、それが人間の脳、肉体に影響するのなら、そういうことになる。だったらそういう街にしてみよう。その日の議論はそんなふうにして終わった。
この街に移住してきた少ない人々は、性格的特徴を言うならINTJが多い。彼らは目立つことを嫌う。誰にも考えつかない素晴らしいアイデアも、第三者へ披露しようとしない。する必要を感じていない。アイデアはすべて彼らの中に留まって、彼らの満足のためだけに存在している。灯都をはじめ、もともとの住民たちは生活にはまるで役に立たないリダンダンシーな議論を毎晩交わし合い、住民たちのルールがひとつずつ決まっていった。〈記憶は脳にはない〉、〈共通する時刻は必要ない〉、〈美しい魂は美しい情報世界とのアクセスで得られる〉、〈運のような人間に制御できないものがあり、それらに身を任せる生き方が自然とのつきあいかた〉それらが住民たちのルールとなり、彼らは自分が楽しいと思うことだけをして暮らしていた。したいことだけをして。毎日を気分よく過ごすだけ。そのぶん自分自身を厳しく律する。周囲に迷惑はかけない。そうして、うさみちゃん市の土台ができあがっていったのだ。
灯都がいまガチャガチャ施設を訪れる観光客からびしびし感じているものも、可視宇宙のなかを漂う〈情報〉の、肉体に惹きつけられた情報による〈感情〉の表面に触れたのかもしれない。
ふと廿四の番号がくっついたガチャガチャの筐体が灯都の目に入ったので、吸い込まれるようにその前に立って、次の瞬間にはレバーをまわしていた。パステルオレンジの筐体の中でいくつものプラスティック球体同士が擦れあう音ががしゃがしゃと鳴って、いっこの球体が吐き出された。南半球と北半球をひねって地球を半分に割る。中から出てきたのはうさみちゃんおみくじだった。『吉』。生まれてからずっと日本に住んでいるのに、お正月や、ことあるごとに神社を訪ねておみくじをひくことはあるのに、いまだに吉が大吉と大凶のあいだの、どのへんをあらわすのかわからなかったので灯都はウィルにたずねた。ウィルはすぐに答えてくれる。「大吉のつぎに良いのが吉だよ。うさみちゃんおみくじの場合、そこに書いてある言葉もだいじだから読んだほうがいいよ」。
ウィルがそう言うので、長細いおみくじの下部にあるうさみちゃんの言葉を読む。『よけいな考えにとらわれてない? 取り越し苦労は運気低下のもと。今日はお水をたくさん買うといいことがある日だよ』。そして、おみくじは灯都の首から下がってる瑪瑙のペンダント型デバイスに反応して、あらたな文字を浮かび上がらせる。『うさみちゃんのお水を買いますか?』。選択肢はふたつ。『うさみちゃんのお水単品をすぐに受け取る』『うさみちゃんのお水二十四本入りを自宅に届ける』
灯都はそのすべてを無視して、いちごの形の建物の出口へと向かった。ガチャガチャをまわしたくなったのは、この空間を演出しているにおいと音のせいだ。と思いながら。
「やっほー灯都。そっちは




