第2章 夜のログアウト
失った居場所を見つめながら、環は静かに心の整理をしています。
誰かを責めるでもなく、自分を責めるでもなく、
ただ“受け入れる”という優しさを描きました。
ほんの少しでも、穏やかな気持ちで読んでいただけたら嬉しいです。
デスクの上に置かれた社員証を、
環はしばらく見つめていた。
小さなカードの中に、
3年間の時間が詰まっている気がした。
毎朝の出勤。
メールの確認。
カフェテリアでの休憩。
それは特別なことではなく、
ただ“平凡で安心な日々”だった。
その日々が、
ほんの1つのログの誤りで、
あっけなく崩れ落ちてしまった。
「信じてもらえない」
それが、これほど痛いことだとは思わなかった。
大塚部長は最後まで、何かを言いかけて言葉を飲み込んだ。
その沈黙の意味が分かるほど、
環もこの会社の仕組みを知っていた。
――誰かが責任を取らなければならない。
その“誰か”が、たまたま自分だった。
午後9時。
人気のないオフィスを、清掃員のモップの音だけが静かに通り過ぎる。
外の夜景は、仕事を終えた人々の光が瞬いていた。
環はパソコンの画面に手を伸ばした。
「アカウントをログアウトしますか?」
というメッセージが、淡くブルーに光っている。
「……はい。」
クリック音が、
まるで心の中で小さく扉が閉まる音のように響いた。
画面が暗転する。
自分の居場所が消えていく感覚。
それでも、不思議と涙は出なかった。
「私、何か間違ってたのかな……」
声に出すと、
空気の中でその言葉がひとり歩きした。
カフェテリアで飲んだ紅茶の香りが、
ふと記憶の奥に蘇る。
誰かに見られていたような気がした、あの日の午後。
それはただの錯覚かもしれない。
でも今思えば、
あの“視線”は、この結末の始まりだったのかもしれない。
環は小さく息を吸い、
カードキーを封筒に入れた。
封を閉じる音が、静かに響く。
「――ありがとう。」
誰にともなくそう呟いて、
彼女はクロノス・ソリューションズのドアを後にした。
夜風がビルの谷間を吹き抜け、
どこか遠くで時計の針がひとつ進む音がした。
そしてその瞬間、
別のフロアの暗がりで、
ひとりの男がパソコンの画面を見つめていた。
“Access Log — 2025/05/18 — Manual Override : Success”
モニターの光が、その顔の輪郭を照らす。
口元に浮かぶのは、
感情を持たない、薄い笑み。
環はまだ知らない。
自分の“退職”が、
誰かにとっての“始まり”でもあることを。
ご読了ありがとうございます。
この夜の静けさが、環にとって新しい扉を開くきっかけになります。
ほんの小さな決意が、やがて大きな光につながっていく。
どうぞ次章でも、彼女の一歩を見守ってください。




