第1章 罪をなすりつけられた日
いつもの朝、いつもの職場。
けれど、当たり前の日常は、ある瞬間を境に静かに色を変えていきます。
環という女性の視点から、理不尽な出来事の中にある“心の声”を描きました。
静かに読み進めていただけたら嬉しいです。
蛍光灯の光が、書類の白をさらに白くしていた。
クロノス・ソリューションズのオフィスは、いつも規則正しい。
端末の起動音が同じテンポで並び、プリンターの駆動音さえリズムを刻むように響く。
その整然とした音の波の中で、三浦環はひとり静かにパソコンの画面を見つめていた。
朝のメールチェック。
受信ボックスにはすでに50件を超える連絡が並び、
その半分が「【至急】」「【重要】」「【確認願い】」。
クロノスでは、それが“日常”だった。
――今日も、何事もなく終わりますように。
心の中で小さくつぶやき、
いつものように業務をこなしていた、その矢先だった。
「三浦さん、ちょっと来てもらえる?」
総務部の小川主任が無表情に呼ぶ声。
声色には、いつもと違う張りがあった。
会議室に入ると、部長の大塚柊真と、情報管理課の八嶋が待っていた。
机の上には一枚の紙。
そこには、環のアカウント名とアクセスログが印字されていた。
“誤送信:顧客データファイル(外部宛)”
“送信者:Miura.Tamaki@chronos.co.jp”
「この件、説明してもらえるかな。」
大塚の声は穏やかだが、
その裏にある“会社の重さ”が、容赦なく響いていた。
環は息をのんだ。
そんなメールを送った記憶はない。
ましてや、添付ファイルに顧客情報が入っているなど、考えられなかった。
「……わたしじゃありません。
確かに昨日そのデータを触りましたが、送信までは――」
「でも、ここにログがあるんだ。」
情報管理課の八嶋が無機質に言う。
淡々とした声が、氷のように冷たかった。
「システム上では、あなたの端末から送信されたことになっている。」
「違います、そんなこと――」
言いかけた言葉が震えた。
誰も、彼女の声に耳を傾けていなかった。
すでに“結論”は出ているようだった。
沈黙の中で、大塚が静かに眼鏡を外す。
その仕草に、環はすべてを悟った。
「……しばらく自宅待機という形を取らせてもらう。
調査の結果が出るまでは、会社に来ないでほしい。」
“謹慎処分”。
その言葉が、透明な刃のように心に突き刺さる。
帰り際、ガラス越しの廊下に映る自分の姿が歪んで見えた。
足元がふらつく。
けれど、泣いてはいけないと思った。
ここで涙を見せたら、本当に“罪を認めた人間”になってしまう気がしたから。
パソコンに残された送信時刻のログ。
それは、彼女が自宅に帰った後の時間を指していた。
“誰かが――私の名を使った。”
確信はあった。
けれど、その言葉を信じてくれる人は、まだどこにもいなかった。
クロノス・ソリューションズの夜は長く、
ガラスの壁に映るネオンの光だけが、
彼女の沈黙を見ていた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
この章で描かれた出来事は、環の中で“感情”という欠片を揺らす最初のきっかけになります。
次の章では、彼女が静かにひとつの決断を下します。
優しい夜の風のように、少しでも穏やかな余韻が残りますように。




